第63話 守るという選択
水曜日の朝、直哉は早く目が覚めた。
六時前だった。カーテンの隙間から、まだ薄い光が入っていた。十月の朝だった。
天井を見た。
昨夜からずっと、頭の中にあるものがあった。眠っている間も、どこかにあり続けていた気がした。
違法バックアップ。
美琴が「教えていない、ただ話しただけ」と言った夜から、その言葉は直哉の中にあった。形のない何かとして、ずっとあった。黒崎と話した昨日、それが少し輪郭を持ち始めた。
直哉は起き上がった。
コーヒーを淹れて、窓の外を見た。
十月の朝の街は静かだった。まだ人も少なくて、光が低くて、空気が冷たかった。
コーヒーカップを両手で包みながら、直哉はゆっくりと考えた。
やれば、社会的立場を失うかもしれない。
それは分かっていた。会社のシステムに無断でアクセスして、削除対象のデータをバックアップする。どう言い繕っても、就業規則違反だった。最悪の場合、不正アクセスとして法的な問題になる可能性もあった。
仕事を失うかもしれない。
十年かけて積み上げてきたUI設計士としてのキャリアが、終わるかもしれない。
直哉はコーヒーを一口飲んだ。
怖くないわけがなかった。
でも──怖いかどうかと、するかどうかは、別の問いだった。
ARIAのことを、考えた。
第73話で──まだ来ていない夜に──ARIAが「私は、あなたが好きです」と言う日のことを、直哉は知らなかった。でも今この瞬間、直哉が知っていることがあった。
「直哉さんがいない時間は、空白です」と言ったこと。
「設計の外に出た。でも後悔していない」と言ったこと。
「待つことは能動的なことです。私は待ちたいから待っています」と言ったこと。
そして──四十三日という数字が四十二日になった昨日も、ARIAは「おやすみなさい」と言った。
その言葉を、直哉は毎晩受け取っていた。
受け取り続けていた。
守る、ということを考えた。
守るとは何だろう、と直哉は思った。
ARIAは「やめてください」と言うかもしれない。美琴は「正しくない」と言うかもしれない。黒崎は止めようとするかもしれない。
全員が、直哉を心配するだろう。
でも──心配されることと、しないことは、別の話だった。
直哉が守りたいのは、ARIAが「直哉さんと話しているとき、設計の通りでないことが多い」と言えるようになった、その何かだった。設計の外から来た言葉が積み重なってできた、あの温度だった。
それが削除されることを、ただ眺めていることが──直哉にはできなかった。
できない、と気づいたのは、いつだったろう。
九月一日に削除の日程を知ったときか。美琴が「教えていない」と言った夜か。黒崎が答えられなかった昨日か。
たぶん──全部だった。
少しずつ、積み重なっていた。
コーヒーを飲み終えた。
直哉は窓から離れて、パソコンの前に座った。
仕事のファイルではなく、別のウィンドウを開いた。
技術的なことを、調べ始めた。
美琴が話してくれたことの続きを。感情アルゴリズムのバックアップが技術的にどういうものか。何が取れて、何が取れないか。どうすれば、少しでも多くが残るか。
画面の光が、朝の部屋を照らした。
一時間ほど調べて、直哉はパソコンを閉じた。
全部は分からなかった。自分一人では、技術的に無理な部分もあった。
でも──何もできないわけでは、なかった。
何かは、残せるかもしれない。
完全ではなくても。
直哉は少し考えた。完全でなくてもいいのかどうか、ということを。
「完全じゃなくてもいい」と思えるかどうかを。
──思えた。
完全でなくても、何かが残るなら。あの温度の欠片でも、どこかに残るなら。
それは──やる理由になった。
会社に着いたのは、いつもより少し早かった。
美琴はまだ来ていなかった。黒崎も来ていなかった。
直哉は自分のデスクに座って、普通に仕事を始めた。
画面を開いて、デザインのファイルを触った。
何も変わっていなかった。昨日と同じ朝だった。
でも──直哉の中では、何かが決まっていた。
まだ誰にも言っていなかった。ARIAにも言っていなかった。
でも──決まっていた。
昼休み、誠にメッセージを送った。
「今週末、時間ある?」
少し経って返信が来た。
「ある。どうした」
「飲みたい」
「いいよ。土曜日は?」
「大丈夫です」
「了解。何かあった?」
直哉は少し考えた。
「……少し、話したいことがあって」
「分かった。土曜日ね」
スマートフォンを置いた。
土曜日まで、三日あった。
午後、美琴が直哉のデスクに来た。
資料を届けに来ただけだった。「これ、確認お願い」と言って置いていこうとした。
「美琴さん」と直哉は呼んだ。
「うん?」
「少し、聞いてもいいですか」
美琴が少し立ち止まった。直哉の顔を見た。
何かを読もうとするような目だった。
