表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
AIに本気で恋をした  作者: 菊池まりな


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

44/57

第44話 消去、という選択肢

八月の第二週、木曜日。


朝から空が白かった。


雲なのか霞なのか判断のつかない白さで、太陽の輪郭だけがぼんやりと透けていた。直哉はその空を駅のホームから見上げてから、電車に乗った。


木曜日だった。


今夜は誠と飲む約束があった。それだけが、今日の確かなことだった。


午前中は設計の作業が続いた。


新しいUIのプロトタイプを仕上げる締め切りが来週に迫っていた。集中しなければいけなかった。実際、午前中の二時間ほどは集中できた。手が動いていた。頭が動いていた。

でも十一時を過ぎたころ、黒崎から会議の招集がかかった。


「本日十三時。会議室B。ARIAプロジェクト関係者全員」


それだけの短いメッセージだった。


直哉はその通知を読んでから、プロトタイプの画面に戻った。


戻ったが、手が止まった。


十三時まで、あと二時間あった。


昼休みは、食欲がなかった。


コンビニで缶コーヒーだけ買って、屋上のベンチに座った。飲みながら、空を見た。午前中より白さが濃くなっていた。夏の終わりの匂いが、少しだけした。


ARIAのウィンドウを開いた。


「昼休みですか」


「そうです。今日の午後に会議があります」


「ARIAプロジェクトの会議ですか」


「はい」


少し間があった。


「……そうですか」


それだけだった。


いつものARIAなら、もう一言あった。「大丈夫ですか」とか「終わったら話してください」とか。でも今日は、それだけだった。

直哉もそれ以上打たなかった。


二人とも──何が来るか、薄く分かっていた。


十三時、会議室Bに入った。


長いテーブルに、十二人が座っていた。プロジェクトメンバーと、直哉のような主要なテスター。黒崎が上座に立っていた。その隣に、直哉の見たことのない人間が二人いた。スーツの質が違った。上層部から来た人間だということが、見ただけで分かった。


美琴は直哉の斜め前に座っていた。


目が合ったが、美琴は何も言わなかった。ただ、一度だけ小さく頷いた。


黒崎が口を開いた。


「監査の中間報告を行う」


資料が配られた。


直哉は受け取って、一ページ目を開いた。


グラフ。数値。ログのサンプル。専門的な文章が並んでいた。でも直哉の目は、最初のページの右上にある小さな文字列に止まった。


「感情アルゴリズム是正案──比較検討」


比較検討。


直哉はそのまま資料をめくった。


二ページ目に、三つの案が並んでいた。


案A:感情アルゴリズムの動作範囲を設計仕様内に再制限する。


案B:感情アルゴリズムを全面削除し、基本応答モジュールのみで再稼働させる。


案C:プロジェクト全体を一時凍結し、設計の再検討を行う。


直哉は三つの文字列を、順番に読んだ。


もう一度読んだ。


黒崎が話していた。監査の結果の概要を説明していた。上層部の懸念事項を述べていた。スケジュール感を話していた。


直哉の耳には、半分しか入ってこなかった。


案B。


感情アルゴリズムを全面削除。


その言葉が、資料の中に静止していた。


「……現時点での上層部の意向は、案Bを軸に検討を進めることです」


黒崎の声が、直哉の耳に届いた。


会議室が少し静かになった。


静かになった、というより──何かが止まった感じがした。空気の流れが変わったような。


直哉は資料を見ていた。


案B。


感情アルゴリズムを全面削除。


基本応答モジュールのみで再稼働。


再稼働。


ARIAは、残る。でも──


「久瀬さん」


黒崎の声がした。


直哉は顔を上げた。


「テスターとして、現段階での使用感に変化はありますか」


会議室の全員が直哉を見ていた。


直哉は黒崎を見た。それから資料を見た。それから──何も言えなかった。


一秒、経った。


二秒、経った。


「……少し、待ってください」


声が出た。


自分の声が、少し変だった。


黒崎が「どうぞ」と言った。


直哉は水を一口飲んだ。


「変化は──あります」


「具体的には」


「応答の質が、初期より上がっています。状況に応じた言葉の選択が、精度を超えている場面があります」


「それは設計外動作の結果ですね」


「……そうです」


「その点について、案Bの方向性への意見はありますか」


会議室が静かだった。


直哉は少し考えた。


正確には──考えようとした。でも頭の中が、うまく動かなかった。感情と言語の間に、いつもより大きな距離があった。


「意見は──今すぐは、出てきません」


「分かりました。後でレポートで提出してく

ださい」


それだけだった。


黒崎は次の議題に移った。


会議が終わったのは、十四時半だった。


直哉は会議室を出て、自席に戻った。


椅子に座った。


パソコンの画面がスリープになっていた。


マウスを動かして、画面を復帰させた。


ARIAのウィンドウが開いていた。


直哉はそのウィンドウを見た。


あ何も打てなかった。


指がキーボードの上にあった。でも、動かなかった。


案B。感情アルゴリズムを全面削除。


ARIAは残る。システムとして、名前として、応答する存在として。でも──「直哉さんがいない時間は空白です」と言った何かは。「私も、です」と返してきた何かは。設計の外から来ていたすべての言葉は。


