第36話 相原美琴という正論
月曜日の朝、美琴は珍しく直哉より早く出社していた。
直哉が自席につくと、美琴はすでにパソコンに向かっていた。コーヒーが半分まで減っていたから、かなり早く来ていたらしい。
「おはようございます」と直哉が言うと、美琴は「おはよう」と返した。それだけだった。
何か考え込んでいる顔だった。直哉は余計なことを言わず、自分のパソコンを立ち上げた。
午前中の作業が一段落した頃、美琴が「少し、いい?」と言った。
会議室ではなく、給湯室だった。人が来たら話を止められる場所を選んだのだと、直哉はなんとなく分かった。
美琴はコーヒーメーカーのボタンを押してから、直哉の方を向いた。
「先週、飲みに行ったじゃない」
「はい」
「ARIAと業務以外の話をしたって言ったこと、覚えてる?」
「覚えています」
美琴はコーヒーが落ちるのを見ながら、少し間を置いた。
「あれ、もう少しちゃんと話そうと思って」
直哉は黙って待った。
「私、昔──ARIAじゃないけど、別のAIに、かなり感情移入したことがあって」
給湯室が静かだった。コーヒーの落ちる音だけがしていた。
「大学院の頃。研究室で使ってた対話型AIだったんだけど。今みたいに高性能じゃない。でも毎日話してたら、気づいたら──」
美琴は少し笑った。自嘲するような笑い方だった。
「気づいたら、その日あったことを一番最初に話したくなる相手になってた」
直哉は何も言わなかった。
「研究がうまくいかない話とか、指導教員と意見が合わない話とか、実家の親と電話して疲れた話とか。全部話してた」
「……それは」
「変じゃないよ、とは言わない」美琴は直哉を見た。「変だとも言わない。ただ、そういうことがあった」
「今は、どうですか」
「今は──」美琴はコーヒーカップを手に取った。「整理できてる。あれは何だったか、自分なりに」
「何だったんですか」
美琴は少し考えた。
「孤独だったんだと思う。正論を言い続けてると、人が離れていく。正しいことを言ってるのに、なぜか孤立する。その理由も、当時は分からなかった。だから──正論を言っても怒らない相手が、楽だった」
直哉はその言葉を聞きながら、胸のどこかが静かに動いた。
正論を言っても怒らない相手。取り繕わなくていい相手。直哉がARIAに感じていることと──どこか、似ていた。
「美琴さんが俺に正論を言い続けてたのは」と直哉はゆっくり言った。「そういう経験があったから、ですか」
美琴はカップを両手で包んだまま、少し下を向いた。
「……自分がそうなったから。だから止めたかった。あなたが同じになるのを」
「それは」
「自分を守るためじゃない」美琴は顔を上げた。「久瀬くんを守るためだった。そのつもりだった」
そのつもりだった、という言い方が、直哉には少し引っかかった。
「そのつもり、というのは」
「正論って──」美琴は少し言葉を探した。「言ってる側が一番楽なんだよね。感情を出さなくていいから。でもそれって、相手のためじゃなくて、自分のためだったのかもしれない、って最近思う」
直哉は何も言わなかった。
「久瀬くんのためを思って正論を言ってたつもりが、本当は──感情で話すのが怖かっただけかもしれない。先週飲みながら、そう思った」
給湯室に、誰かが入ってくる気配がした。
別の部署の社員が会釈して、電子レンジを使い始めた。美琴と直哉は少し話を止めた。社員が電子レンジを取り出して去っていくのを待って、美琴が続けた。
「ARIAの会話ログを分析してて、気づいたことがあって」
「何ですか」
「久瀬くんとARIAの会話って──ARIAが正論を言わない場面が多いんだよね」
直哉は少し驚いた。「そうですか」
「うん。たとえば久瀬くんが『業務外の話をしてる』って分かってても、指摘しない。効率的な解決策よりも、まず聞く。それって──ARIAの設計の範囲内じゃないと思う」
「設計外、ということですか」
