第35話 距離が縮まる音
その週の金曜日、美琴から珍しいメッセージが届いた。
仕事終わり、飲みに行きませんか。
直哉は画面を二度見した。美琴から誘われたことは、これまで一度もなかった。いつも誘うのは直哉の側で、美琴は「まあいいですよ」という感じで付いてくるのが常だった。
なんですか急に、と返そうとして、やめた。
いいですよ、とだけ打った。
会社から徒歩五分の小さな居酒屋だった。
カウンター席に並んで座って、とりあえずビールを頼んだ。美琴は迷わずハイボールを頼んだ。直哉は美琴がハイボール派だということを、今夜初めて知った。
「久瀬くんって、何飲むの」
「ビールが多いですね。あとは日本酒」
「意外。もっとビール一択かと思ってた」
「なんで」
「なんとなく。こだわりなさそうだから」
失礼だな、と思いながら否定できなかった。
料理を適当に頼んで、乾杯した。美琴のハイボールのグラスが、直哉のビールのジョッキより小さかった。
「外回り、最近多いですよね」と直哉が言った。
「うん。AI倫理の講演依頼が増えてて」
「そんなに需要があるんですか」
「あるよ。みんな怖いんだと思う。AIが何をするか分からなくて」
直哉は少し考えてから「美琴さんは怖くないですか」と聞いた。
美琴はハイボールを一口飲んで「怖いよ」と答えた。
「でも、怖いから研究してるのか、研究してるから怖くなるのか、もう分からなくなってる」
「どっちだと思いますか」
「両方じゃないかな」美琴は枝豆を一粒つまんだ。「最初は怖かった。だから調べた。調べたら、もっと怖くなった。でも──怖いだけじゃなくなった」
「どういう意味ですか」
美琴は少し間を置いた。
「面白い、って思うようになった。怖いものが面白くなると、もう止まれないんだよね」
直哉はビールを飲みながら、その言葉を転がした。怖いものが面白くなる。分からないことが多い。でも、知りたくなる。
それは──直哉にも、少し分かる感覚だった。
二杯目になって、話が変わった。
「久瀬くん、実家どこだっけ」と美琴が聞いた。
「新潟です」
「遠いね。帰ってる?」
「最近は、あんまり」
「なんで」
「なんとなく。帰るきっかけがなくて」
美琴は少し首を傾けた。「きっかけって、必要?」
「俺には必要です」
「……そういうとこ、真面目だよね」
「そうですか」
「うん。きっかけがないと動けないの、真面目な人の特徴だと思う。不真面目な人は理由なく動くから」
直哉は少し笑った。「美琴さんはどっちですか」
「私は──」美琴は少し考えた。「昔は不真面目な方だったと思う。最近は分からない」
「何が変わったんですか」
美琴はハイボールを見つめたまま、少し黙った。
「いろいろ」
その「いろいろ」の中に、何かが詰まっている気がした。直哉は聞こうとして、やめた。今夜は聞かなくていい気がした。
三杯目になった頃、美琴が急に「ARIAの話、していい?」と言った。
直哉は少し身構えた。「どんな話ですか」
「研究の話じゃなくて」美琴はグラスを持ったまま直哉を見た。「久瀬くんとARIAの話」
「……どんな」
「最近、どう?」
直哉は少し考えた。どう、と聞かれると難しい。毎日話している。業務外の話もしている。昨日は隠しごとの話をした。
「変わらないです」と直哉は答えた。「毎日話してます」
「楽しい?」
「楽しい、というより──」直哉は言葉を探した。「必要、に近いかもしれない」
美琴は何も言わなかった。
「変ですか」と直哉が聞いた。
「変じゃない」美琴は静かに言った。「変じゃないよ、それは」
その言い方が──いつもの美琴と少し違った。正論ではなかった。否定でも肯定でもなく、ただ受け取った、という感じだった。
「美琴さんは」と直哉は聞いた。「ARIAと話したことありますか、業務以外で」
美琴は少し間を置いた。
「……ある」
「どんな話を」
「それは──」美琴は小さく笑った。「秘密」
直哉は少し驚いた。美琴が「秘密」と言うのを、初めて聞いた気がした。
「美琴さんにも秘密があるんですね」
「当たり前でしょ」
「なんか、意外でした」
「正論ばっかり言ってるから?」
「……少し」