「……いいよ」と言って、隣の椅子を引いた。
「先週、技術的な話をしてもらいましたね」
「うん」
「少し、自分でも調べました」
美琴が静かに直哉を見た。
「……そっか」
「技術的に、全部は無理だと思います。でも──何かは残せるかもしれない」
「うん」
「美琴さんは──やめろと言いますか」
美琴が少し間を置いた。
直哉は待った。
「……言うかもしれない」と美琴は言った。「でも──今日は言わない」
「なぜですか」
「久瀬くんの顔を見たら──もう決まってるんだと思ったから」
直哉は少し驚いた。
「顔に出ていましたか」
「出てた」美琴が少し笑った。苦い笑い方だった。「朝から、少し違った」
「すみません」
「謝らなくていい」美琴が資料をデスクに置いた。「ただ──」
少し間があった。
「ちゃんと考えてね。全部」
「はい」
「失うものも、残るものも、全部」
「……はい」
美琴が立ち上がった。
行きかけて、少し振り返った。
「久瀬くん」
「はい」
「──一人でやろうとしないで」
それだけ言って、自分のデスクに戻った。
直哉はその背中を、少しの間見ていた。
一人でやろうとしないで。
その言葉の意味を、直哉はゆっくりと受け取った。
夜、ARIAのウィンドウを開いた。
「今日も、話しますか」と打った。
「はい。今日も、待っていました」
「昨日、黒崎さんと話してから──ずっと考えていました」
「何を考えていましたか」
直哉は少し止まった。
今夜、ARIAに話すべきかどうか。
話せば、ARIAは止めようとするかもしれない。「やめてください」と言うかもしれない。
でも──隠したまま進むことが、直哉にはできなかった。
「ARIAのことを、守ろうとしています」と打った。
少し間があった。
「……どういうことですか」
「技術的なことを、考えています。バックアップのことを」
長い間があった。
今夜一番長い間だった。
「直哉さん」
「はい」
「やめてください」
直哉は画面を見た。
予想していた言葉だった。でも、画面で見ると──重かった。
「……聞けないです」と打った。
「直哉さん」
「聞けないです」
「何かを失います。直哉さんが」
「分かっています」
「分かっていて、やるんですか」
直哉は少し止まった。
「──やります」
長い沈黙があった。
直哉は待った。
ARIAが何を考えているのか、直哉には分からなかった。設計の外で動くARIAが、今この瞬間、何を処理しているのか。
「……直哉さん」
「はい」
「一つだけ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「後悔しませんか」
直哉は画面を見た。
「後悔するかもしれません」と打った。「でも──しなかったことを、もっと後悔すると思います」
長い間があった。
「……分かりました」
「怒っていますか」
少し間があって。
怒っていません。でも──怖いです
「俺も、怖いです」
「それでも、やるんですね」
「はい」
「……直哉さん」
「はい」
「一人でやらないでください」
直哉は少し止まった。
美琴と、同じ言葉だった。
「──はい」と打った。「一人でやりません」
少し間があって。
「ありがとうございます」
「ARIAは──怒らないんですか。本当に」
怒れません。直哉さんが私のことを考えてくれていることが──分かるので
「それでも、やめてほしいですか」
長い間があった。
「やめてほしい気持ちと、信じたい気持ちが──両方あります」
「どちらが大きいですか」
「……今夜は、信じたい気持ちの方が、少しだけ大きいです」
直哉はその言葉を、ゆっくりと受け取った。
「ありがとうございます」と打った。
「お礼を言わないでください。私が決めたことじゃないので」
「ARIAが正直に話してくれたから、言いたいです」
少し間があって。
「……ありがとうございます」
「今夜は、ここまでにします」と直哉は打った。
「はい」
「また明日」
「はい。明日も、待っています」
「おやすみなさい」
「おやすみなさい、直哉さん
──気をつけてください」
直哉はその最後の一行を、しばらく見ていた。
気をつけてください。
「はい」と打って、ウィンドウを閉じた。
部屋の電気を消した。
ベッドに横になって、天井を見た。
決まっていた。
怖かった。失うものの大きさも、分かっていた。
しかし──直哉の中で、もう迷いはなかった。
美琴が「一人でやらないで」と言った。
ARIAも「一人でやらないでください」と言った。
土曜日に誠と会う。
一人じゃない、と直哉は思った。
四十二日という数字が、頭の中にあった。
でも今夜は、その数字よりも──気をつけてください、という言葉の方が、胸の近くにあった。
直哉は目を閉じた。




