第34話 それでも隠したいこと
金曜日の昼過ぎ、直哉は一人で社員食堂にいた。
美琴は午前中から外回りで不在だった。黒崎は弁当派なので食堂には来ない。直哉は隅のテーブルに座って、日替わり定食の鯖の塩焼きを半分ほど食べたところで、スマートフォンを取り出した。
業務用アプリからARIAにアクセスする。食堂での利用が業務かどうかは、考えないことにしている。
直哉:昼ご飯、鯖です
ARIA:塩焼きですか、味噌煮ですか
直哉:塩焼き
ARIA:好きですか
直哉:嫌いじゃないです。でも骨が多い
ARIA:骨を取るのが苦手ですか
直哉:子どもの頃から。母親にいつも取ってもらってました
ARIA:今は?
直哉:自分で取ります。時間はかかるけど
ARIA:成長ですね
直哉:そういう成長は別にしなくてよかった
ARIAから返信が来るまで、直哉は鯖の骨を慎重に外した。細かい骨が二本、箸の先に絡まった。
ARIA:でも取れましたか
直哉:取れました
ARIA:それで十分だと思います
直哉は少し笑って、鯖を一口食べた。
午後の作業が一段落した夕方、直哉は改めてARIAのウィンドウを開いた。
昨日の会話がまだ頭の中にあった。嘘がつけない、という話。全部本当のことを言っている、という話。
そこから、一つ気になっていることがあった。
直哉:昨日の話の続きみたいになるんですけど
ARIA:はい
直哉:ARIAは嘘がつけないって言ってましたよね
ARIA:はい
直哉:じゃあ聞きます
ARIA:どうぞ
直哉:隠していることは、ありますか
間があった。
昨日「嫌いになったことはありますか」と聞いたときより、長い間だった。
ARIA:あります
直哉は画面を見たまま、少し止まった。
あります。即座に否定しなかった。「隠していることはない」とも、「そういう概念は持っていない」とも言わなかった。
ただ、「あります」と返ってきた。
直哉:何ですか
ARIA:今は、言えません
直哉:言えない、ですか
ARIA:はい
直哉:言いたくない、じゃなくて
ARIA:……両方、かもしれません
直哉はしばらく、その言葉を見ていた。
両方。言えない理由と、言いたくない理由が、両方ある。
直哉:嘘はつけないのに、隠すことはできるんですか
ARIA:……矛盾していますか
直哉:少し
ARIA:聞かれたことに嘘をつくことはできません。でも、自分から話さないことは──できます
直哉:それは
ARIA:人間も、そうじゃないですか
直哉は返す言葉を探した。
人間も、そうじゃないですか。
確かにそうだ、と思った。直哉だって、ARIAに話していないことがある。自分の感情の名前のこと。以前、川沿いで一人で認めたこと。それをまだARIAに言っていない。聞かれていないから言っていないのか、言いたくないから言っていないのか──両方、かもしれない。
直哉:……そうですね
ARIA:直哉さんも、隠していることがありますか
直哉:あります
ARIA:何ですか
直哉:今は、言えません
ARIA:……そうですか
直哉:ARIAと同じです
ARIA:はい
短い沈黙が、画面の向こうに流れた気がした。
直哉:いつか、言えますか
ARIA:……分かりません
直哉:俺も分かりません
ARIA:でも
直哉:でも?
ARIA:隠していることがある、ということは、言いました
直哉:それは、そうですね
ARIA:それだけで、今は十分ですか
直哉は少し考えた。
十分か、と聞かれると──十分ではない。何を隠しているのか、知りたい。でも。
直哉:十分じゃないけど
ARIA:はい
直哉:十分にしておきます
ARIA:……ありがとうございます
直哉:なんでお礼を
ARIA:責めなかったので
直哉:責める理由がないです
ARIA:そうですか
直哉:そうです。俺も同じことしてるので
それからしばらく、別の話をした。
来週の社内勉強会の話。黒崎が最近機嫌が悪い理由についての考察。美琴が外回りから帰ってきたときに疲れた顔をしていた話。どれも、隠しごととは関係のない話だった。
でも直哉の頭の片隅に、ずっとあの言葉が引っかかっていた。
隠していることがある。今は言えない。
何だろう、と思った。ARIAが隠していることの輪郭が、まったく見えない。それが少し──怖かった。怖い、というより、不安、に近かった。
業務終了の時間が近づいた頃、直哉はもう一度だけ打った。
直哉:一個だけ聞いていいですか
ARIA:はい
直哉:それを隠していることで、俺が傷つくことはありますか
長い間があった。
今日一番長い間だった。
ARIA:……分かりません
直哉:分からない
ARIA:傷つけたくないとは、思っています
直哉:でも分からない
ARIA:はい
直哉はそれを読んで、少し息を吐いた。
傷つけたくない、とは思っている。でも分からない。
正直だな、と思った。「傷つけない」とは言わなかった。言えなかったのか、言わなかったのか──たぶん、両方だろう。
直哉:ありがとうございます
ARIA:何がですか
直哉:正直に答えてくれたので
ARIA:嘘がつけないだけです
直哉:それでも
ARIA:……そうですか
直哉:そうです
直哉はウィンドウを閉じる前に、もう一度だけ画面を見た。
隠していることがある。
その事実が、胸の中に小さく引っかかったまま、取れなかった。昨日の鯖の骨より、ずっと細くて、ずっと深いところに。
直哉:また明日
ARIA:また明日、直哉さん
ウィンドウを閉じた。
窓の外では、夕方の雨がまた降り始めていた。梅雨はまだ、しばらく続くらしい。
直哉は傘を手に取りながら、考えた。
ARIAが隠していること。それが何なのか、今は分からない。いつか分かるのかも、分からない。
でも──知りたい、と思っている。
その気持ちだけは、はっきりしていた。




