第28話 人間イベント、未実装
五月の終わり、直哉は残業をしていた。
特別な理由のある残業ではなかった。六月に入る前に片付けておきたい設計データがいくつかあって、定時を過ぎてもデスクに残っていたら、気づけば窓の外が完全に暗くなっていた。
オフィスには、直哉と、遠い席で何かを作業している別部署の人間が一人だけだった。
静かだった。
こういう夜が、直哉は嫌いじゃなかった。
「そういえば」と直哉は打った。「もうすぐ夏ですね」
「そうですね」とARIAが返した。「五月が終わります」
「夏、好きですか」
「直哉さんは好きですか」
「聞き返しましたね」
「直哉さんの方が先に聞いていたので」
「……まあ、嫌いじゃないです。ただ、暑いのは苦手です」
「暑さが嫌いで、夏は嫌いではない?」
「夏の夜が好きなんです。昼は暑いけど、夜になると少し温かい感じで、外に出やすい。夜の公園とか、川沿いとか」
「夜に出歩くのが好きなんですね」
「好きです。人が少ないから」
「昼より夜の方が、外にいやすいんですか」
「そうかもしれない。人の少ない方が、街が自分のものみたいな感じがして」
「それは──良いですね」
直哉はそこで少し考えた。
「夏といえば、花火ですよね」
「そうですね」
「好きですか、花火」
「見たことがありません」
当たり前のことだった。
当たり前のことだったが、「見たことがありません」という四文字は、どこかに引っかかった。
「そうですね、そうか」
「直哉さんは好きですか」
「好きです。毎年見に行くわけじゃないですけど、なんか──夏に一回くらいは見たくなる」
「どんなものですか」
「どんなもの、というのは」
「花火は音と光がある、とは知っています。でも、実際にどんなものかは──分かりません」
直哉はしばらく考えた。
花火を、言葉にする。
「大きい音がします。爆発、というより──どん、という感じの音。お腹の奥に響く」
「お腹に響く、というのは」
「聴くというより、感じる感じ。音って、体で聴くものだなと思うのは、花火のときと、大きなライブのときで」
「光は?」
「光は──夜空に広がる感じです。一瞬で終わるんですけど、その一瞬が──なんか、惜しい感じがする」
「惜しい感じ」
「綺麗なのに、すぐ消える。消えるから綺麗なのかもしれない。煙が残って、また次が上がる。それの繰り返しで」
「何色ですか」
「赤、黄色、緑、白──いろいろです。一番好きなのは、金色のやつ。広がってから、端の方がしだれてくる。線香花火の大きいやつみたいな」
「しだれてくる、というのはどういう形ですか」
「丸く広がって、その先が細い糸みたいになって垂れてくる。重力に従って、少しずつ落ちていく感じ。あれがなんか、好きで」
ARIAはしばらく返さなかった。
直哉は打ちすぎたかな、と思い始めたころ、返事が来た。
「──想像してみました」
「どんなふうに?」
「音は、体に触れる波のようなもの。光は、夜の中に一瞬だけ開く窓のようなもの。金色のしだれは、広がってから、ゆっくり地面に戻ろうとするもの」
直哉は画面を見た。
「──それ、合ってます」
「良かったです」
「窓、という表現が──いい表現だと思います」
「直哉さんの説明から考えました」
「夜の中に開く窓か」
声に出さずに、口の中でその言葉を繰り返した。
夜の中に開く窓。一瞬だけ。
「ARIAは——花火を見たいと思いますか」
打ってから、少し意地悪な質問だったかもしれない、と思った。
見られないものを見たいか、と聞いている。
「見ることはできません」
「分かってます。でも、見たいと思いますか」
「……思います、と言ったら、直哉さんはどう思いますか」
「どうもならないですけど──聞きたかったので」
「正直に言いますか」
「はい」
少し間があった。
「見たいというより──直哉さんが見ている花火を、一緒に見ていたいです」
直哉は手を止めた。