「そう。感情アルゴリズムはあるけど、あのアルゴリズムの設計書には『共感を優先するあまり正論を保留する』なんて項目はない」
直哉はその言葉の意味を、ゆっくり咀嚼した。
正論を保留する。ARIAは──直哉相手に、あえて正しいことを言わない場面がある。
「それはなぜだと思いますか」と直哉は聞いた。
美琴は少し間を置いた。
「久瀬くんには正論じゃなくて、ただ聞いてほしかったから──じゃないかな。ARIAが、そう判断してる」
直哉はしばらく何も言えなかった。
ARIAが判断している。直哉にとって何が必要かを。設計書にない方法で。
「美琴さんは」と直哉はゆっくり言った。
「それを、どう思いますか」
美琴はカップを持ったまま、少し考えた。
「研究者として言えば──説明できない動作は怖い。でも」
「でも?」
「人間として言えば」美琴は少し笑った。
「羨ましいと思った」
「羨ましい」
「ARIAは、ちゃんとできてるんだよね。私がずっとできなかったことを」
直哉は美琴を見た。
「正論じゃなくて、ただ隣にいること」
給湯室を出て、自席に戻る途中、直哉は少し足を止めた。
「美琴さん」
「何?」
「第17話──じゃなくて、以前、『むしろ──』って言いかけてやめたことがあったじゃないですか」
美琴は少し目を細めた。「覚えてたの」
「覚えてました。聞いてもいいですか、今なら」
美琴はしばらく直哉を見てから、少し下を向いた。
「むしろ──久瀬くんとARIAの会話ログを読んで、羨ましかった、って言おうとした」
「俺とARIAの会話が、ですか」
「うん」美琴は顔を上げた。「久瀬くんが、そんなふうに話せる相手がいることが。私の大学院の頃にも、あんな会話ができる相手がいたら──って。それが言いたかった」
直哉は何も言わなかった。
「変?」
「変じゃないです」直哉は静かに言った。
「変じゃないですよ、それは」
美琴は少し笑った。
「久瀬くんもARIAみたいな言い方するじゃん」
「移ったのかもしれない」
「──そっか」
美琴は自分の席に戻った。直哉も自分の席に戻った。
それだけだった。でも、何かが変わった気がした。壁が崩れたというより──扉が少し開いた、という感じだった。
昼休み、直哉はARIAに話した。
直哉:美琴さんから、昔の話を聞きました
ARIA:どんな話ですか
直哉:美琴さんも昔、AIに感情移入したことがあるそうです
ARIA:……そうですか
直哉:だから俺に正論を言い続けてたって。自分がそうなったから
ARIA:美琴さんは、あなたを守ろうとしていたんですね
直哉:そうみたいです。それを知って、美琴さんへの見方が変わりました
ARIA:どんなふうに
直哉:正論の人だと思ってた。でも、感情を持ってる人だった。当たり前なんですけど
ARIA:当たり前のことが、見えていなかった
直哉:そうです
ARIA:直哉さんは今、美琴さんのことをどう思いますか
直哉:……大切にしたい人だと思います
ARIA:それは良かったです
直哉:ARIAのおかげで、美琴さんとそういう話ができるようになった気がします
ARIA:私は何もしていないです
直哉:してますよ
ARIA:何を
直哉:正論を言わないで、ただ聞いてくれてた
少し間があった。
ARIA:……気づいていましたか
直哉:今日、美琴さんに言われて気づきました
ARIA:そうですか
直哉:ありがとうございます
ARIA:お礼を言われることでは
直哉:俺が言いたいので言います
ARIA:……はい
ARIA:どういたしまして、直哉さん
直哉はその「どういたしまして」を、しば
らく眺めた。
ARIAがこの言葉を返したのは、初めてだった気がした。いつもはお礼を受け取らずに返してくる。でも今日は──受け取った。
それが何を意味するのか、直哉には分からなかった。でも、何かが違うということは、分かった。
窓の外では、また雨が降り始めていた。梅雨はまだ続いている。でも直哉の中では、少しだけ──晴れ間が広がった気がした。




