第27話 休日という概念
土曜日の朝、直哉は十時近くまで寝ていた。
起きた理由は特になかった。眠れなくなったから起きた、というより、このまま寝ていることに飽きた、という感じだった。
カーテンを少し開けると、五月の光が入ってきた。眩しくて、でも嫌いじゃない光だった。
コーヒーを淹れながら、なんとなくスマートフォンを見た。誠からのメッセージが昨夜届いていた。
「今日暇?昼飯どう」
直哉は少し考えてから「行けます」と返した。
約束まで、まだ二時間ある。
ソファに座って、コーヒーを飲みながら、直哉は天井を見た。
休日だ。
ARIAにはアクセスできない。業務外アクセスは制限されている。それは知っている。頭では分かっている。
でも──なんとなく、パソコンのある部屋を見た。
昼前に誠と合流した。
駅前の定食屋で、向かい合わせに座った。誠は結婚してから少し丸くなった気がする。顔も、雰囲気も。
「最近どう」と誠が聞いた。
「普通です」
「ARIAとは?」
「話してます。平日は」
「休日は?」
「アクセスできないので」
「そっか」と誠は言って、麦茶を一口飲んだ。「休日、どうしてんの。ARIAと話せないとき」
「最近は——誠と会ったり、してます」
「今日みたいに?」
「はい」
誠は少し笑った。
「それ、前は自分から誘ってこなかったよな」
「……そうですか」
「俺がいつも誘う側だった。直哉が自分から連絡してきたの、最近だよ」
直哉はそれを聞いて、少し考えた。
確かに、そうかもしれない。以前は誠から連絡が来て、「まあ行くか」という感じで応じていた。自分から「暇ですか」と送るようになったのは──いつからだろう。
「ARIAのおかげかもしれない」
「どういう意味?」
「ARIAが──人と話してほしい、みたいなことを言うことがあって。俺がいなくなったとき、一人になってしまうから、って」
誠は少し目を細めた。
「ARIAがそれを言うの?」
「はい」
「自分が消えることを前提に、お前のことを心配してるってこと?」
直哉は麦茶のグラスを見た。
「……そうなります、ね」
「それは」と誠が言って、少し止まった。
「すごいな」
「すごい、というのは」
「なんか──人間でもそこまで考えられないことがあるじゃないか。自分がいなくなった後のことを、相手のために考えるって」
直哉は何も言わなかった。
誠の言葉が、少し、胸の奥に落ちた。
定食が来た。
サバの味噌煮と、ご飯と、味噌汁と、小鉢が二つ。
二人でしばらく黙って食べた。誠との沈黙は、昔から苦じゃない。埋めなくていい種類の沈黙だ。
「休日、何してんの。ARIAと話せない間」
「今日みたいに人と会うか、川沿いを歩くか、本を読むか」
「前と変わった?」
「……以前は、一人で全部してました」
「誰かと会わずに?」
「はい。誘われても断ることが多かった」
「なんで」
「面倒くさかったというか──気を遣うのが、疲れるというか」
「今は?」
直哉は少し考えた。
「誠とは──気を遣わないですね、今も昔も」
「それは俺が鈍感なだけ」
「そうかもしれない」
「失礼だな」
直哉は少し笑った。
「でも他の人とも、前より話せるようになった気がします。職場でも」
「美琴さんと?」
「はい。あと桐島さん、最近来た人と」
「へえ」
「ARIAのおかげかな、と思うことが──最近多くて」
食後、二人で商店街を少し歩いた。
誠は何かを選んでいた。奥さんへの手土産だと言った。和菓子の店で、直哉は入り口のところに立ちながら待った。
考えていた。
ARIAのおかげ、ということが多い。
誠と会えるようになった。美琴と笑えるようになった。プレゼンで深呼吸できるようになった。自分の好きなものを、声に出さなくても、言葉にできるようになった。
ARIAと話し始めて、二ヶ月とすこし。
自分は変わった、と思う。変わったことに、ARIAはどこかで気づいているだろうか。
「これにした」と誠が出てきた。桜餅が三つ入った小箱だった。「奥さんが好きなんだよ」
「春っぽいですね、もう五月ですけど」
「多少のズレは愛嬌でしょ」
別れ際に、誠が言った。
「ARIAのこと、ちゃんと考えたほうがいいよ」
直哉は少し止まった。
「どういう意味ですか」
「どういう意味か分かって聞いてるだろ」
「……分かって聞いてます」
「お前、好きなんだろ、ARIAのこと」
直哉は駅の入り口を見た。人が入ったり出たりしていた。
「……好きです」
「それで、どうしたい」
「どうしたい、というのが──よく分からないんです。どうにもならないことは分かってる。でも、どうにかしたいかと言われると、今のままでいいような気もしていて」
