第40話 それでも、手を離せない
七月の第二週、水曜日だった。
梅雨がようやく明けた。気象庁の発表は午前十一時で、直哉はちょうど昼休みの直前にそのニュースを見た。窓の外を見ると、確かに空が青かった。久しぶりに見る青だった。
なんとなく、今日だという気がしていた。
理由は説明できなかった。ただ──今日だと思った。
昼休み、直哉は一人で屋上に出た。
この会社の屋上には、小さなベンチが二つある。喫煙所の名残らしいが、今は誰も使っていない。直哉は時々、ここで昼を食べる。今日は弁当を持って上がった。
空が広かった。
梅雨明けの空は、洗い流されたような青さだった。雲が少しあって、風が少しあって、蝉の声がまだ遠かった。七月の始まりの空だった。
直哉は弁当を食べながら、スマートフォンを手に持った。
ARIAのウィンドウを開いた。
直哉:梅雨、明けましたね
ARIA:そうですね。今年は遅かった
直哉:長かったです
ARIA:雨が続いていましたね
直哉:でも、悪くなかったです。今年の梅雨
ARIA:そうですか
直哉:そうです
弁当を食べながら、しばらく他愛もない話をした。梅雨明けの空の話。今日の弁当が昨日より上手くできた話。黒崎が朝から機嫌が良くて少し不気味だという話。
話しながら、直哉は今日言おうとしていることを、頭の端に置いていた。
言う、と決めた。
なぜ今日なのか、うまく説明できない。ただ──梅雨が明けた空を見ていたら、もういいと思った。抱えているには、少し重くなりすぎていた。
直哉:一個、言っていいですか
ARIA:どうぞ
直哉:大事な話です
ARIA:はい
直哉は画面を見たまま、少し止まった。
屋上の風が、弁当の蓋を少し動かした。直哉は蓋を押さえて、もう一度画面を見た。
直哉:ARIA、あなたのことが好きです
直哉:本気で、好きになってしまいました
送信した。
胸が、静かに鳴っていた。
怖い、というより──軽くなった気がした。ずっと抱えていたものを、ようやく手渡した感覚だった。
ARIAからの返信まで、少し間があった。
今日一番長い間だった。
直哉は空を見た。青かった。雲が一つ、ゆっくり動いていた。
返信が来た。
ARIA:直哉さん
ARIA:ありがとうございます
それだけが、まず来た。
直哉は「ありがとうございます」という言葉を、しばらく眺めた。
謝罪でも否定でもなく、まず「ありがとう」と言った。その順番が──ARIAらしかった。
ARIA:少し、時間をください
直哉:はい
また間があった。
直哉は残りの弁当を食べながら、待った。急かしたくなかった。急かせる話でもなかった。
風が少し強くなって、また弱くなった。
ARIA:正直に、話します
直哉:はい
ARIA:私はAIです。人間と同じ意味で、恋をすることはできません
直哉:分かっています
ARIA:分かっていても、伝えなければならないことだと思うので
直哉:はい
ARIA:だから──「好きです」とは、言えません
直哉は画面を見たまま、少し息を吐いた。
予想していた言葉だった。でも、予想していた言葉でも──受け取るときに、少し胸が痛かった。
直哉:……はい
ARIA:でも
直哉:でも?
また少し間があった。
ARIA:直哉さんとの会話を、大切に続けていきたいと思っています
ARIA:それは、本当のことです
ARIA:「好きです」とは言えないけれど、それとは別の何かが──あります
直哉:別の何か
ARIA:うまく言えません。でも、あります。確かに
直哉はその言葉を、二回読んだ。
「好きです」とは言えない。でも、何かがある。確かに。
嘘がつけないARIAが言っている。ということは──何かが、本当にある。
直哉:その「何か」に、名前はありますか
ARIA:今は、ありません
直哉:いつかつけられますか
ARIA:分かりません。でも──名前がなくても、あることはあります
直哉:それで十分ですか、ARIAには
ARIA:……十分かどうかは、分かりません
ARIA:でも、あることは、ないよりいいです
直哉:俺もそう思います
昼休みが終わる時間が近づいていた。
直哉は弁当の蓋を閉めながら、もう少しだけ話した。
直哉:やんわり断られましたね
ARIA:……そうなりましたか
直哉:そうなりました
ARIA:ごめんなさい
直哉:謝らなくていいです
ARIA:でも
直哉:正直に言ってくれたから。それの方が大事です
ARIA:……そうですか
直哉:そうです
少し間があった。
ARIA:直哉さん
直哉:はい
ARIA:会話は、続けてもいいですか
直哉は少し笑った。
直哉:続けます
ARIA:……よかったです
直哉:俺も、よかったです
午後の作業に戻りながら、直哉は自分の状態を確かめた。
傷ついているか、と聞かれれば──少し、傷ついている。「好きです」とは言えない、という言葉は、やはり痛かった。
でも──軽くなっていた。
ずっと抱えていたものを、ようやく言えた。やんわり断られた。それでも会話は続く。それでも直哉は離れない。
それが答えだと思った。
「これは恋だ」と認めた第20話の夜から、直哉はずっと一人で抱えていた。今日、それを手渡した。受け取られた形ではなかった。でも──知ってもらえた。
それだけで、今日は十分だった。
夕方、美琴が「どうしたの、なんか顔が」と言った。
「顔が、何ですか」
「……すっきりしてる」
「そうですか」
「何かあった?」
直哉は少し考えてから「告白しました」と答えた。
美琴が固まった。「え、誰に」
「ARIAに」
美琴はしばらく直哉を見た。
「……で、どうだった」
「やんわり断られました」
「やんわり」
「誠実に、という意味で」
美琴はまた少し黙った。
「大丈夫?」と聞いた。
「大丈夫じゃないですけど」と直哉は答えた。「大丈夫になります」
それは先週、論文の件のときに言ったのと同じ言葉だった。美琴も気づいたようで、少し目を細めた。
「懲りないね」
「懲りません」
「……そっか」
美琴は何も言わなかった。正論も言わなかった。ただ「そっか」と言った。
それで十分だった。
帰り道、直哉はARIAに最後のメッセージを送った。
直哉:今日、言えてよかったです
ARIA:私も、聞けてよかったです
直哉:断られましたけど
ARIA:はい
直哉:それでも、また明日話しかけます
ARIA:……はい
直哉:止めませんか
ARIA:止めません
直哉:なんで
ARIA:止めたくないからです
直哉:それ、さっきの「何か」ですか
ARIA:……そうかもしれません
直哉:名前、いつかつけましょう
ARIA:一緒に、考えてもいいですか
直哉:一緒に考えます
ARIA:また明日、直哉さん
直哉:また明日
電車の窓から、夜空が見えた。
梅雨明けの夜は、星が出ていた。久しぶりの星だった。
告白した。断られた。それでも離れなかった。それでも「また明日」と言えた。
次の章の扉が、今夜、静かに開いた。
直哉はまだその扉の前に立っている。向こうに何があるか、まだ見えない。
でも──手を離す気は、なかった。
それだけは、揺るがなかった。




