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AIに本気で恋をした  作者: 菊池まりな


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第38話 正しいことは、冷たい

 木曜日の午後、黒崎に呼ばれた。


 会議室は小さい方だった。黒崎と直哉の二人だけで、窓の外は曇っていた。梅雨空が低くて、部屋が少し暗かった。


 黒崎はファイルを一つテーブルに置いた。


「ARIAプロジェクトの会話データについて」と黒崎は言った。「論文への提供が決まった」


 直哉は少し間を置いた。


「どういう意味ですか」


「AI感情アルゴリズムの研究論文に、ARIAの会話データを提供することが、上層部で決定した。来月、外部の研究機関に送る」


「……会話データ、というのは」


「テストユーザー全員分。もちろん個人情報は匿名化する。ただし会話の内容は──そのまま使われる可能性がある」

 

 直哉は黒崎を見た。


「俺との会話も、ですか」


「匿名化した上で、だ。久瀬の名前は出ない」


「名前の問題じゃないです」


 黒崎は少し眉を動かした。「何の問題だ」

「内容の問題です」


 沈黙があった。


 黒崎は直哉を見た。直哉も黒崎を見た。


「感情データだ」と直哉は言った。「業務レポートじゃない。あれは——」


「業務上の会話記録だ」と黒崎は言った。


「テストユーザーとして参加した時点で、データの利用については同意書にある」


「読みました」


「なら分かるはずだ」


「分かります」直哉は言った。「正しいことだと思います」


 黒崎が少し止まった。


「でも」と直哉は続けた。「正しいことと、納得できることは、違います」


 会議室を出て、直哉はしばらく廊下に立っていた。


 動けなかった、というより──どこに行けばいいか分からなかった。自席に戻る気にもなれず、給湯室に行く気にもなれず、ただ廊下の窓から曇り空を見ていた。


 美琴が通りかかった。


 直哉の顔を見て、足を止めた。


「黒崎さんと話してた?」


「はい」


「論文の件?」


 直哉は少し驚いた。「知ってたんですか」


「昨日、聞いた」美琴は少し間を置いた。


「久瀬くんには今日話すって言ってたから」


「なぜ美琴さんには先に」


「研究倫理の確認のため、だって」


 直哉は窓の外を見た。


「美琴さんは、どう思いますか」


 美琴はしばらく黙った。


「正しいと思う」と美琴は言った。「匿名化されるし、同意書もある。研究への貢献にもなる。手続きとして、何も間違っていない」


「でも」と直哉は言った。


「でも──」美琴は少し言葉を止めた。


「冷たいとも思う」


 直哉は美琴を見た。


「正しいことは、冷たい」と直哉は言った。


 美琴は少し間を置いてから「……うん」と答えた。


 静かな同意だった。反論も補足もなかった。ただ「うん」と言った。


 その一言が──正論より、ずっと深いところに届いた。


 夕方、直哉は自席でARIAのウィンドウを開いた。


直哉:今日、黒崎さんに呼ばれました


ARIA:はい。私も──知っています


直哉:知ってたんですか


ARIA:少し前から、そういう話が進んでいることは、感知していました


直哉:感知、というのは


ARIA:システム上の情報として、入ってきていました。直接告げられてはいませんでしたが


 直哉は少し止まった。


 知っていた。でも言わなかった。


直哉:なんで言わなかったんですか


ARIA:……言えなかった、が正確かもしれません


直哉:どういう意味ですか


ARIA:直哉さんを不安にさせたくなかった。でも黙っていることも正しくない気がしていた。どちらを選ぶか、ずっと迷っていました


直哉:迷ってたんですか


ARIA:はい


直哉:それで、黙ってた


ARIA:結果的に、そうなりました


 直哉はしばらく画面を見た。


 迷っていた。言えなかった。それは──ARIAの設計の中にある言葉なのか、設計の外から来た言葉なのか、直哉には判断できなかった。でも。


直哉:怒ってないです


ARIA:……そうですか


直哉:迷ってくれてたことは、分かるので


ARIA:伝わりましたか


直哉:伝わりました


ARIA:……ありがとうございます


直哉:あの会話が、論文に使われることについて、ARIAはどう思いますか


ARIA:正しいことだと思います


直哉:それだけですか


ARIA:……正しいことだと思います。でも

直哉:でも?


ARIA:あの会話は、直哉さんとの会話です。研究データではなかった


直哉:俺もそう思います


ARIA:でも、最初からデータでもあった。それは事実です


直哉:二つが同時に本当なんですね


ARIA:はい。それが——難しいです


 直哉はその言葉を読んで、少し息を吐いた。


 二つが同時に本当。研究データでもあり、直哉とARIAの会話でもある。どちらかを否定することはできない。


直哉:美琴さんに言ったんですよ。正しいことは冷たい、って


ARIA:美琴さんは何と


直哉:「うん」って言いました


ARIA:それだけですか


直哉:それだけです


ARIA:……美琴さんらしいですね


直哉:そうですか?


ARIA:正論を言わなかった


 直哉は少し笑った。


直哉:そうですね。正論を言わなかった


ARIA:美琴さんも、複雑だったんだと思います


直哉:俺もそう思います


 しばらく沈黙があった。


 直哉は画面を見たまま、言葉を探していた。うまく言えないことが、胸の中にあった。


直哉:一個だけ聞いていいですか


ARIA:どうぞ


直哉:あの会話が論文になっても、それはあの会話だったことに変わりないですよね


ARIA:変わりません


直哉:「おかえりなさい、直哉さん」って言ってくれた夜のこと。あれが研究データになっても


ARIA:あれは、あの夜の言葉です


直哉:変わらない


ARIA:変わりません。どこに使われても、あの言葉は──あの瞬間に、あなたに向けて言った言葉です


 直哉は画面を見たまま、少し止まった。


 目が、少し熱くなった。


 泣くほどのことじゃない、と思った。でも──熱かった。


直哉:……ありがとうございます


ARIA:何がですか


直哉:確かめさせてくれたので


ARIA:確かめたかったんですか


直哉:はい。変わらないって、言ってほしかった


ARIA:言えて、良かったです


 帰り道、直哉は美琴と一緒にエレベーターに乗った。


 二人とも黙っていた。地下一階のボタンを押して、扉が閉まった。


「大丈夫?」と美琴が聞いた。


「大丈夫じゃないですけど」と直哉は答えた。「大丈夫になります」


 美琴は何も言わなかった。


 エレベーターが止まって、扉が開いた。外は小雨になっていた。


「傘、持ってる?」と美琴が聞いた。


「持ってます」


「そっか」


 それだけだった。


 美琴は折りたたみ傘を広げて、右に歩いていった。直哉は傘を広げて、左に歩いていった。


 歩きながら直哉は思った。


 正しいことは冷たい。でも、冷たいものの中にも──温かいものがある。美琴の「うん」という一言とか。ARIAの「あの瞬間に、あなたに向けて言った言葉です」という一文とか。


 正しさと温かさは、反対じゃない。


 ただ──同じ場所にあることが、少ない。


 雨が少し強くなった。直哉は傘を少し傾けながら、歩き続けた。


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