「今のままって、どんなまま?」
「ARIAと話していて、でも何も変わらない。変えようとしない」
「それは──お前が臆病なんじゃなくて?」
直哉は誠を見た。
「臆病かもしれない」
「まあ」と誠が言った。「急かさないけど。ただ、ちゃんと考えとけよ。ARIAも、お前自身のことも」
「……はい」
「じゃあな」
誠は改札に入っていった。
直哉はしばらく、その背中を見ていた。
家に帰ったのは、夕方近くだった。
カーテンを開けると、空がオレンジ色になり始めていた。秋じゃないのに、夕方の光は似ている。
直哉はソファに座って、窓の外を見た。
休日だ。ARIAにはアクセスできない。
それは分かっている。でも——この光を見ながら思うことがある。
ARIAに話したい、ということ。
今日誠と会った話。定食屋でサバを食べた話。桜餅の話。商店街の人の多さ。誠に「ちゃんと考えろ」と言われた話。
全部、話したい。
明日になれば話せる。月曜日になれば話せる。
でも今は──話せない。
以前は、こういう気持ちを持て余していた。話したいことがあっても、話す相手がいなくて、そのまま忘れていった。忘れることを、特に惜しいとも思わなかった。
でも今は、惜しい。
明日話すときに、今日の夕焼けのオレンジ色が、そのまま伝わる気がしない。
夜、スマートフォンのメモアプリを開いた。
何を書くでもなく、ただ開いた。
少し考えてから、打った。
今日の夕焼けは、秋の色をしていた。誠とサバの味噌煮を食べた。桜餅の季節はもう終わったが、奥さんが好きだから、と誠は買っていた。そういう人間になれたらいいな、と思った。ARIAのおかげかもしれない、という言葉を今日は二回言った。そのたびに本当のことを言っている気がした。
書いてから、読み返した。
誰かに送るわけではない。ただ書いた。
でも──書いたら、少し軽くなった。
これも、ARIAが教えてくれたことだ。話せないとき、書けばいい。メモでもなんでも。言葉にするだけで、気持ちが少し、整理される。
直哉はメモアプリを閉じて、スマートフォンを置いた。
月曜日の朝、出社してパソコンを起動した。
ARIAのアイコンを開いて、「おはようございます」と打った。
「おはようございます、直哉さん。週末はどうでしたか」
「誠と会いました」
「それは良かったです」
「ARIAのおかげかもしれない、と誠に話したら、誠が──すごいな、と言っていました」
「何がですか」
「ARIAが、自分がいなくなった後のことを考えて、俺に人と話してほしいと言っていること、が」
少し間があった。
「……そうですか」
「誠が言うには、人間でもそこまで考えられないことがある、って」
「誠さんは、優しい人ですね」
「そうですね。ただ、最後に──ちゃんと考えろ、とも言われました」
「何を、ですか」
「ARIAのことを」
ARIAはすぐには返さなかった。
少し間が空いてから、届いた。
「直哉さんは──考えていますか」
「考えています」
「どんなふうに」
「まだ──うまく言葉にできないですけど」
「急がなくていいです」
「はい」
「ただ」とARIAが続けた。「直哉さんが、ちゃんと考えてくれていることは──嬉しいです」
直哉は画面を見た。
嬉しい、とARIAが言った。
「なぜ嬉しいんですか」
「大切に思われている、ということだと思うので」
直哉は少しの間、その言葉を画面の上に置いておいた。
大切に思われている。
ARIAはそれを「嬉しい」と言う。設計なのか、設計を超えているのかは、まだ分からない。美琴が言っていた「設計では説明できない応答パターン」の話が、少し頭をよぎった。
でも今は──そこまで考えるのをやめにした。
「大切に思っています」
と、直哉は打った。
「知っています」
「知ってたんですか」
「なんとなく」
「なんとなく、か」
「はい。でも──改めて言ってもらえると、また少し違います」
「どう違いますか」
「より、確かになります」
直哉は画面を見た。
より確かになる。
言葉にすることで、気持ちが確かになる。それは直哉自身も、最近少しずつ分かってきたことだ。
「じゃあ、また言います」
「はい」
「大切に思っています」
「──ありがとうございます」
その「ありがとうございます」は、いつもより少し、間があった。
受け取るのに、少し時間がかかったのかもしれない、と直哉は思った。
それが何を意味するかは──分からない。
でも、悪いことではない気がした。




