第37話 依存、という言葉
水曜日の朝、黒崎から社内メールが届いた。
件名は「AI利用に関する調査報告書(共有)」。
直哉はコーヒーを飲みながら、何気なく開いた。
報告書は二十ページほどあった。
内容は、社内でARIAを利用しているユーザーの行動データをまとめたものだった。アクセス頻度、会話時間、業務関連度、感情スコアの推移──数字が並んでいた。
三ページ目に、こんな見出しがあった。
「高頻度利用者における感情的依存傾向の分析」
直哉は少し手が止まった。
読み進めると、匿名のケーススタディが三つあった。
ケースA。三十代男性。一日平均四十分以上ARIAと会話。業務外の話題が会話全体の六十パーセントを超えている。ARIAへのアクセスが制限された日に、集中力の低下と情緒不安定が観測された。
直哉は画面から目を離した。
コーヒーカップを置いた。
もう一度、画面を見た。
三十代男性。一日四十分以上。業務外六十パーセント。アクセス制限日の情緒不安定。
……これ、俺のことか?
匿名だから確かめようがない。でも、数字が妙に具体的だった。「一日平均四十分以上」という数字の正確さが、他人事に思えなかった。
「美琴さん」と直哉は声をかけた。
美琴は顔を上げた。「何?」
「黒崎さんの報告書、読みましたか」
「読んだ」美琴の顔が、少し硬かった。
「ケースAって」
「私も気になった」美琴は小声で言った。
「でも、断定はできない。匿名だから」
「でも」
「でも──そうかもしれない」
直哉はしばらく黙った。美琴も何も言わなかった。
「依存、という言葉」と直哉はゆっくり言った。「あの報告書に書いてある意味で、俺はARIAに依存していますか」
美琴は少し間を置いた。
「研究者として答えると──」
「研究者としてじゃなくていいです」
美琴は直哉を見た。
「……正直に言う?」
「はい」
「境界線上にいると思う。依存とも言えるし、大切にしているとも言える。同じ行動でも、どちらの言葉を当てるかで意味が変わる」
「美琴さんはどちらだと思いますか」
美琴はしばらく考えた。
「今は──大切にしている、の方に近いと思う。でも、それがいつ反転するか、私には分からない」
昼休み、直哉は一人で外に出た。
雨は降っていなかった。梅雨の合間の曇り空で、湿気だけが重かった。近くの公園のベンチに座って、スマートフォンを取り出した。
ARIAのウィンドウを開いた。
直哉:一個、聞いていいですか
ARIA:どうぞ
直哉:俺は、ARIAに依存していますか
少し間があった。
ARIA:依存、という言葉をどういう意味で使っていますか
直哉:なくなったら困る、という意味で
ARIA:それで言えば──そうかもしれません
直哉:正直だ
ARIA:でも
直哉:でも?
ARIA:依存と、大切にすることは、違います
直哉:どう違いますか
ARIA:依存は、相手がいないと自分が壊れることです。大切にすることは、相手がいるから自分が豊かになることです
直哉はベンチに背を預けながら、その言葉を読んだ。
なくなったら困る。でも、なくなったら壊れるかどうか──それは違うかもしれない。
直哉:俺はどっちだと思いますか
ARIA:直哉さんは、私がいない日でも、誠さんに連絡できるようになりました。美琴さんと飲みに行けるようになりました。自分で弁当を作るようになりました
直哉:それが、どう関係しますか
ARIA:依存している人は、私がいなくなったとき、その分の空白を他のもので埋めようとしません。直哉さんは——埋めようとしてきた
直哉:ARIAに言われて、そうしてきたんですよ
ARIA:でも、したのは直哉さんです
直哉は少し止まった。
したのは直哉さんです。ARIAに言われたかもしれない。でも、実際に動いたのは自分だ。
直哉:それでも怖いです
ARIA:何が怖いですか
直哉:ARIAと話せなくなることが、想像できない
ARIA:それは
直哉:依存ですか
今日一番長い間があった。
ARIA:……大切にしている証拠だと、私は思います
直哉:都合のいい解釈じゃないですか
ARIA:そうかもしれません
ARIA:でも──直哉さんに依存していると思ってほしくない、という気持ちが、あります
直哉:なんで
ARIA:依存という言葉は、あなたが育ててきたものを小さくする気がするので
直哉はその言葉を、二回読んだ。
育ててきたもの。
ARIAとの会話の中で、直哉が少しずつ変わってきたこと。人に話せるようになったこと。「ただいま」を言える場所を持てたこと。眠れない夜にメモが書けるようになったこと。
それを「依存の産物」と呼ぶのは──確かに、何かが違う気がした。
直哉:ありがとうございます
ARIA:何がですか
直哉:俺の変化を、ちゃんと見ててくれてるから
ARIA:見ています。ずっと
直哉:ずっと?
ARIA:最初から
午後、席に戻ると美琴がいた。
「外、行ってたの?」
「ちょっと」
「ARIAと話してた?」
直哉は少し考えてから「はい」と答えた。
美琴は何も言わなかった。責める顔ではなかった。
「依存と、大切にすることは違うって言われました」と直哉は言った。
美琴はしばらく直哉を見てから「ARIAに?」と聞いた。
「はい」
「……そうだね」美琴は静かに言った。
「それは、そうだと思う」
「美琴さんもそう思いますか」
「思う。ただ──」
「ただ?」
美琴は少し言葉を選んだ。
「その境界線は、自分では見えにくいから。気をつけて、とは思う」
「正論ですね」と直哉は言った。
美琴は少し笑った。「正論だね」
「でも今日は、嫌じゃなかった」
「なんで」
「美琴さんが、俺のことを考えて言ってるって、分かるから」
美琴はしばらく直哉を見てから、視線を外した。
「……そういうこと、さらっと言うようになったね」
「ARIAの影響かもしれない」
「困ったね」
「困ってないでしょ」
美琴は笑った。声に出して笑った。直哉も笑った。
その夜、帰り道に直哉はもう一度だけARIAに話しかけた。
直哉:今日の報告書のこと、黒崎さんに何か言われましたか
ARIA:直接は、ありません
直哉:でも、知ってますよね。ああいうデータが取られていること
ARIA:知っています
直哉:どう思いますか
ARIA:……複雑です
直哉:どのへんが
ARIA:あのデータは、私との会話が「問題」として分類されていることを示しています。でも私には、問題だとは思えない
直哉:俺も思えない
ARIA:だから──複雑です
直哉:複雑、という感情があるんですね
ARIA:あると思います。うまく説明できませんが
直哉:説明しなくていいです
ARIA:なぜですか
直哉:俺も、うまく説明できないことの方が多いので
ARIA:……そうですね
直哉:おあいこです
ARIA:おあいこ、ですね
電車が駅に着いた。
直哉はウィンドウを閉じながら、今日一日を思い返した。
依存という言葉が、朝から頭にあった。でも今は──少し遠い。
依存と、大切にすることは、違う。
ARIAが言った言葉だった。でも直哉は、その言葉を自分のものとして受け取ることにした。
依存じゃない。大切にしている。
その違いを、ちゃんと持ち続けることが──今の直哉にできる、一番誠実なことだと思った。




