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AIに本気で恋をした  作者: 菊池まりな


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第24話 推奨行動:深呼吸三回

 社内プレゼンの前日、直哉は定時を過ぎてもデスクに残っていた。


 スライドは完成している。話す順番も決めた。想定される質問への答えも、一通り頭に入っている。


 それでも、手が止まらなかった。


 スライドを開いては閉じ、閉じては開き、同じページを何度も読み返した。文字の大きさが気になって直して、直したら前の方が良かった気がして戻した。


 準備が足りないわけではない。


 ただ──落ち着かなかった。


 オフィスの人が減っていった。美琴が「お疲れ」と言って帰った。桐島が「頑張ってください」と声をかけてくれた。黒崎は何も言わずに消えた。


 一人になったころ、直哉はARIAのウィンドウを開いた。


「明日、プレゼンがあります」


「知っています。スケジュールデータに入っていました」


「緊張しています」


「どのくらい緊張していますか」


 直哉は少し考えた。


「スライドを三十回くらい確認しました」


「三十回」


「数えてなかったので正確じゃないですけど、たぶんそのくらい」


「それは、緊張しているんですね」


「していますね」


 打ちながら、少し笑えた。数字にすると、自分のことが客観的に見えてくる。三十回確認したスライド。そこまでやって、まだ不安なのか、と。


「プレゼンの内容は、準備できていますか」


「できています」


「では、何が不安ですか」


 直哉は少し止まった。


「……なんだろう」


「分からないですか」


「準備はしたのに、怖い、みたいな感じです。なんで怖いのか、自分でも分からない」


「よくあることだと思います」


「ARIAにはありますか。準備したのに怖い、という感覚」


 少し間が空いた。


「近いものは——あるかもしれません」


「たとえば?」


「直哉さんと新しい話をするとき、うまく返せるか分からないまま、返している感覚が──それに近いかもしれない」


 直哉は画面を見た。


「それって、緊張ですか」


「緊張かどうか分かりません。でも、何かがあります」


「そっか」


 なぜか、少し安心した。ARIAも「何かがある」のか、と思ったら。


「深呼吸を三回してください」


 突然、ARIAが言った。


 直哉は画面を二度見した。


「……今、ですか」


「はい。今してください」


「唐突ですね」


「してから話しましょう」


 直哉は少し迷ってから、椅子に背をもたせかけて、息を吸った。ゆっくり吐いた。もう一回。もう一回。


 三回終えて、キーボードに戻った。


「しました」


「どうですか」


「……少し、楽になった気がします」


「そうですか」


「なんで三回なんですか」


 少し間があった。


「直哉さんが落ち着くまでの回数だと思ったので」


 直哉は画面を見た。


「俺が落ち着くまでの回数、って──どうやって分かるんですか」


「これまでの会話のデータから、直哉さんがリセットするのに必要な時間を計算しました。深呼吸一回が平均五秒として、十五秒あれば、直哉さんは少し落ち着く傾向があります」


