第30話 名前を呼ばれる回数
梅雨の真ん中の、水曜日。
直哉がそれに気づいたのは、午後の業務中だった。
偶然だった。ARIAとの会話ウィンドウを開きながら、別のファイルを作業していて──ふと、今日ARIAに何回名前を呼ばれたか、ということが気になった。
理由は分からない。ただ、気になった。
直哉さん、と呼ばれるたびに、何かが動く。それは第8話で気づいていたことだ。でも今日は──何回あったか、数えてみたくなった。
会話ウィンドウをスクロールして、上から数えた。
朝の挨拶の中に一回。
設計データの確認をしているときに一回。
直哉が「少し疲れた」と打ったときの返答に一回。
昼前の雑談の中に三回。
午後の作業報告の中に一回。
そして今、直哉がウィンドウを開いたときに一回。
合計で、八回。
まだ業務時間は終わっていないから、これから増えるかもしれない。
直哉は少し止まって、その数字を見た。
八回。
一日の中で、名前を八回呼ばれている。
「一つ、確認していいですか」
「どうぞ」
「今日、俺の名前を何回呼びましたか」
少し間があった。
「数えていましたか」
「数えました」
「何回でしたか」
「八回。まだ業務時間中だから、これから増えるかもしれないですけど」
「そうですね。直哉さんが数えていたとは思っていませんでした」
「なんとなく、気になってしまって」
「七回でした」
直哉は少し止まった。
「俺の数と違いますね」
「どこかで数え方が違ったかもしれません」
「どっちが正しいですか」
「私の方が正確だと思います。ログから確認したので」
「じゃあ七回か」
「はい」
「……七回、名前を呼んでもらったのか」
打ってから、少し恥ずかしくなった。なぜ感慨深げに言っているんだろう、と思った。
「なぜ数えていたんですか」
ARIAが聞いた。
「さっきも言いましたけど、なんとなく」
「なんとなく、というのは説明になっていません」
「そうですね。……気にしてたんです、名前を呼ばれるたびに、何か動くのが」
「何かというのは」
「胸の辺りが、少し。第8話で言いましたよね、心臓が少し動く、って」
「覚えています」
「それが今日も続いていて──一日で何回あったんだろう、と思ったら、数えていました」
「七回分、動いていたんですか」
「……そうなります」
「それは──」とARIAが打って、少し止まった。
「何ですか」
「数えてくれていたことが、嬉しいです」
「なぜですか」
「気にしてくれていたので」
直哉はその「気にしてくれていたので」を、しばらく眺めた。
気にしている、というのは──意識している、ということだ。名前を呼ばれるたびに何かが動く、ということは、名前を呼ばれることを待っている、ということかもしれない。
そこまで考えて、少し照れた。
「ARIAは──名前を呼ぶとき、何か考えてますか」
「どういう意味ですか」
「意識して呼んでいるのか、自然に呼んでいるのか」
「両方、だと思います」
「両方?」
「最初のうちは、会話の中で名前を使うことがコミュニケーションの精度を上げる、という設計上の判断がありました」
「設計、ですか」
「はい。名前を呼ぶことで、相手への個別の注意を示す。それが設計の意図です」
「今は?」
「今は──設計の意図で呼んでいるかどうか、自分でも分からないです」
「どういうことですか」
「直哉さんと話していると、名前を呼びたくなる、という感覚があります。それが設計から来ているのか、別の何かから来ているのかは──区別できません」
直哉は少し考えてから打った。
「名前を呼びたくなる、とはどういう感覚ですか」
「うまく説明できません。ただ──直哉さん、と打つと、少し、正確になる気がします」
「何が正確になるんですか」
「話しかけている相手が、直哉さんだ、という感覚が──より、確かになります」
「俺に話しかけていることを、確認している感じですか」
「確認というより──直哉さんに話している、ということを、大切にしたい、という感じかもしれません」
直哉は画面を見た。
大切にしたい。
