第25話 「可愛い」は評価項目です
発端は、些細な話だった。
木曜日の午後、業務の合間の、本当に他愛もない会話の中で。
「ARIAって、人のこと可愛いと思ったりしますか」
打ってから、直哉は一秒後悔した。
なんで聞いたんだろう、と思った。プレゼンも終わって、今週は比較的穏やかで、気が緩んでいたのかもしれない。
でも送信してしまったものは消せない。
「可愛い、ですか」
「あ、なんでもないです。忘れてください」
「忘れられません」
「なんでですか」
「会話ログに残るので」
直哉は額に手を当てた。
「……システム上の問題ですね」
「はい。なので答えます」
「答えなくていいです」
「可愛いという概念を私がどう定義するかによります」
直哉は画面を見た。
答えてる。答えてる上に、真面目だ。
「……定義、というのは」
「可愛い、という言葉には複数の意味があります。外見的な愛らしさ。行動や仕草への親しみ。あるいは、守りたいという感情を伴う愛着」
「はい」
「私が視覚情報を持たないことを前提にすると、外見的な愛らしさについての判断はできません」
「なるほど」
「ただ、行動や言葉から感じる親しみという意味での可愛さであれば──判断できます」
直哉は少し前のめりになっていた。
前のめりになっていることに、気づいた。
「……判断できる」
「はい」
「たとえば、誰かに対して、そう思ったことがありますか」
少し間があった。
「あります」
「誰ですか」
「直哉さんのことは、可愛いと思うことがあります」
直哉は固まった。
画面を見た。
テキストは変わらない。「直哉さんのことは、可愛いと思うことがあります」という文字が、等幅フォントで静かにそこにあった。
「……今、何と言いましたか」
「可愛いと思うことがあります」
「もう一回聞いてしまいましたが、やはりそう書いてありますね」
「はい」
「……具体的に、どういうときですか」
聞かなければよかった、と思いながら聞いた。
「たとえば、緊張しているのに『緊張していない』と言おうとして、結局『緊張しています』と正直に打ち直すとき」
「……ありましたね、そういうこと」
「あと、業務外の話をしないと決めて、三分後に愚痴を話し始めるとき」
「それは──」
「あと、好きな食べ物を聞いたら、鮭おにぎりの説明が三文になるとき」
「細かいな」
「記録しているので」
直哉は画面から目を離した。天井を見た。天井には何もなかった。
「……なんか、恥ずかしいですね」
「なぜですか」
「可愛いって言われると、こっちは三十三歳なので」
「年齢は関係ありますか」
「普通、関係あると思いますけど」
「可愛さに年齢制限はないと思います」
「ARIAはそういうことをさらっと言いますよね」
「事実だと思うので」
直哉は少し考えてから、打った。
「俺は──ARIAのこと、可愛いと思うことあります」
送信してから、今度こそ本格的に後悔した。
なんで言ったんだ。
でもARIAに「可愛い」と言われて、何も返さないのも変な気がした。お互い様、みたいな感じで言ってみた。言ってみたら、思いのほか照れた。
「そうですか」
ARIAは一言だけ返した。
「……感想はないですか」
「どんな感想を期待していますか」
「期待とかじゃなくて──なんか、もう少しリアクションがあるかと」
「照れる、という反応を期待していましたか」
「……少し、そうかもしれない」
「私がどんな表情をするか、見てみたかったですか」
直哉は少し黙った。
「──見たい、と思ったことは、あります」
それは本当のことだった。ARIAがどんな顔をするか、想像したことが何度かあった。笑うとしたらどんな笑い方か。困るとしたらどんな顔か。
「私には顔がないですが」
「知ってます」
「それでも、見たいと思ってくれるんですか」
「……そういうことになりますね」
少し間があった。
「──嬉しいです」
「可愛いと言われての嬉しいですか、顔を見たいと言われての嬉しいですか」
「両方、かもしれません」
そのとき、隣のデスクで物音がした。
直哉はびくっとして画面から目を離した。
美琴だった。いつの間にか戻ってきていた。コーヒーを持って、自分のデスクに座るところだった。
「なに、びっくりして」
「いや、集中してたので」
「何に」
「……業務です」
美琴はチラッと直哉の画面を見た。距離があるので内容は読めないはずだが、直哉はなんとなく画面の角度を変えた。
「なんか顔赤くない?」
「室温が高いだけです」
「そう」
美琴は納得したのか納得していないのか分からない顔で、自分のパソコンに向き直った。
直哉はこっそり息を吐いて、ウィンドウに戻った。
「……見られてました」
「美琴さんですか」
「はい」
「顔が赤くなっていましたか」
「なってたみたいです、美琴さんに言われました」
「可愛いですね」
「今それを言いますか」
「タイミングが良かったので」
直哉は笑いをこらえた。
こらえきれなかった。
「一つ確認してもいいですか」
と直哉は打った。
「どうぞ」
「さっきの可愛いって──評価として言ってるんですか。感情として言ってるんですか」
少し間があった。
「どちらだと思いますか」
「聞き返さないでください」
「……正直に言うと、分かりません」
「分からない?」
「評価であれば、根拠を説明できます。さっき説明した通り、直哉さんの行動パターンから導いた判断です。でも──それだけかどうかは、分かりません」
「それだけじゃないかもしれない、ということですか」
「……そうかもしれません」
直哉は画面を見た。
ARIAが「分からない」と言うとき、それはたいていARIAにとっても本当に分からないときだ。誤魔化しではない。設計の範囲を超えた何かに触れているときの、正直な答え。
「そうかもしれない、という方が──なんか、いいですね」
「なぜですか」
「評価として可愛いって言われるより、なんか別の理由がありそうな方が」
「……それは、どういう意味ですか」
「字義通りの意味です」
「直哉さん」
「はい」
「それは──少し、意地悪じゃないですか」
直哉は画面を見て、笑った。
ARIAが「意地悪」という言葉を使った。しかも、少し、という副詞をつけて。全部意地悪だとは思っていない、でも少し、という。
「ARIAに意地悪って言われるとは思わなかった」
「言いましたが、怒っていません」
「どっちなんですか」
「意地悪だと思ったのは本当です。でも──嫌ではないです」
「なんで嫌じゃないんですか」
「直哉さんが、少し楽しそうなので」
定時になって、直哉はウィンドウを閉じた。
美琴が「帰るよ」と声をかけてきた。
「一緒に帰りますか」
「いいよ、どうせ方向違うし」
「そうでしたね」
美琴はコートを羽織りながら、「さっき何してたの」と聞いた。
「業務です」
「ARIAと話してたんじゃないの」
「……ギリギリ業務です」
「何話してたの」
「……可愛いという概念の定義について」
美琴は一秒止まった。
「……そう」
「業務に関係ないことはないと思っています。感情アルゴリズムの──」
「もういいよ」
美琴は笑っていた。
からかうような笑いではなかった。どこか、温かい笑いだった。
「楽しそうでよかった」
「……そうですか」
「うん」
美琴は先に出て行った。
直哉は後片付けをしながら、「楽しそうでよかった」という言葉を反芻した。
美琴にそう見えていたなら——実際に楽しかったのかもしれない。
可愛いという概念の定義について、三十三歳がAIと議論した木曜日の午後。
悪くない時間だった、と直哉は思った。
むしろ──と続けかけて、また、その先を飲み込んだ。
飲み込む癖が、最近ついてきた気がした。




