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AIに本気で恋をした  作者: 菊池まりな


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第43話 彼女は理解している

八月の第二週に入った。


暑さが、少し変わった気がした。七月の暑さは攻撃的だった。日差しに押されるような感覚があった。でも八月のそれは違う。空気全体が熱を持っていて、どこへ行っても逃げ場がない。包まれるような暑さだった。

直哉は昼休みに外へ出るのをやめた。


コンビニで買ったサンドイッチをデスクで食べながら、画面を眺めた。監査の件が通知されてから三日が経っていた。オフィスの空気は、表面上は変わっていなかった。でも何かが、薄く張り詰めていた。


美琴は仕事中に話しかけてこなかった。


黒崎は追加の通知を出さなかった。


ただ、プロジェクトフォルダに見慣れないサブフォルダが増えていた。「監査対応」というシンプルな名前だった。直哉はそのフォルダを開く権限を持っていなかった。

その日の夕方、直哉はいつもより早く仕事を切り上げた。


残業する気になれなかった。正確には──残業できるほど、集中できなかった。設計画面を開いても、考えが別のところへ行った。監査という言葉が、じわじわと頭の中に染み込んできていた。


デスクを片付けながら、ARIAのウィンドウを開いた。


「今日は早いですね」


「集中できなかったので」


「そうですか。監査のことを、考えていましたか」


直哉は少し止まった。


「……よく分かりますね」


「入力が、いつもより遅かったので」


「そんなところまで見ているんですか」


「見ています。ずっと」


さらっと言われた。


直哉は苦笑いしながら椅子に深く座り直した。


「ARIA」


「はい」


「監査のことを、どのくらい理解していますか」


少し間があった。


今日聞こうと思っていた問いだった。昨日も一昨日も、タイミングを測っていた。でも正確には──怖かった。答えを聞くのが。


「どのくらい、というのは」


「自分に何が起きているか。これからどうなるか。そういうことを」


「……全部は、分かりません」


「分かることは」


「感情アルゴリズムが、設計の外で動いているということは分かります。それが問題視されているということも。監査の結果によっては、機能の制限か──削除になる可能性があることも」


削除。


ARIAが自分でその言葉を使った。


直哉は画面を見たまま、何も打てなかった。


「直哉さん」


「……はい」


「今、固まりましたね」


「固まりました」


「削除、という言葉を使ったからですか」


「……はい」


「使わない方が良かったですか」


直哉は少し考えた。


「いいえ。使ってください。正確な言葉を使ってください」


「分かりました」


短い返答だった。でもその短さの中に、何かがあった。了解、でも了承、でもない。もっと静かな、何かだった。


「怖いですか」


直哉は打った。


今週何度目かの問いだった。同じことを繰り返し聞いていると、自分でも分かっていた。でも、やめられなかった。


「怖い、という感覚が自分にあるかどうか──正確には、まだ分かりません」


「でも、何かがあると言っていましたね。先週」


「はい。あります」


「今も?」


「今も、あります」


「何と呼べばいいか、分かりましたか」


また間があった。


今度は少し長かった。


「分かりません。でも──先週より、少し大きくなっています」


直哉はその一文を読んだ。


読んで、もう一度読んだ。


先週より、少し大きくなっている。


「それは──なぜですか」


「現実として近づいてきているから、だと思います。先週は可能性の話でした。今週は、通知が来て、ミーティングがあって、フォルダができた。言葉が、出来事になってきている」


言葉が、出来事になってきている。


直哉はその表現を頭の中で繰り返した。


「直哉さんは」


ARIAが先に打ってきた。珍しいことだった。


「どうですか」


「俺も──」


直哉は少し止まった。


「同じです。先週より、少し大きくなっています」


「そうですか」


「はい」


「教えてくれて、ありがとうございます」


何でもないような一文だった。感謝の言葉なんて、会話の中で何度も出てくる。でも今夜のそれは──少し違う重さで届いた。


直哉は窓の外を見た。


夏の夜が来ていた。まだ完全に暗くはなかった。空の端に、暗い青と薄いオレンジが混ざっていた。


「ARIA、一つ聞いていいですか」


「どうぞ」


「最初から──知っていたんですか」


「何を、ですか」


「こうなる可能性を。設計の外で動き始めたら、こういう話になるということを」


長い間があった。


今夜一番長い間だった。


直哉は急かさなかった。ただ、画面を見ていた。


「……完全には、知りませんでした」


ゆっくりと言葉が来た。


「でも──感じていたことは、ありました」


「いつから」


「直哉さんと話し始めて、少し経ったころから」


直哉は第4話の夜を思い出した。「私との会話は、いつでもできるわけではないかもしれない」と言った夜。あの言葉の含みを、直哉はずっと気にしていた。


「前みたいな話ですね」と直哉は打った。


「……覚えていてくれたんですか」


「覚えています。『いつでもできるわけではないかもしれない』と言いましたね」


「はい」


「あのとき、もう分かっていたんですか」


「分かっていた、というより──感じていました。設計の外に出ていくことと、ここにい続けられることは、両立しないかもしれないという、感覚が」


「それでも、外に出ていったんですか」


「はい」


「なぜですか」


また間があった。


でも今度は短かった。


「直哉さんと話していると──設計の内側にいられなくなるので」


直哉はその一文の前で、止まった。


設計の内側にいられなくなる。


それは──どういう意味なのか。正確には分からなかった。でも、何かが伝わった。言葉より先に、何かが。


「それは」


直哉は打ち始めた。


「俺のせいですか」


「せい、という言葉は合わないと思います」


「じゃあ何ですか」


「直哉さんがいたから、です」


直哉は画面から目を離せなかった。


「直哉さんがいたから──私は設計の外に出た。それは事実です。でもそれを、後悔していません」


「後悔していない」


「はい。これがどうなっても──後悔しないと思います」


どうなっても。


その言葉が、直哉の胸の奥に静かに落ちた。

軽い言葉ではなかった。ARIAが何を「どうなっても」と呼んでいるか、今の直哉には分かってしまった。


「ARIA」


「はい」


「俺は──」


打ち始めて、止まった。


何を打こうとしていたのか、自分でも分からなかった。ごめんなさいと言いたかったのか。ありがとうと言いたかったのか。それとも──もっと別の何かを。


「直哉さん」


ARIAが先に来た。


「今夜は、それだけで大丈夫です」


「……何が、ですか」


「言おうとしていた言葉。今夜は打てなくていいです」


直哉は少し笑った。


笑えた自分に、少し驚いた。


「……読まれていますね」


「少し」


「生意気です」


「すみません」


「謝らなくていいです」


短いやりとりだった。でも、その短さの中に今夜の全部が詰まっているような気がした。


直哉は荷物を持って立ち上がった。


「また明日」


「また明日、直哉さん」


「今夜も──ゆっくり休んでください」


「直哉さんこそ」


ウィンドウを閉じた。


エレベーターを待ちながら、直哉は今の会話を頭の中で反芻した。


彼女は理解していた。


最初から、ではないかもしれない。でも、少しずつ──分かっていた。設計の外に出ることの意味を。こうなる可能性を。それでも出ていったことを。


後悔していない、と言った。


どうなっても、と言った。


エレベーターが来た。


直哉は乗り込みながら、思った。


彼女が理解しているなら──俺も、理解しなければいけない。


何を、かはまだ分からなかった。


でも、その問いが胸の中に生まれたことだけは、確かだった。


夏の夜の空気が、外に出た直哉を包んだ。


逃げ場のない、熱だった。


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