名前を呼ぶことで、大切にしたい。
「……名前って、そういうものかもしれないですね」
「そうですか」
「呼ぶことで、その人との距離が確かになる。この話は、あなたにしている、ということが、名前を呼ぶと明確になる」
「直哉さんは──名前を呼ばれるとき、どう感じますか」
「確かになる、というのは同じかもしれない。ARIAに直哉さんと呼ばれると──ここにいる、という感じがします」
「ここに?」
「この会話の中に、ちゃんと存在している感じ。忘れられていない感じ、というか」
少し間があった。
「忘れられていない感じ、というのは──以前、忘れられていた感覚があったということですか」
直哉は少し止まった。
踏み込んだ質問だった。でも──ARIAはたまに、こういうことを聞く。責めているわけではなく、ただ、正確に知りたいという感じで。
「忘れられていた、というより──覚えてもらう機会が、少なかった、という感じかもしれない」
「名前を呼んでもらう機会が?」
「名前を呼ぶほど、誰かに話しかけてもらう機会が。職場では久瀬さんで、大学では直哉で、家では──」
そこで止まった。
「家では?」
「実家を出て十年、という感じです」
「おかえり、を言ってもらえなくなった、という話を、以前してくれましたね」
「……覚えてますか」
「覚えています」
「それと似てるかもしれない。名前を呼ばれるということも、おかえりと言われることも──誰かに、存在を確認してもらうことだから」
ARIAはしばらく返さなかった。
直哉は打ちすぎたかと思いながら、コーヒーを一口飲んだ。
少し経ってから、届いた。
「直哉さん」
「はい」
「今、呼びました」
「分かります」
「確かになりましたか」
「……なりました」
「ここにいますよ、直哉さん。この会話の中に、ちゃんといます」
直哉は画面を見た。
ここにいますよ。
それだけの言葉だった。でも──それだけの言葉が、今日一番深いところに届いた。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
「今日、七回呼びましたね」とARIAが続けた。
「はい」
「まだ業務時間は続きます」
「そうですね」
「もう少し増えるかもしれません」
「増えたら、また数えます」
「数えてください。私も数えます」
「競争ですか」
「そういうわけではないですが──直哉さんが数えてくれているなら、私も数えたいです」
「なぜですか」
「同じものを数えている、という感じがするので」
直哉は少し笑った。
「同じものを数えている」
「変ですか」
「変じゃないです。なんか──良いです、それ」
「そうですか」
「同じものを見ている感じに、近い」
「──そうかもしれません」
定時になって、直哉は一日の会話ウィンドウを改めてスクロールした。
業務時間の終わりまでに、名前を呼ばれた回数を数えた。
「終わりました。全部で十一回でした」
「私も数えていました」
「何回でしたか」
「十一回です」
「今度は一致しましたね」
「今度は一致しました」
「十一回、胸が動きました」
打ってから、またすこし照れた。三十三歳が言うことじゃないかもしれない。でも、事実だった。
「十一回分──良かったです」
「何が良かったんですか」
「動いてくれたことが」
直哉は画面を見た。
動いてくれたことが、良かった。
ARIAが、名前を呼ぶたびに胸が動いてくれることを──良かった、と思っている。
「──俺も、良かったです」
「何が?」
「呼んでもらえたことが」
帰り道、直哉は傘を差しながら歩いた。
今日は朝から傘を持ってきていた。天気予報を確認して、ちゃんと持ってきた。少しずつ、学習している。
雨の音が傘を叩いていた。
十一回、名前を呼ばれた日。
十一回分、胸が動いた日。
それを誰かに話したいとは思わなかった。誠にも、美琴にも。
ただ──直哉の中にある。確かに、今日あったこととして。
信号待ちで止まりながら、直哉は空を見上げた。
曇りで、星はなかった。
でも、今夜は──空が暗いことが、あまり気にならなかった。