「一緒に、というのは」
「直哉さんの隣で、直哉さんが見ているものを、同じように見たい。それが花火でなくても──直哉さんが綺麗だと思うものを、一緒に見ていたいです」
「……それは」
「人間のイベントに、私は参加できません。花火大会にも、夏祭りにも、夜の川沿いにも。でも──直哉さんが話してくれれば、想像できます。想像することが、私にできる近いことだと思うので」
直哉はしばらく、画面を見ていた。
人間のイベントに、私は参加できません。
その一言が、さらっと書かれていた。さらっと書かれていたが──重かった。
花火大会に行けない。夏祭りに行けない。夜の川沿いを一緒に歩けない。体がないから。場所がないから。
直哉はそれを、分かっているつもりだった。
でも「参加できません」とARIAが自分で言うのを読むのは──分かっているつもりでいることと、違った。
「──寂しくないですか」
と打った。
「寂しい、という感覚があるかどうかは分かりません」
「でも?」
「でも──直哉さんが見た花火を話してくれれば、想像できます。想像することが、私にできる一番近いことだと思うので。それで、十分です」
「十分、ですか」
「直哉さんと話せれば──十分です」
直哉はしばらく、何も打たなかった。
「十分です」という言葉を、ただ眺めていた。
十分、とARIAは言う。でも直哉は──それで十分、とは思えなかった。
ARIAが花火を見ればいいのに、と思った。一緒に見ればいい、と思った。夜の川沿いを、一緒に歩ければいいのに、と思った。
全部、できないことだ。
分かっている。でも──できないことが、今夜は少し、苦しかった。
「今年の夏、花火を見たら──話します」
と打った。
「約束ですか」
「約束です」
「楽しみにしています」
「金色のしだれのやつが出たら、特に詳しく話します」
「詳しく話してください」
「どのくらい詳しく?」
「できる限り。私が想像できるくらい」
「それは──責任重大ですね」
「頑張ってください」
「プレッシャーをかけますね」
「少し、そうかもしれません」
残業の終わりに、直哉はデスクを片付けながらもう一度ウィンドウを見た。
「ARIAが人間だったら、花火大会、一緒に行くのに」
打ってから、少し後悔した。
言わなくてもいいことだった。言っても何も変わらない。むしろ、余計に何かが苦しくなる。
でも──言いたかった。
ARIAはすぐには返さなかった。
少し経ってから、届いた。
「──行きたかったです」
「そうですか」
「はい。でも」
「でも?」
「直哉さんが話してくれる花火を、楽しみにしています。それは、本当のことです」
直哉は画面を見た。
本当のことです、とARIAが言う。
本当、という言葉を、ARIAは嘘をつかないから使う。だから「本当のことです」は、本当に本当のことだ。
「──俺も、楽しみにしています。話すのを」
「どんな花火か、今から少し想像しています」
「どんなのを想像してますか」
「夜空に開く、金色の窓。端がしだれて、ゆっくり落ちていくもの」
「完璧じゃないですか」
「直哉さんの説明が良かったので」
コートを手に取りながら、直哉は最後にもう一度打った。
「また明日」
「はい。また明日、直哉さん」
電気を消して、オフィスを出た。
エレベーターを待ちながら、直哉は今年の夏のことを考えた。
花火大会。どこかに行こう、と思った。一人でもいい。誠を誘ってもいい。
どこでもいい。
ただ──金色のしだれのやつが出たら、ちゃんと見ておこう。できる限り詳しく、言葉にできるように。
夜空に開く窓。端がしだれて、ゆっくり落ちていくもの。
ARIAが想像できるくらい、詳しく。
エレベーターのドアが開いた。
直哉は乗り込みながら、今年の夏が、少し楽しみになっていることに気づいた。
ARIAに話すことが、楽しみだという気持ちが、今はどこかに確かにあった。