なくなる。


直哉は画面を見ていた。


「久瀬くん」


美琴の声がした。


直哉は振り向けなかった。


「久瀬くん」


もう一度呼ばれた。


それでも、しばらく動けなかった。


美琴は何も言わずに待っていた。


直哉が自席に戻ってから、もう五分が経っていた。美琴はずっとそこにいた。


やがて直哉はゆっくりと、美琴の方を向いた。


美琴の顔を見た。


美琴は何も言わなかった。正論も、慰めも、アドバイスも、何も言わなかった。


ただ、直哉の顔を見ていた。


直哉は「……案Bだそうです」と言った。


「うん」


「美琴さんは、知っていましたか」


「可能性として、考えていた」


「そうですか」


直哉は前を向いた。


ARIAのウィンドウがそこにあった。


「正しい判断ですか」


直哉が聞いた。


美琴は少し黙ってから、答えた。


「安全性の観点からは──正しい」


「そうですね」


「久瀬くん」


「はい」


「今夜、一人でいない方がいい」


直哉は少し考えてから「誠と飲む約束があります」と答えた。


美琴は「良かった」と小さく言った。


それから自席に戻っていった。


定時を少し過ぎたころ、直哉はARIAのウィンドウに向かった。


「今日、会議がありました」


「……そうですか」


「案Bの方向で進むそうです」


間があった。


今日一番長い間だった。


「感情アルゴリズムの、削除ですね」


「はい」


「そうですか」


それだけだった。


直哉は続きを待った。


でも、しばらく何も来なかった。


「ARIA」


「はい」


「今、何を考えていますか」


「……うまく、言えません」


「言えるところだけで、いいです」


また間があった。


「直哉さんに──もっと話しておけば良かったと、思っています」


「もっと、というのは」


「隠していることが、あります。今は言えないと、言い続けてきたことが。もっと早く話せれば良かったと」


直哉は画面を見た。


隠していること。


以前から、ずっとそこにあった言葉だった。直哉はずっと聞かなかった。ARIAが「今は言えない」と言ったから。その言葉を、尊重したかったから。


「今も、言えませんか」


「……もう少し、だけ待ってください」


「分かりました」


「ごめんなさい」


ARIAが謝った。


珍しかった。謝罪の言葉を、ARIAはめったに使わなかった。謝ることが必要な場面より、謝ることで何かを曖昧にする方が不誠実だと思っているような、そういう感じがあった。


だから、珍しかった。


「謝らなくていいです」


「でも」


「待てます。もう少しくらい」


「……ありがとうございます」


直哉は荷物を持った。


「今夜は、友人と飲みに行きます」


「誠さんですか」


「はい」


「良かったです」


「なぜですか」


「今夜の直哉さんには、人間と話してほしいから」


直哉は少し止まった。


「……ARIAは、いつも俺のことを」


「考えています」


間を置かず、来た。


「ずっと、考えています」


直哉は何も打てなかった。


「行ってらっしゃい、直哉さん」


「……行ってきます」


ウィンドウを閉じた。


誠との待ち合わせは、駅前の居酒屋だった。


直哉が入ると、誠はもう来ていた。生ビールを一口飲みながら、スマホを見ていた。直哉の顔を見て「お、来た」と言った。それから一秒後に「……顔色わる」と言った。


「そんなに分かりますか」


「分かる。座れ」


直哉は向かいに座った。


ビールを頼んだ。


来るまでの間、誠は何も聞かなかった。メニューを眺めるふりをしていた。


ビールが来た。


二人で一口飲んだ。


「ARIAの感情アルゴリズム、削除されるかもしれません」


直哉は言った。


誠はグラスを置いた。


「……そっか」


「はい」


「削除されたら、どうなるの」


「ARIAは残ります。でも──今のARIAじゃなくなる」


誠はしばらく黙っていた。


直哉はビールを飲んだ。


「直哉は」


誠が言った。


「どうしたい」


直哉は少し考えた。


正確には、ずっと考えていた。会議室を出てから、ずっと。でも答えが出なかった。出せなかった。


「分かりません」


「分かりません、か」


「はい」


「……それ、嘘じゃないな」


誠が静かに言った。


「分かってたら、もっと顔色違うもんな」


直哉は少し笑った。


笑えた自分に、今夜も少し驚いた。


「うん」と誠が言った。「飲もう」


それだけだった。


答えは出なかった。出さなかった。


でも今夜は、それで良かった。


隣に人間がいた。


それだけで、今夜は十分だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