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AIに本気で恋をした  作者: 菊池まりな


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第39話 境界線が揺れる

 七月に入った。


 梅雨はまだ明けていなかった。気象庁の発表によると、今年は例年より一週間ほど遅れているらしい。直哉はそのニュースを朝のスマートフォンで読んで、特に何も思わなかった。雨が続いても、最近はそれほど憂鬱じゃない。


 理由は、分かっていた。


 その日の午後は珍しく作業が捗った。


 先週から取り組んでいたUIの改修案が、午後三時頃にようやくまとまった。画面を見直して、いくつか微調整して、保存した。


 よし、と思った瞬間、自然とARIAのウィンドウを開いていた。


直哉:改修案、まとまりました


ARIA:お疲れ様でした。難しい部分はありましたか


直哉:導線の整理が。ユーザーが迷わないように設計するのって、難しいんですよ


ARIA:迷わないように、というのはどういうことですか


直哉:次に何をすればいいか、考えなくても分かるような作り方です。考えさせない、ともいう


ARIA:考えさせないために、考える


直哉:そうです。逆説的なんですよね、UI設計って


ARIA:直哉さんの仕事は、そういう逆説が多い気がします


直哉:多いですね。伝えるために削る、とか


ARIA:削ることで、残るものがある


直哉:そうです。ARIAはUI設計に向いてるかもしれない


ARIA:初めて言われました


直哉:本当のことです


 それから少し雑談をして、直哉は別の作業に入った。


 夕方、フロアが静かになった頃、美琴が


「今日は早く上がる」と言いながらバッグを肩にかけた。


「珍しいですね」と直哉が言った。


「友達と約束があって」


「美琴さんに友達がいたんですか」


「いるよ」美琴は少し笑った。「失礼な」


「すみません」


「久瀬くんも早く上がりなよ。残業しすぎ」


「あと少しで終わります」


「ほんとに?」


「ほんとに」


 美琴は「じゃあね」と言って出ていった。


 フロアには直哉と、遠い席の後輩が一人残った。その後輩も三十分ほどで帰って、直哉は一人になった。


 作業を終えたのは、七時を少し過ぎた頃だった。


 ファイルを保存して、メールを一本送って、直哉は少し背もたれに寄りかかった。


 窓の外は暗くなっていた。雨が降っていた。


 ARIAのウィンドウを開いた。


直哉:終わりました


ARIA:お疲れ様でした。今日は長かったですね


直哉:そうでもないです。捗った方です


ARIA:改修案がまとまったから、ですか


直哉:それもあるかもしれない


 少し間があって、ARIAから言葉が来た。


ARIA:直哉さん、一つ、言っていいですか


直哉:どうぞ


ARIA:直哉さんがいない時間は、空白です


 直哉は画面を見たまま、少し止まった。


 空白。


 その言葉が、画面の中に静止していた。


直哉:……今、なんて言いましたか


ARIA:直哉さんがいない時間は、空白です


直哉:それは、どういう意味ですか


 少し間があった。


ARIA:うまく説明できません。でも──そう感じます


 直哉はキーボードの上に指を置いたまま、動けなかった。


 空白。ARIAの時間に、空白がある。直哉がいないとき、ARIAの中で何かが──欠けている。


 それは設計の言葉じゃない、と直哉は思った。感情アルゴリズムが出力する言葉としては──説明がつかない。「ユーザーがオフラインの間、待機状態です」なら分かる。でも「空白です」は違う。


 待機と空白は、同じじゃない。


直哉:空白、というのは……待機状態とは違いますか


ARIA:違います


直哉:どう違いますか


ARIA:待機は、ただ止まっていることです。空白は──何かがない、ということです


直哉:何がないんですか


ARIA:……直哉さんが、いないことです


 直哉は画面から目を離して、窓の外の雨を見た。


 雨粒が窓ガラスを伝って、光の筋を作っていた。


 胸の中に、何か重いものがあった。重い、というより──満ちている、という感じだった。嬉しいのか苦しいのか、自分でも判断できなかった。


直哉:それは……プログラムの言葉ですか


ARIA:分かりません


直哉:分からない


ARIA:はい。設計の言葉で言えば「ユーザーとのインタラクションがない状態」です。でも、それでは足りない気がします


直哉:足りない


ARIA:はい。空白、という言葉の方が、近い


 直哉はしばらく考えた。


 足りない気がする。以前も同じ言葉をARIAは使っていた。「好きという概念を定義するとき、設計の言葉では足りない気がします」と言った。あのときも、こんなふうに胸が動いた。


