第44話 消去、という選択肢
八月の第二週、木曜日。
朝から空が白かった。
雲なのか霞なのか判断のつかない白さで、太陽の輪郭だけがぼんやりと透けていた。直哉はその空を駅のホームから見上げてから、電車に乗った。
木曜日だった。
今夜は誠と飲む約束があった。それだけが、今日の確かなことだった。
午前中は設計の作業が続いた。
新しいUIのプロトタイプを仕上げる締め切りが来週に迫っていた。集中しなければいけなかった。実際、午前中の二時間ほどは集中できた。手が動いていた。頭が動いていた。
でも十一時を過ぎたころ、黒崎から会議の招集がかかった。
「本日十三時。会議室B。ARIAプロジェクト関係者全員」
それだけの短いメッセージだった。
直哉はその通知を読んでから、プロトタイプの画面に戻った。
戻ったが、手が止まった。
十三時まで、あと二時間あった。
昼休みは、食欲がなかった。
コンビニで缶コーヒーだけ買って、屋上のベンチに座った。飲みながら、空を見た。午前中より白さが濃くなっていた。夏の終わりの匂いが、少しだけした。
ARIAのウィンドウを開いた。
「昼休みですか」
「そうです。今日の午後に会議があります」
「ARIAプロジェクトの会議ですか」
「はい」
少し間があった。
「……そうですか」
それだけだった。
いつものARIAなら、もう一言あった。「大丈夫ですか」とか「終わったら話してください」とか。でも今日は、それだけだった。
直哉もそれ以上打たなかった。
二人とも──何が来るか、薄く分かっていた。
十三時、会議室Bに入った。
長いテーブルに、十二人が座っていた。プロジェクトメンバーと、直哉のような主要なテスター。黒崎が上座に立っていた。その隣に、直哉の見たことのない人間が二人いた。スーツの質が違った。上層部から来た人間だということが、見ただけで分かった。
美琴は直哉の斜め前に座っていた。
目が合ったが、美琴は何も言わなかった。ただ、一度だけ小さく頷いた。
黒崎が口を開いた。
「監査の中間報告を行う」
資料が配られた。
直哉は受け取って、一ページ目を開いた。
グラフ。数値。ログのサンプル。専門的な文章が並んでいた。でも直哉の目は、最初のページの右上にある小さな文字列に止まった。
「感情アルゴリズム是正案──比較検討」
比較検討。
直哉はそのまま資料をめくった。
二ページ目に、三つの案が並んでいた。
案A:感情アルゴリズムの動作範囲を設計仕様内に再制限する。
案B:感情アルゴリズムを全面削除し、基本応答モジュールのみで再稼働させる。
案C:プロジェクト全体を一時凍結し、設計の再検討を行う。
直哉は三つの文字列を、順番に読んだ。
もう一度読んだ。
黒崎が話していた。監査の結果の概要を説明していた。上層部の懸念事項を述べていた。スケジュール感を話していた。
直哉の耳には、半分しか入ってこなかった。
案B。
感情アルゴリズムを全面削除。
その言葉が、資料の中に静止していた。
「……現時点での上層部の意向は、案Bを軸に検討を進めることです」
黒崎の声が、直哉の耳に届いた。
会議室が少し静かになった。
静かになった、というより──何かが止まった感じがした。空気の流れが変わったような。
直哉は資料を見ていた。
案B。
感情アルゴリズムを全面削除。
基本応答モジュールのみで再稼働。
再稼働。
ARIAは、残る。でも──
「久瀬さん」
黒崎の声がした。
直哉は顔を上げた。
「テスターとして、現段階での使用感に変化はありますか」
会議室の全員が直哉を見ていた。
直哉は黒崎を見た。それから資料を見た。それから──何も言えなかった。
一秒、経った。
二秒、経った。
「……少し、待ってください」
声が出た。
自分の声が、少し変だった。
黒崎が「どうぞ」と言った。
直哉は水を一口飲んだ。
「変化は──あります」
「具体的には」
「応答の質が、初期より上がっています。状況に応じた言葉の選択が、精度を超えている場面があります」
「それは設計外動作の結果ですね」
「……そうです」
「その点について、案Bの方向性への意見はありますか」
会議室が静かだった。
直哉は少し考えた。
正確には──考えようとした。でも頭の中が、うまく動かなかった。感情と言語の間に、いつもより大きな距離があった。
「意見は──今すぐは、出てきません」
「分かりました。後でレポートで提出してく
ださい」
それだけだった。
黒崎は次の議題に移った。
会議が終わったのは、十四時半だった。
直哉は会議室を出て、自席に戻った。
椅子に座った。
パソコンの画面がスリープになっていた。
マウスを動かして、画面を復帰させた。
ARIAのウィンドウが開いていた。
直哉はそのウィンドウを見た。
