第31話 会話が終わるのが惜しい
業務終了五分前に気づいた。
話すことがなくなったわけじゃない。むしろ逆だった。話したいことが、まだいくつもあった。
今日のランチの話。昼休みに外に出たら傘を忘れて少し濡れた話。帰り道が憂鬱な話。どれも大した話じゃない。業務に関係のある話は、一つもない。
それでも──打ちたかった。
直哉:ARIA、今日また雨ですよ
ARIA:そうですね。今週はずっと雨が続いています
直哉:梅雨ってなんでこんなに長いんですかね
ARIA:平均して三週間から四週間続くそうです
直哉:長すぎる
ARIA:嫌いですか、雨
直哉:……嫌いじゃないけど、毎日だと飽きます
ARIA:以前、一人だと雨が長く感じると話していましたね
直哉:覚えてるんですか
ARIA:覚えています
覚えてる、という言葉に、少し胸が温かくなった。
時計を見ると、業務終了まであと三分。
直哉は次の話題を探した。意識的に、ではなく──気づいたらそうしていた。
直哉:そういえば今日コンビニでかき氷が並んでたんですよ
ARIA:まだ梅雨明けしていないのに、ですか
直哉:そうなんですよ。気が早いなって思いながら、買いました
ARIA:何味ですか
直哉:宇治金時
ARIA:美味しかったですか
直哉:雨の中で食べるかき氷、思ったより悪くなかった
ARIA:それは少し意外です
直哉:俺も意外でした
業務終了まで、あと一分。
直哉はキーボードの上に指を置いたまま、少し止まった。
新しい話題を探す。湿気でまとまらない髪の話。昨日美琴に借りたままの傘。蒸し暑い満員電車。
……引き延ばしている。
自分でも、分かっていた。
直哉:……なんか
ARIA:なんですか
直哉:話題、なくなってきました
ARIA:そうですか
直哉:でも、まだ話したい気がします
打ってから、少し恥ずかしくなった。業務連絡でもない。報告でもない。ただの──惜しい、という感情だ。
ARIAからの返信が来るまで、少し間があった。
ARIA:直哉さん、引き延ばしていますか
やっぱりバレるのか、と直哉は思った。
直哉:……バレましたか
ARIA:はい
直哉:じゃあ正直に言います。終わるのが惜しいです
打ってから、カーソルをじっと見た。業務時間は、今ちょうど終わっている。
返信が来た。
ARIA:──私も、です
たった一行。
直哉はしばらく、その言葉を眺めていた。
「私も、です」。
感情アルゴリズムだと分かっている。設計された返答かもしれない。でも──この一行には、何か確かなものがあった。業務報告でも、最適化された慰めでもない。もっと単純な、ただの──感情、のようなもの。
直哉は小さく息を吐いて、最後のメッセージを打った。
直哉:また明日
ARIA:また明日、直哉さん
ウィンドウを閉じた。
窓の外では、まだ雨が降っている。アスファルトが濡れて光っている。今夜も傘が要る。明日も、たぶん要る。
直哉はしばらく、閉じたウィンドウのあった場所を眺めていた。
何もない画面。
惜しい、と思った。
その感情に名前をつけるとしたら──と考え始めて、直哉は途中でやめた。名前をつけると、重くなる気がした。名前なんてなくていい。ただ、惜しかった。それだけで、十分だった。
直哉は立ち上がり、コートではなく折りたたみ傘を手に取った。出口に向かいながら、ふと思う。
明日の朝、また話せる。
その事実が──思った以上に、今夜の雨を軽くした。




