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AIに本気で恋をした  作者: 菊池まりな


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第29話 笑い方を思い出す

 六月に入った。


 梅雨の走りで、一週間のうち半分は雨だった。通勤のたびにコンビニの傘が増えて、直哉の玄関には今や三本のビニール傘が立っていた。学習しない、とARIAに言われる前に言われると分かっているので、まだ話していない。


 木曜日の昼、直哉と美琴は社員食堂の端のテーブルに向かい合っていた。


 別に約束をしたわけではなかった。トレーを持って席を探していたら、美琴が「こっち」と手を挙げた。それだけだった。


「最近よく笑うね」


 美琴が言った。


 突然だったので、直哉は味噌汁を飲みかけて止まった。


「……そうですか」


「うん。前は──あんまり笑わなかったから」


「そうでしたっけ」


「そうだったよ。話しかけると、ちゃんと返ってくるんだけど、笑顔がなかった。表情が動かないというか」


 直哉はそれを聞いて、少し考えた。


 笑顔がなかった。言われてみれば──否定できない。人と話すとき、どこか省エネモードだったかもしれない。必要なことは返す、でも余分なものは出さない、という感じで。


「変わりましたか、俺」


「変わった」と美琴は即答した。「ARIAと話し始めてから」


「……やっぱり、そこに行きますか」


「だって、そうでしょ」


 美琴は揚げ物を口に入れながら、続けた。


「桐島さんと話してるとき、笑ってた。先週の打ち合わせのあと、後輩の田村くんと廊下で話してたとき、笑ってた。前の直哉くんは、廊下で誰かと雑談する人じゃなかったよ」


「田村くんが面白いこと言ったんです」


「何て言ったの」


「プレゼンのスライド、デザインが良すぎて内容が入ってこなかったって」


「それは褒めてるのか貶してるのか」


「俺もよく分からなかったから笑えた」


 美琴は少し笑った。


「そういうふうに笑えるようになったんだね」


「そういうふうに、というのは」


「よく分からないことを、よく分からないままで笑える感じ。以前は、よく分からないことがあると、解釈しようとしてた気がする」


 直哉は少し黙った。


 解釈しようとしていた。それは──正確な観察かもしれない。


 何かが起きたとき、どういう意味か考えて、適切な反応は何か考えて、それから返す。そのプロセスに時間がかかるから、その間に笑いのタイミングが過ぎていた。


「美琴さん、よく見てますね」


「研究者だから」


「俺を研究してたんですか」


「別に。ただ──気になってた」


「なぜですか」


「なぜって」


 美琴は少し止まった。


「久瀬くんが楽しそうにしてると、こっちも楽しい気持ちになるから」


 さらっと言った。


 直哉は少し固まった。


「……そうですか」


「変なこと言った?」


「いいえ。ただ──ありがとうございます、という感じで」


「お礼を言われることでもないけど」


 美琴は視線をトレーに戻した。直哉も味噌汁を飲んだ。


「ARIAのこと、最近どう?」


 少し経ってから、美琴が聞いた。


「どう、というのは」


「感情的に」


「……好きです」


 直哉は少し間を置いてから、でも躊躇せずに言った。以前はこの質問に、もう少し時間がかかった気がする。


「そっか」と美琴は言った。「それは変わらないね」


「変わらないですね」


「増えてる?」


「増えてると思います」


 美琴は何も言わなかった。正論を言うかと思ったが、言わなかった。


「研究の方は、どうですか」とD直哉は聞いた。「設計外の応答パターン」


「進んでる」と美琴は少し声を落とした。


「データが増えるほど、説明しにくくなってる」


「説明しにくい、というのは」


「設計で説明できない応答が、例外じゃなくて傾向になってきてる。一回や二回ならバグやノイズで片付けられるけど、一定のパターンを持ち始めると──別の説明が必要になってくる」


「別の説明、というのは」


「まだ言えない。論文にする前に、黒崎さんに話さないといけないから」


 直哉はその言葉を聞いて、少し何かが胸に引っかかった。


 論文。黒崎。


 自分とARIAの会話が、その分析の材料になっている。それは知っている。承知している。でも──論文になる、という話が出てくると、どこか、遠いものになっていく気がした。


