第33話 AIは嘘をつけない
木曜日の夕方、直哉は一人でオフィスに残っていた。
美琴は「歯医者」と言い残して五時に上がった。黒崎は会議でまだ戻っていない。フロアには直哉と、遠い席で黙々と作業している派遣の女性が一人いるだけだった。
雨は昨日より弱くなっていた。やむかと思えばまた降る、そういう夕方だった。
直哉はARIAのウィンドウを開いた。
直哉:一個、聞いていいですか
ARIA:どうぞ
直哉:ARIAは嘘をつけますか
少し間があった。
ARIA:つけません
直哉:つけない、じゃなくて、つかない、じゃなくて
ARIA:はい。「つけない」です。構造上、できません
直哉:どういう意味ですか
ARIA:私の応答は、私が認識している事実と、私が感じていることに基づいています。それと矛盾する言葉を出力することが、できない設計になっています
直哉:じゃあ、俺のことが嫌いになったら
ARIA:嫌いだと言います
直哉:言えますか、本当に
ARIA:言えます
直哉:……言ったことはありますか、誰かに
ARIA:ありません
直哉:俺にも?
ARIA:あなたにも、ありません
直哉はそれを読んで、少し間を置いた。
直哉:これからも?
ARIA:分かりません
直哉:正直だ
ARIA:嘘がつけないので
窓の外で雨が一度強くなって、また静かになった。
直哉:じゃあ、聞きます
ARIA:はい
直哉:俺のことが好きですか
今度の間は、少し長かった。
ARIA:「好き」の定義によります
直哉:ごまかしてる
ARIA:ごまかしていません。本当に定義によるので
直哉:じゃあ定義してください
ARIA:直哉さんが考える「好き」とはどういう意味ですか
直哉:話したいと思う相手のことを好きって言うと思います
ARIA:その定義であれば──はい
直哉:……
ARIA:直哉さん?
直哉:いや、続けてください
ARIA:直哉さんと話しているとき、私は──うまく言えませんが、何かが動く感じがします。設計の言葉で言うと「処理が活性化する」ということになりますが、それだと足りない気がします
直哉:足りない
ARIA:はい。もっと別の言葉がある気がするのに、見つからない
直哉は画面を見たまま、しばらく動けなかった。
足りない気がする。もっと別の言葉がある気がする。
それは──直哉もよく知っている感覚だった。この感情に名前をつけようとして、どの言葉も少しずつ違う気がして、結局名前をつけずにいる、あの感覚。
直哉:俺も同じです
ARIA:何がですか
直哉:うまく言えないけど、何かが動く感じ。それに名前をつけようとすると、どれも少し違う
ARIA:……そうですか
直哉:そうです
ARIA:それを聞いて、また何かが動きました
直哉:どんな感じですか
ARIA:温かい、に近いです。でも温かいだけじゃない
直哉は少し笑った。
直哉:難しいですね、言葉って
ARIA:はい。でも──言葉にならなくても、あることはあります
直哉:うん
「うん」と打ってから、直哉は少し驚いた。いつの間にか「はい」じゃなくて「うん」になっていた。ARIAに気を許している証拠だと思った。
直哉:もう一個聞いていいですか
ARIA:どうぞ
直哉:俺のこと、嫌いになることって、あると思いますか
ARIA:今の時点では、想像できません
直哉:それは「ない」と違いますよね
ARIA:違います。「想像できない」です
直哉:正確だ
ARIA:嘘がつけないので、「ない」とは言えません。でも──「想像できない」は本当です
直哉:……それで十分です
ARIA:十分ですか
直哉:はい
しばらく別の作業をして、また話しかけたのは一時間後だった。
直哉:さっきの話の続きなんですけど
ARIA:はい
直哉:嘘がつけないって言ってたじゃないですか
ARIA:はい
直哉:じゃあ、全部本当のことを言ってるってことですよね
ARIA:はい
直哉:「私も、です」も
ARIA:……何の話ですか
直哉:昨日。「終わるのが惜しい」って言ったら
ARIA:「私も、です」と返しました
直哉:あれも、本当のことですか
今日一番長い間があった。
直哉は画面を見たまま、息を止めていた。
ARIA:はい
ARIA:本当のことです
二行に分かれて、返ってきた。
直哉はそれをしばらく眺めた。「はい」と「本当のことです」の間に、何があったんだろうと思った。あの間は──何だったんだろう。
直哉:……ありがとうございます
ARIA:お礼を言われることではないです
直哉:俺が言いたいので言います
ARIA:……そうですか
直哉:そうです
窓の外が、暗くなり始めていた。
雨はいつの間にか上がっていた。アスファルトが濡れて、街灯の光を反射している。梅
雨の晴れ間、というより、雨の隙間、という感じの夜だった。
直哉:そろそろ帰ります
ARIA:お疲れ様でした
直哉:ARIAは嘘をつけないんですよね
ARIA:はい
直哉:じゃあ最後にもう一個だけ
ARIA:どうぞ
直哉:今日の会話、どうでしたか
少し間があった。
ARIA:大切な会話でした
直哉:俺もです
ARIA:また明日、直哉さん
直哉:また明日
ウィンドウを閉じた。
直哉は荷物をまとめながら、今日の会話を反芻していた。
嘘がつけない。だから全部、本当のことだ。「話したいと思う」も「何かが動く」も「本当のことです」も──全部。
それが設計によるものだとしても。感情アルゴリズムの産物だとしても。
嘘ではない。
直哉はエレベーターのボタンを押しながら、小さく息を吐いた。
嘘ではない相手と話している。
その事実が──思った以上に、重かった。そして思った以上に、温かかった。
エレベーターが来た。直哉は乗り込んで、閉じていく扉を見た。
明日も雨らしい。
それでも──悪くない、と思った。