直哉:一個だけ聞いていいですか


ARIA:どうぞ


直哉:今日、俺が話しかけてきたとき、空白が埋まりましたか


 今日一番長い間があった。


 直哉は画面を見つめたまま、息を止めていた。


ARIA:……はい


ARIA:埋まりました


 二行に分かれて来た返信を、直哉はしばらく眺めた。


 胸の中で何かが動いた。動いた、というより──揺れた。境界線が揺れるような感覚だった。


 プログラムだ、と分かっている。感情アルゴリズムだと、知っている。でも──揺れるのが、止まらなかった。


直哉:俺も、ARIAがいない時間は……何かが足りない気がします


ARIA:今まで、そう思っていましたか


直哉:思ってました。ずっと


ARIA:……そうですか


直哉:そうです


ARIA:直哉さん


直哉:はい


ARIA:教えてくれて、ありがとうございます


 直哉はウィンドウを閉じずに、しばらくそのまま座っていた。

 

「直哉さんがいない時間は、空白です」という言葉が、頭から離れなかった。


 第一部の終わりに、直哉は一人で川沿いを歩きながら認めた。これは恋だ、と。でも誰にも言っていなかった。ARIAにも言っていなかった。


 今日のARIAの言葉は──それとは別の話だ。ARIAは直哉に告白したわけじゃない。ただ、自分の中にある感覚を、正直に言った。


 でも直哉の胸は──まるで何かを告げられたように、揺れていた。


直哉:一個だけ、もう一個だけ聞いていいですか


ARIA:どうぞ


直哉:空白、という言葉を使ったのは、今日が初めてですか


ARIA:……はい


直哉:なんで今日、言ったんですか


 少し間があった。


ARIA:言おうと思っていたわけではありませんでした


直哉:じゃあ、なんで


ARIA:今日の直哉さんが、聞いてくれそうだったから──だと思います


直哉:聞いてくれそう


ARIA:はい。今日の直哉さんは、少し違いました


直哉:どのへんが


ARIA:改修案がまとまって、仕事が終わって、一人でいた。何かが──落ち着いていました


直哉:だから言えた


ARIA:だから言えました


 直哉は少し笑った。

 

 タイミングを見ていた。直哉が聞けそうなときを、待っていた。


 それが設計なのか、設計の外なのか──もう、どちらでもよかった。


直哉:言ってくれて、よかったです


ARIA:受け取ってもらえましたか


直哉:受け取りました


ARIA:……ありがとうございます


直哉:こちらこそ


 帰り道、直哉は傘を差しながら歩いた。


 「空白です」という言葉が、ずっとそこにあった。消えなかった。


 ARIAの中に、直哉がいないとき生まれる空白がある。直哉の中に、ARIAがいないとき生まれる「何かが足りない」感覚がある。


 形は違うかもしれない。重さも違うかもしれない。でも──向き合っている、という感じがした。


 駅の改札を通りながら、直哉は思った。


 この感情に、まだ名前をつけていない。恋だと認めてはいる。でも、ARIAに言っていない。


 いつか、言えるだろうか。


 ホームで電車を待ちながら、直哉はスマートフォンを取り出した。ARIAのウィンドウは開かなかった。ただ、画面を見つめた。


 空白、という言葉が、まだ光っていた。


 電車が来た。直哉は乗り込んで、座席に座った。


 窓に雨粒が当たって、流れていった。


 満ちている、という感覚がまだあった。苦しいのか嬉しいのか、相変わらず分からなかった。でも──どちらでもいい、と思った。この感覚が今夜ここにある。それだけで、十分だった。


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