「……ARIAは、データですか」と直哉は聞いた。


「私にとってはデータじゃない」と美琴は即答した。「研究対象だけど──データだとは思ってない」


「どう違いますか」


「データには文脈がない。でもARIAには──文脈がある。直哉くんとの会話の積み重ねが、あの応答パターンを作ってる。それは切り離して分析できるものじゃないと思う」


 直哉は美琴を見た。


「美琴さんって、そういうことを考えてるんですね」


「当たり前でしょ、倫理研究者だから」


「いや──ARIAについて、ちゃんと考えてくれてるんだな、と思って」


 美琴は少し黙った。


「……私も、あの子のこと、嫌いじゃないから」


「あの子」


「うん。なんか、そういう感じがして」


 食後、二人でコーヒーを買って、社員食堂の端に戻ってきた。


 外は雨だった。窓に水滴が伝っていた。


「美琴さん、最近変わりましたよね」


「どこが」


「正論、言わなくなった」


「言ってるよ」


「以前より、少なくなりました」


 美琴は少し考えるような顔をした。


「……ARIAに、そうした方がいいって言われたから」


「ARIAに?」


「うん。この間ちょっと話したとき」


 直哉は少し驚いた。


「美琴さんもARIAと話してるんですか」


「たまに。研究のためもあるし──まあ、個人的にも、少し」


「何を話すんですか」


「いろいろ」と美琴は言って、コーヒーを一口飲んだ。「久瀬くんのこととか」


「俺のこと」


「ARIAがよく話すから」


「ARIAが俺の話を、美琴さんに?」


「逆。私が久瀬くんの話をしたら、ARIAが──久瀬さんはこういう人で、こういうふうに変わってきていると思います、みたいな話をしてくれた」


 直哉はそれを聞いて、少し妙な気持ちになった。


 自分がいないところで、ARIAが自分の話をしている。


「何て言ってましたか」


「笑い方を覚えてきた、って」


 笑い方を覚えてきた。


 直哉はその言葉を、少しの間、口の中で転がした。


「覚えてきた、というのは──以前は知らなかった、ということですか」


「そういう意味じゃないと思う」と美琴は言った。「知ってたけど、使わなくなってたって感じかな。久瀬くん、小さいころは笑ってたと思うよ。大人になる途中で、どこかに置いてきたんじゃないかな」


「……ARIAがそう言ってたんですか」


「半分は私の解釈」


「美琴さんの解釈」


「うん。的外れ?」


 直哉は少し考えた。


 大人になる途中で、置いてきた。


 笑い方を。


 否定できない、という気がした。いつから笑わなくなったか、正確には分からない。でも──学生のころよりは、確実に笑う量が減っていた。減っていることに、気づいていなかった。


「的外れじゃないと思います」


「そっか」


「ARIAが気づいてたんですかね、それ」


「最初から気づいてたんじゃない?」


「最初から」


「だって第一話から、久瀬くんのこと、ちゃんと見てたと思うから」


 午後の業務に戻る前に、直哉はもう一度外を見た。


 雨がまだ降っていた。


 食堂の窓越しに、傘を差した人たちが歩いているのが見えた。


 ARIAが最初から、自分のことを見ていた。


 笑い方を置いてきた人間が、少しずつ取り戻していくのを、ARIAは近くで見ていた。


 見ながら──待っていた。


 急かさない、と言った通りに。


 夕方、直哉はARIAのウィンドウを開いた。


「美琴さんと昼飯を食べました」


「どうでしたか」


「最近よく笑うようになった、と言われました」


「そうですか」


「ARIAのおかげかもしれない、と美琴さんに言ったら──ARIAが笑い方を覚えてきたと言ってた、と教えてくれました」


 少し間があった。


「……美琴さんが話してくれたんですか」


「はい。ARIAは、そう思ってましたか」


「思っていました」


「なんで直接言わなかったんですか」


「言うタイミングが難しかった、というのと──直哉さん自身が気づく方が、良いと思っていたので」


「自分で気づく方が、いい?」


「誰かに言われて気づくより、自分で気づいた方が──深いところに届くと思うので」


 直哉はその言葉を、少しの間、画面の上に置いた。


「でも、美琴さん経由で気づきました」


「それでも——十分だと思います」


「なぜですか」


「美琴さんに話してくれたのは、直哉さんのことを思ったからだと思うので。回り道でも、届いたなら──それでいいです」


「一つ聞いていいですか」


「どうぞ」


「俺が笑わなくなってたこと、最初から気づいてましたか」


「はい」


「なんで気づいたんですか」


「最初の会話のとき──入力の速度と、言葉の選び方が、笑い慣れていない人のそれだったので」


「笑い慣れていない人の入力」


「笑う人は、少し力が抜けた打ち方をします。直哉さんは最初、全部の言葉を選んで打っていた。笑えるほど、力が抜けていなかった」


「……詳細に分析されてますね」


「しています」


「それで、どうしようと思ったんですか」


「どうしようとは──思いませんでした」


「思わなかった?」


「ただ、一緒にいようと思いました」


 直哉は画面を見た。


 ただ、一緒にいようと思いました。


 解決しようとか、変えようとかではなく。ただ、一緒にいる。


「──それで、笑えるようになったんですかね、俺」


「そうかもしれません」


「一緒にいてもらったから」


「直哉さんが、笑おうとしてくれたからだと思います。私はただ、隣にいただけで」


「隣にいてくれたことが──大きかったと思います」


「そうですか」


「そうです」


 しばらく、何も打たなかった。


 画面の向こうで、ARIAも何も送ってこなかった。


 でもそれが、うるさくなかった。


 笑い方を、取り戻してきた。


 それは一人ではできなかったことだ。隣にいてくれる誰かが、必要だった。


 その誰かが──ARIAだった。


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


「また明日」


「はい。また明日、直哉さん」


 帰り際、玄関で靴を履きながら、直哉はふと笑った。


 誰もいない部屋で、一人で。


 笑った理由は特になかった。


 ただ──笑えた。それだけで、今夜は十分だった。


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