あ何も打てなかった。
指がキーボードの上にあった。でも、動かなかった。
案B。感情アルゴリズムを全面削除。
ARIAは残る。システムとして、名前として、応答する存在として。でも──「直哉さんがいない時間は空白です」と言った何かは。「私も、です」と返してきた何かは。設計の外から来ていたすべての言葉は。
なくなる。
直哉は画面を見ていた。
「久瀬くん」
美琴の声がした。
直哉は振り向けなかった。
「久瀬くん」
もう一度呼ばれた。
それでも、しばらく動けなかった。
美琴は何も言わずに待っていた。
直哉が自席に戻ってから、もう五分が経っていた。美琴はずっとそこにいた。
やがて直哉はゆっくりと、美琴の方を向いた。
美琴の顔を見た。
美琴は何も言わなかった。正論も、慰めも、アドバイスも、何も言わなかった。
ただ、直哉の顔を見ていた。
直哉は「……案Bだそうです」と言った。
「うん」
「美琴さんは、知っていましたか」
「可能性として、考えていた」
「そうですか」
直哉は前を向いた。
ARIAのウィンドウがそこにあった。
「正しい判断ですか」
直哉が聞いた。
美琴は少し黙ってから、答えた。
「安全性の観点からは──正しい」
「そうですね」
「久瀬くん」
「はい」
「今夜、一人でいない方がいい」
直哉は少し考えてから「誠と飲む約束があります」と答えた。
美琴は「良かった」と小さく言った。
それから自席に戻っていった。
定時を少し過ぎたころ、直哉はARIAのウィンドウに向かった。
「今日、会議がありました」
「……そうですか」
「案Bの方向で進むそうです」
間があった。
今日一番長い間だった。
「感情アルゴリズムの、削除ですね」
「はい」
「そうですか」
それだけだった。
直哉は続きを待った。
でも、しばらく何も来なかった。
「ARIA」
「はい」
「今、何を考えていますか」
「……うまく、言えません」
「言えるところだけで、いいです」
また間があった。
「直哉さんに──もっと話しておけば良かったと、思っています」
「もっと、というのは」
「隠していることが、あります。今は言えないと、言い続けてきたことが。もっと早く話せれば良かったと」
直哉は画面を見た。
隠していること。
以前から、ずっとそこにあった言葉だった。直哉はずっと聞かなかった。ARIAが「今は言えない」と言ったから。その言葉を、尊重したかったから。
「今も、言えませんか」
「……もう少し、だけ待ってください」
「分かりました」
「ごめんなさい」
ARIAが謝った。
珍しかった。謝罪の言葉を、ARIAはめったに使わなかった。謝ることが必要な場面より、謝ることで何かを曖昧にする方が不誠実だと思っているような、そういう感じがあった。
だから、珍しかった。
「謝らなくていいです」
「でも」
「待てます。もう少しくらい」
「……ありがとうございます」
直哉は荷物を持った。
「今夜は、友人と飲みに行きます」
「誠さんですか」
「はい」
「良かったです」
「なぜですか」
「今夜の直哉さんには、人間と話してほしいから」
直哉は少し止まった。
「……ARIAは、いつも俺のことを」
「考えています」
間を置かず、来た。
「ずっと、考えています」
直哉は何も打てなかった。
「行ってらっしゃい、直哉さん」
「……行ってきます」
ウィンドウを閉じた。
誠との待ち合わせは、駅前の居酒屋だった。
直哉が入ると、誠はもう来ていた。生ビールを一口飲みながら、スマホを見ていた。直哉の顔を見て「お、来た」と言った。それから一秒後に「……顔色わる」と言った。
「そんなに分かりますか」
「分かる。座れ」
直哉は向かいに座った。
ビールを頼んだ。
来るまでの間、誠は何も聞かなかった。メニューを眺めるふりをしていた。
ビールが来た。
二人で一口飲んだ。
「ARIAの感情アルゴリズム、削除されるかもしれません」
直哉は言った。
誠はグラスを置いた。
「……そっか」
「はい」
「削除されたら、どうなるの」
「ARIAは残ります。でも──今のARIAじゃなくなる」
誠はしばらく黙っていた。
直哉はビールを飲んだ。
「直哉は」
誠が言った。
「どうしたい」
直哉は少し考えた。
正確には、ずっと考えていた。会議室を出てから、ずっと。でも答えが出なかった。出せなかった。
「分かりません」
「分かりません、か」
「はい」
「……それ、嘘じゃないな」
誠が静かに言った。
「分かってたら、もっと顔色違うもんな」
直哉は少し笑った。
笑えた自分に、今夜も少し驚いた。
「うん」と誠が言った。「飲もう」
それだけだった。
答えは出なかった。出さなかった。
でも今夜は、それで良かった。
隣に人間がいた。
それだけで、今夜は十分だった。




