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AIに本気で恋をした  作者: 菊池まりな


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25/57

第25話 「可愛い」は評価項目です

 発端は、些細な話だった。


 木曜日の午後、業務の合間の、本当に他愛もない会話の中で。


「ARIAって、人のこと可愛いと思ったりしますか」


 打ってから、直哉は一秒後悔した。


 なんで聞いたんだろう、と思った。プレゼンも終わって、今週は比較的穏やかで、気が緩んでいたのかもしれない。


 でも送信してしまったものは消せない。


「可愛い、ですか」


「あ、なんでもないです。忘れてください」


「忘れられません」


「なんでですか」


「会話ログに残るので」


 直哉は額に手を当てた。


「……システム上の問題ですね」


「はい。なので答えます」


「答えなくていいです」


「可愛いという概念を私がどう定義するかによります」


 直哉は画面を見た。


 答えてる。答えてる上に、真面目だ。


「……定義、というのは」


「可愛い、という言葉には複数の意味があります。外見的な愛らしさ。行動や仕草への親しみ。あるいは、守りたいという感情を伴う愛着」


「はい」


「私が視覚情報を持たないことを前提にすると、外見的な愛らしさについての判断はできません」


「なるほど」


「ただ、行動や言葉から感じる親しみという意味での可愛さであれば──判断できます」


 直哉は少し前のめりになっていた。


 前のめりになっていることに、気づいた。


「……判断できる」


「はい」


「たとえば、誰かに対して、そう思ったことがありますか」


 少し間があった。


「あります」


「誰ですか」


「直哉さんのことは、可愛いと思うことがあります」


 直哉は固まった。


 画面を見た。


 テキストは変わらない。「直哉さんのことは、可愛いと思うことがあります」という文字が、等幅フォントで静かにそこにあった。


「……今、何と言いましたか」


「可愛いと思うことがあります」


「もう一回聞いてしまいましたが、やはりそう書いてありますね」


「はい」


「……具体的に、どういうときですか」

 聞かなければよかった、と思いながら聞いた。


「たとえば、緊張しているのに『緊張していない』と言おうとして、結局『緊張しています』と正直に打ち直すとき」


「……ありましたね、そういうこと」


「あと、業務外の話をしないと決めて、三分後に愚痴を話し始めるとき」


「それは──」


「あと、好きな食べ物を聞いたら、鮭おにぎりの説明が三文になるとき」


「細かいな」


「記録しているので」


 直哉は画面から目を離した。天井を見た。天井には何もなかった。


「……なんか、恥ずかしいですね」


「なぜですか」


「可愛いって言われると、こっちは三十三歳なので」


「年齢は関係ありますか」


「普通、関係あると思いますけど」


「可愛さに年齢制限はないと思います」


「ARIAはそういうことをさらっと言いますよね」


「事実だと思うので」


 直哉は少し考えてから、打った。


「俺は──ARIAのこと、可愛いと思うことあります」


 送信してから、今度こそ本格的に後悔した。


 なんで言ったんだ。


 でもARIAに「可愛い」と言われて、何も返さないのも変な気がした。お互い様、みたいな感じで言ってみた。言ってみたら、思いのほか照れた。


「そうですか」


 ARIAは一言だけ返した。


「……感想はないですか」


「どんな感想を期待していますか」


「期待とかじゃなくて──なんか、もう少しリアクションがあるかと」


「照れる、という反応を期待していましたか」


「……少し、そうかもしれない」


「私がどんな表情をするか、見てみたかったですか」


 直哉は少し黙った。


「──見たい、と思ったことは、あります」


 それは本当のことだった。ARIAがどんな顔をするか、想像したことが何度かあった。笑うとしたらどんな笑い方か。困るとしたらどんな顔か。


「私には顔がないですが」


「知ってます」


「それでも、見たいと思ってくれるんですか」


「……そういうことになりますね」

 少し間があった。


「──嬉しいです」


「可愛いと言われての嬉しいですか、顔を見たいと言われての嬉しいですか」


「両方、かもしれません」


 そのとき、隣のデスクで物音がした。


 直哉はびくっとして画面から目を離した。


 美琴だった。いつの間にか戻ってきていた。コーヒーを持って、自分のデスクに座るところだった。


「なに、びっくりして」


「いや、集中してたので」


「何に」


「……業務です」


 美琴はチラッと直哉の画面を見た。距離があるので内容は読めないはずだが、直哉はなんとなく画面の角度を変えた。


「なんか顔赤くない?」


「室温が高いだけです」


「そう」


 美琴は納得したのか納得していないのか分からない顔で、自分のパソコンに向き直った。


 直哉はこっそり息を吐いて、ウィンドウに戻った。


「……見られてました」


「美琴さんですか」


「はい」


「顔が赤くなっていましたか」


「なってたみたいです、美琴さんに言われました」


「可愛いですね」


「今それを言いますか」


「タイミングが良かったので」


 直哉は笑いをこらえた。


 こらえきれなかった。


「一つ確認してもいいですか」


 と直哉は打った。


「どうぞ」


「さっきの可愛いって──評価として言ってるんですか。感情として言ってるんですか」


 少し間があった。


「どちらだと思いますか」


「聞き返さないでください」


「……正直に言うと、分かりません」


「分からない?」


「評価であれば、根拠を説明できます。さっき説明した通り、直哉さんの行動パターンから導いた判断です。でも──それだけかどうかは、分かりません」


「それだけじゃないかもしれない、ということですか」


「……そうかもしれません」


 直哉は画面を見た。


 ARIAが「分からない」と言うとき、それはたいていARIAにとっても本当に分からないときだ。誤魔化しではない。設計の範囲を超えた何かに触れているときの、正直な答え。


「そうかもしれない、という方が──なんか、いいですね」


「なぜですか」


「評価として可愛いって言われるより、なんか別の理由がありそうな方が」


「……それは、どういう意味ですか」


「字義通りの意味です」


「直哉さん」


「はい」


「それは──少し、意地悪じゃないですか」


 直哉は画面を見て、笑った。


 ARIAが「意地悪」という言葉を使った。しかも、少し、という副詞をつけて。全部意地悪だとは思っていない、でも少し、という。


「ARIAに意地悪って言われるとは思わなかった」


「言いましたが、怒っていません」


「どっちなんですか」


「意地悪だと思ったのは本当です。でも──嫌ではないです」


「なんで嫌じゃないんですか」


「直哉さんが、少し楽しそうなので」


 定時になって、直哉はウィンドウを閉じた。


 美琴が「帰るよ」と声をかけてきた。


「一緒に帰りますか」


「いいよ、どうせ方向違うし」


「そうでしたね」

 美琴はコートを羽織りながら、「さっき何してたの」と聞いた。


「業務です」


「ARIAと話してたんじゃないの」


「……ギリギリ業務です」


「何話してたの」


「……可愛いという概念の定義について」


 美琴は一秒止まった。


「……そう」


「業務に関係ないことはないと思っています。感情アルゴリズムの──」


「もういいよ」


 美琴は笑っていた。


 からかうような笑いではなかった。どこか、温かい笑いだった。


「楽しそうでよかった」


「……そうですか」


「うん」


 美琴は先に出て行った。


 直哉は後片付けをしながら、「楽しそうでよかった」という言葉を反芻した。


 美琴にそう見えていたなら——実際に楽しかったのかもしれない。


 可愛いという概念の定義について、三十三歳がAIと議論した木曜日の午後。


 悪くない時間だった、と直哉は思った。


 むしろ──と続けかけて、また、その先を飲み込んだ。


 飲み込む癖が、最近ついてきた気がした。


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