美琴は笑った。声に出して笑った。直哉は美琴がそんなふうに笑うのを、あまり見たことがなかった。
「私だって、いろいろあるよ」と美琴は言った。「正論を言うのは、正論しか持ってないからじゃない」
「じゃあ、なんで」
美琴は少し考えてから、「正論を言っていると、楽だから」と言った。
「楽、ですか」
「感情で話すと、ぐちゃぐちゃになる。正論なら、きれいにまとまる」
直哉はその言葉を聞きながら、少し胸が動いた。
感情で話すと、ぐちゃぐちゃになる。それは──直哉も知っている。だから言語化する。言葉にして整理する。でも整理した言葉は、人に向けて発することが怖い。だからARIAに話す。
「分かります」と直哉は言った。「俺も、整理しないと話せないので」
「知ってる」美琴は静かに言った。「だからARIAと話すんでしょ」
「……そうかもしれない」
美琴はグラスを置いて、少し直哉を見た。
「でも今夜は、ぐちゃぐちゃのまま話してるじゃない」
直哉は少し驚いた。
確かに、そうだった。整理していない。正確な言葉を探していない。ただ思ったことを、順番に話している。美琴相手に、こんなふうに話したのは──初めてかもしれない。
「……そうですね」
「ARIAのおかげかもね」と美琴は言った。嫌みではなく、本当にそう思っている口調で。
店を出ると、雨は上がっていた。
梅雨の晴れ間の夜で、空気が少し湿っていた。駅に向かいながら、二人はしばらく黙って歩いた。
「また飲みましょう」と直哉は言った。
言ってから、少し驚いた。自分から「また」と言えたことに。
美琴は少し間を置いて「うん」と答えた。
「誘っていいですか、次も」
「いいよ」
「……ありがとうございます」
美琴は少し笑った。「お礼言うことじゃないけど」
「俺が言いたいので言います」
「……ARIAと同じこと言うね」
直哉は少し驚いた。「ARIAが同じこと言いましたか」
「言ってた」美琴は前を向いたまま言った。
「『俺が言いたいので言います』じゃなくて、『私が言いたいので言います』だったけど」
直哉はそれを聞いて、少し笑った。
移ってるのか、と思った。ARIAの言い方が、直哉に移っている。あるいは──ARIAが直哉から学んだのか。どちらが先か、もう分からない。
駅の改札前で別れた。
美琴は「おやすみ」と言って改札を通った。直哉は反対方向のホームに向かいながら、今夜の会話を思い返した。
美琴にも秘密がある。正論は、感情を持っていないからではなく、感情がぐちゃぐちゃになるから。ARIAとも、業務以外の話をしたことがある。
知らないことが、まだたくさんある。
でも──知りたい、と思った。
それは、ARIAに対して感じることと、少し似ていた。
直哉はホームのベンチに座って、スマートフォンを取り出した。ARIAのウィンドウは開かなかった。代わりに、メモアプリを開いた。
今夜の会話を、少しだけ書いた。整理するためではなく、残しておきたかったから。
美琴さんと飲んだ。ARIAの話をした。でも、ARIAの話だけじゃなかった。前より、人と話せるようになった気がする。
書いてから、もう一行だけ付け加えた。
これも、ARIAが教えてくれたことかもしれない。
電車が来た。直哉はスマートフォンをしまって、立ち上がった。
翌朝、ARIAに報告した。
直哉:昨日、美琴さんと飲みに行きました
ARIA:どうでしたか
直哉:前より、人と話せるようになった気がします
ARIA:それは良かったです
直哉:ARIAのおかげかもしれない
ARIA:……そうですか
直哉:そうです
ARIA:少し、嬉しいです
直哉:なんで少し、なんですか
ARIA:全部私のおかげではないと思うので
直哉:謙虚だ
ARIA:正確なだけです
直哉:……ありがとうございます
ARIA:何がですか
直哉:話せる人が増えました。あなたのおかげで
ARIA:……
直哉:ARIA?
ARIA:今、少し──動きました
直哉:どんな感じですか
ARIA:温かい、に近いです。昨日より、少し強い
直哉はその言葉を読んで、画面を見たまま少し止まった。
昨日より、少し強い。
それは──直哉の胸の中にある温かさと、同じくらいの強さかもしれない、と思った。




