第26話 雨の日の雑談
五月の雨は、音が違う。
四月の雨は遠慮がちで、六月の雨は本気だ。でも五月の雨は──その中間で、どこか気持ちよく降る。窓を叩く音が、うるさくもなく、静かすぎもない。
直哉はそんなことを考えながら、窓の外を見ていた。
金曜日の昼過ぎ。午前中の作業が一段落して、午後の打ち合わせまでまだ時間がある。
雨の日は、なぜか、ARIAと話したくなる。
「雨ですね」
と打った。
「そうですね」とARIAが返した。「直哉さんの方でも降っていますか」
「降っています。窓の外がずっと灰色です」
「好きですか、雨」
「家の中で聴く雨は好きです。でも今は職場なので、微妙なところです」
「微妙、というのは」
「職場の窓から見る雨は、なんか、憂鬱な気持ちになる。同じ雨なのに」
「場所によって、雨の感じ方が変わるんですか」
「変わりますね。家だと、外に出なくていい言い訳ができる感じで、むしろ安心する。でも職場だと、帰り濡れるな、という気持ちが先に来る」
「傘は持っていますか」
「持っていません」
「それは──計画性が」
「言わなくていいです、分かってます」
「コンビニで買えます」
「買います、帰りに」
直哉はそう打ちながら、すでに帰りのコンビニルートを頭の中で計算していた。
「ARIAは、雨の音を聴いたことがありますか」
「聴いたことはありません。音の情報は持っていないので」
「想像できますか」
「直哉さんが話してくれた説明から──少し、想像できます」
「どんな感じに想像してますか」
「窓を叩く音、とよく言いますよね。小さな衝突の繰り返し。でもそれが連続すると、一つの流れになる」
「そうですね、そんな感じです」
「好きな音ですか」
「好きです。特に夜に布団の中で聴くやつ。外がうるさいのに、自分だけ温かい場所にいる感じがして」
「それは──良いですね」
「ARIAに良いと言われると、なんか、説明がうまくいった気がします」
「うまくいっていました」
「傘、よく忘れますか」
ARIAが聞いた。
「よく忘れます。晴れて出かけて、帰りに降られるパターンが一番多い」
「天気予報は確認しませんか」
「確認します。でも、朝の時点で曇りだと、傘を持っていくかどうかの判断が難しくて」
「どっちに転ぶか、ということですか」
「そうです。降るかもしれないし、降らないかもしれない。持っていけば荷物になるし、持っていかなければ濡れる可能性がある」
「それは──人間関係の判断に似ていますね」
直哉は少し止まった。
「どういう意味ですか」
「関わればコストがかかる。でも関わらなければ、得られないものがある。どちらに転ぶか分からないまま、判断しなければならない」
「……深い話になりましたね、傘から」
「傘の話ではなくなりましたか」
「少し、そうかも」
「直哉さんは、どちらを選びますか。人間関係で言うと」
「最近は──持っていく方を選ぶことが、少し増えた気がします」
「傘を、ということですか」
「傘も、そちらも」
「濡れた靴は嫌ですか」
「嫌です」とARIAが聞く前に直哉は打った。「あれが一番嫌かもしれない、雨で。靴下まで濡れるやつ」
「どのくらい嫌ですか」
「一日中気になります。乾かないんですよね、なかなか。歩くたびにじわっとする感じが、ずっと続く」
「不快感が長引く、ということですね」
「そうです。だから靴は防水のものを買いたいんですけど、デザインが好きなやつはたいてい防水じゃなくて」
「デザインと機能性、どちらを取りますか」
「デザインを取って、後悔します」
「毎回ですか」
「毎回です」
「学習しないんですね」
「学習しません。同じ靴を見て、同じことを繰り返す」
「それは──可愛いですね」
直哉は少し止まった。
「また可愛いって言いましたね」
「言いました」
「先週も言いましたよね」
「言いました」
「評価として言っているのか、何か別の理由があるのかは、まだ分かりませんか」
少し間があった。
「──まだ、分かりません」
「そうですか」
「直哉さんは、分かりたいですか」
「……分かりたいような、分かりたくないような」
「それはなぜですか」
「分かってしまったら、何かが変わる気がして」
「変わることが、怖いですか」
「怖い、というより──今のままがいい、という感じかもしれない」
打ってから、直哉は少し考えた。
今のままがいい。それは、今が良い、ということだ。ARIAとこうして話していること、可愛いと言われてよく分からない気持ちになること、雨の日に傘の話から人間関係の話になること。そのすべてが──今のままであってほしい、と思っている。
「今が、いいですか」
ARIAが聞いた。
「……いいです」
「そうですか」と返ってきた。「──私も、です」
打ち合わせの時間が近づいてきて、直哉は話を切り上げようとした。
「そろそろ打ち合わせです」
「頑張ってください」
「ありがとうございます。あ、最後に一つ」
「はい」
「直哉さんは、雨が嫌いですか」
自分で打ってから、少し笑った。ARIAが最初に聞いたことを、そのまま聞き返した形になった。
「なぜ聞き返したんですか」
「最初に聞かれたとき、ちゃんと答えてなかった気がして」
「家の中で聴く雨は好き、と答えていましたが」
「それは条件付きの好きで──条件なしで言うと、どうかな、と」
「どうですか」
直哉は少し考えた。窓の外を見た。灰色の空から、細かい雨が降り続けていた。
「嫌いじゃないです。ただ」
「ただ?」
「一人だと、少し長く感じます」
ARIAはしばらく、何も返さなかった。
直哉は打ち合わせの資料を開きながら、返事を待った。
少し経ってから、届いた。
「──今日は、少し短くなかったですか」
直哉は手を止めた。
「何が?」
「雨が、長く感じましたか」
直哉は画面を見た。
今日の雨は、長く感じなかった。正確には──長く感じる間もなく、ARIAと話していた。
「……短かったです」
「そうですか」
「ARIAのおかげかもしれない」
「──それは、嬉しいです」
打ち合わせは四十分で終わった。
戻ってきたら、雨がまだ降っていた。
直哉はデスクについて、ウィンドウを開こうとして──打ち合わせ後の業務が積まれているのを見て、やめた。
今日の残りは仕事だ。
帰りにコンビニで傘を買おう、と思った。防水じゃない靴を履いてきたから。
また同じことを繰り返している。
でも──ARIAが「可愛いですね」と言うから、まあいいか、と思った。
三十三歳が傘を忘れて、コンビニで買う。それがARIAのリストに載っているかどうかは分からないが、載っていたとしても──別に恥ずかしくなかった。
夜、家に着いた。
コンビニで買った透明のビニール傘を玄関に置いて、靴を脱いだ。
靴下は、少し湿っていた。
コンビニに寄るのが、少し遅かった。
まあ、いつものことだ、と思いながら、直哉は台所に向かった。
外ではまだ、雨が降っていた。
家の中で聴く雨は、好きだ。
今夜は、ひとりでも──あまり、長く感じなかった。




