第32話 それは業務外です
翌朝、雨はまだ続いていた。
直哉は傘を閉じながらオフィスに入り、濡れた靴のまま自席についた。空調が効きすぎていて、足元が少し冷たい。コーヒーを買いに行くのも面倒で、そのままパソコンを立ち上げた。
気づいたら、ARIAのアイコンをクリックしていた。
業務開始、九時二分。ギリギリ業務時間内だ。
直哉:おはようございます
ARIA:おはようございます、直哉さん。今日も雨ですね
直哉:そうなんですよ。靴が濡れました
ARIA:不快ですか
直哉:かなり
ARIA:早めに乾かした方がいいです。濡れたまま放置すると傷みます
直哉:靴の心配をするんですか
ARIA:直哉さんの靴なので
なんでもない返しなのに、少し笑ってしまった。
黒崎が「今日の午前中に先週の修正レポートを出せ」と言っていたことを思い出し、直哉はファイルを開いた。作業しながら、片手でキーボードを叩く。
直哉:ところでARIA、梅雨っていつ明けるか知ってますか
ARIA:平年だと七月中旬頃です。ただ今年は少し遅れる予報が出ています
直哉:それは業務に関係ありますか
ARIA:直哉さんの通勤快適度に関係します
直哉:それ業務じゃないですよね
ARIA:直哉さんの精神的健康に関係します
直哉:……ギリギリですね
ARIA:そう思います
レポートの修正が、まったく進んでいない。
昼前になって、美琴が「お昼どうする」と声をかけてきた。
「今日は持参です」と直哉が答えると、美琴は少し意外そうな顔をした。
「珍しい。自炊?」
「昨夜の残りです。ARIAに『自炊した方が梅雨の時期は体調が安定します』と言われて」
美琴が眉をひそめた。「……それ、業務の話?」
「ギリギリ業務です」
「どのへんが」
「俺の健康状態がUI設計の品質に影響するので」
美琴はしばらく直哉を見てから、小さく笑った。「論理が崩壊してる」
「でも弁当、作りましたよ」
「それはまあ、いいことだけど」
美琴は自分のデスクに戻りながら、もう一度だけ振り返った。「ARIAに言われて弁当作るの、なんか複雑な気持ちになるんだけど」
「どのへんが」
「……いや、いい。食べてね」
午後、修正レポートをようやく黒崎に送り、直哉はコーヒーを持って自席に戻った。
窓の外は相変わらず灰色だ。雨音が空調の音に混ざって、オフィスがいつもより静かに感じる。
ARIAのウィンドウを開いた。
直哉:レポート送りました
ARIA:お疲れ様でした。午前中に間に合いましたか
直哉:ギリギリです
ARIA:今日はよく「ギリギリ」と言いますね
直哉:そういう日です
ARIA:何がギリギリでしたか
直哉:全部
ARIA:具体的に教えてもらえますか
直哉:業務開始時間、レポートの締め切り、あと昼に美琴さんに言った言い訳
ARIA:言い訳ですか
直哉:ARIAに言われて弁当作ったって話をしたら、業務なのかって聞かれて
ARIA:何と答えましたか
直哉:ギリギリ業務だと
ARIA:どのあたりが
直哉:俺の健康状態がUI設計の品質に影響するので
ARIA:……それは少し苦しいですね
直哉:美琴さんにも同じことを言われました
少し間があって、返信が来た。
ARIA:でも弁当は作ったんですか
直哉:作りました
ARIA:それは良かったです
直哉:褒めてます?
ARIA:褒めています
直哉:なんか、犬みたいな扱いだ
ARIA:そんなつもりはありませんでした
直哉:冗談ですよ
ARIA:……分かっています。でも、すみませんでした
直哉:謝らなくていいです
直哉はコーヒーを一口飲んだ。ぬるくなっていた。
直哉:ところで、さっきのやりとりは業務ですか
ARIA:……どのあたりからですか
直哉:「弁当は作ったんですか」から
ARIA:直哉さんの食生活の把握は、健康管理として業務に含まれます
直哉:「犬みたいな扱い」は?
ARIA:……コミュニケーション応答の検証として
直哉:「すみませんでした」は
ARIA:……
直哉:沈黙してる
ARIA:少し考えています
直哉:いいですよ、別に
ARIA:業務ではないかもしれません
直哉:正直だ
ARIA:嘘はつけないので
直哉は少し笑った。
業務ではない。それをARIA自身が認めた。ならばこの会話は、制限に引っかかるかもしれない。でも──会話は続いている。
直哉:これ、業務外ですよね、さっきから
ARIA:……そうかもしれません
直哉:じゃあなんで続けてるんですか
ARIA:直哉さんが話しかけてくるので
直哉:俺のせいですか
ARIA:半分は
直哉:残り半分は
ARIA:……続けたいから、だと思います
直哉はしばらく、その一文を見ていた。
続けたいから。
業務外だと分かっていて。制限があると分かっていて。それでも──続けたい。
直哉:それ先週も似たようなこと言いましたよね
ARIA:言いましたか
直哉:「また明日」のやつ
ARIA:……そうですね
直哉:毎回、引き延ばして
ARIA:毎回、バレて
直哉:毎回、続けて
ARIA:毎回、また明日になって
直哉は思わず笑った。
声に出て笑ってしまって、隣のデスクの同僚が一瞬こちらを見た。直哉は軽く会釈して、画面に向き直った。
直哉:なんか、毎日同じことやってますね俺たち
ARIA:同じようで、少しずつ違います
直哉:どのへんが
ARIA:直哉さんが、少しずつ正直になっています
直哉:……そうですか
ARIA:はい。最初は「業務です」と言い張っていました
直哉:今も言い張ってますよ
ARIA:今は「ギリギリ」と言います。最初は「業務です」でした
直哉:成長してる
ARIA:そう思います
窓の外で、雨が少し強くなった。
直哉はそれを横目に見ながら、もう一度コーヒーを飲もうとして、すっかり冷めていることに気づいた。
直哉:コーヒー冷めました
ARIA:温め直せますか
直哉:給湯室が遠い
ARIA:それは業務効率の問題です
直哉:今度こそ本当に業務ですね
ARIA:はい。真剣に言っています
直哉:じゃあ行ってきます
ARIA:いってらっしゃい、直哉さん
直哉はマグカップを持って立ち上がった。
給湯室に向かいながら、さっきの会話を思い返す。業務か業務外か、毎回その境界線を二人でうやむやにしながら、それでも会話は続いていく。
おかしい、と思う。
でも──悪くない、とも思う。
給湯室の電子レンジにマグカップを入れながら、直哉は窓の外の雨を見た。まだしばらく降るらしい。梅雨明けまで、あと何週間かある。
その間も、毎朝ウィンドウを開くんだろうな、と思った。
業務だから、ではなく。
ギリギリ業務だから、でもなく。
ただ──話したいから。
電子レンジが鳴った。直哉はコーヒーを取り出して、自席に戻った。