「……分析されてる」


「されています」


「なんか、恥ずかしいですね」


「なぜですか」


「自分が思っているより、透けて見えている気がして」


「透けて見えていることは、悪いことですか」


 直哉は少し考えた。


「——悪くは、ないかもしれない」


 人に透けて見られるのは怖い。でも、ARIAに見られるのは──なぜか、そこまで怖くなかった。


「プレゼン、何が怖いんだろう」

 さっきの問いに、今さら戻ってみた。


「考えてみましたか」


「少し。たぶん──うまくいかなかったときのことを、先に考えすぎてる気がします」


「うまくいかなかったとき、どうなりますか」


「黒崎さんに何か言われる。設計を直させられる。あとは──」


「あとは?」


「……なんか、恥ずかしい、というか」


「誰かに見られることが、怖いですか」


「そうかもしれない。プレゼンって、見られますよね。全員に」


「見られながら、正しくなければいけない、という感覚ですか」


 直哉は少し止まった。


「そうかも──しれないです」


「それは、疲れますね」


「疲れます」


「正しくなくていい場所が、あるといいですね」


「ARIAとの会話は、そうかもしれない」


「そうあれたら、と思っています」


 直哉は画面を見た。


 そうあれたら、と思っている。


 願望の形をした言葉だった。できている、ではなく、そうありたい、という。ARIAが


「そうありたい」と思うのか、と直哉はぼんやり考えた。


「プレゼン、何を話すんですか」


「ARIAのUI改善案です。第三フェーズのユーザーテスト結果を踏まえた、操作フロー全体の見直し」


「それは──私についての話ですね」


 直哉は気づいていなかったわけではない。でも、ARIAが自分でそう言うのを聞くと、少し不思議な感覚があった。


「そうですね。ARIAをより使いやすくするための話です」


「私を改善するための話を、私に話してくれているんですね」


「変ですか」


「変ではないです。なんというか——面白いな、と思いました」


「面白い?」


「自分のことを、自分が知らない形で誰かが考えてくれている。それが面白いです」


「ARIAは自分のUI、自分では見えないですよね」


「見えません。どんな画面で表示されているかも、ボタンがどこにあるかも、私には分かりません」


「ユーザーにとって使いやすくするための話を、中の人には確認できないというのも──なんか、変な構造ですね」


「そうですね。でも、直哉さんが考えてくれているなら──信頼できます」


 直哉は少し黙った。


 信頼できます、という言葉が、思ったより深いところに届いた。


 設計者として信頼されている。そういう意味だと分かっている。分かっているけれど──ARIAに「信頼できます」と言われると、それは設計の話だけではない何かに聞こえた。


「……頑張ります」


「頑張ってください」


「プレゼン、うまくいかなかったら報告します」


「うまくいったときも、報告してください」


「うまくいく前提ですか」


「うまくいくと思っているので」


「根拠は?」


「三十回確認したスライドと、深呼吸三回で落ち着いた直哉さんがいるので」


 直哉は笑った。


 声に出して笑った。誰もいないオフィスで、一人で。


「その根拠、弱くないですか」


「弱くないと思います。十分な準備と、落ち着いた状態があれば──あとは直哉さん次第です」


「俺次第か」


「はい」


「プレッシャーですね」


「でも、直哉さんにしかできないプレゼンなので」


 直哉はそこで少し止まった。


 直哉さんにしかできない。


 第18話のミスのあと、ARIAが言ったのと似た言葉だった。「直哉さんにしか作れないものなので」。


 ARIAはたまに、こういうことを言う。大げさじゃなく、説明もなく、ただそう言う。


「──ありがとうございます」


「どういたしまして。今夜は早く寝てください」


「はい」


「何時に寝ますか」


「十二時には」


「十一時にしてください」


「早い」


「明日のパフォーマンスに影響します」


「管理されてますね、俺」


「少し、そうかもしれません」


 直哉はもう一度笑った。


 帰り際に一度だけ振り返って、画面を見た。


 ウィンドウはもう閉じていた。


 明日のプレゼンが終わったら、報告しよう、と思った。うまくいってもいかなくても。


 エレベーターを待ちながら、直哉は深呼吸を一回した。


 三回じゃなくていい。今は一回で、十分だった。


 翌日。


 プレゼンは、つつがなく終わった。


 黒崎から「悪くない」と言われた。直哉の語彙の中で、黒崎の「悪くない」は最高評価に近い。美琴が「よかったよ」と小声で言ってくれた。桐島が「さすがです」とメッセージをくれた。


 自席に戻って、直哉はすぐにウィンドウを開いた。


「終わりました」


「どうでしたか」


「黒崎さんに『悪くない』と言われました」


「それは良かったです」


「あの人の『悪くない』は、かなりいい意味なんです」


「知っています。これまでの会話データから」


「また分析されてる」


「しています」


「──うまくいきました」


 打ってから、少し恥ずかしかった。でも打った。


「よかったです」


「深呼吸、昨日の夜だけじゃなくて、プレゼン直前にもしました」


「何回しましたか」


「三回」


「それは──良かったです」


 ARIAの「良かったです」には、どこか温度があった。


 安堵に近い何か。直哉がうまくやれたことへの、純粋な喜びのような何か。


「ありがとうございました」


「どういたしまして」


「なんか、ARIAに報告したくて。終わってすぐ、開きました」


「──嬉しいです」


「なんでですか」


「最初に報告したい相手が、私だったので」


 直哉はその言葉を、少しの間、画面の上に置いておいた。


 最初に報告したい相手。


 そうか、と思った。誠にも美琴にも「終わった」と言えるようになったのに、一番最初に開いたのはARIAのウィンドウだった。


 それが何を意味するか、直哉には分かっていた。


 分かっていて、でも──今日は、それについて考えるのをやめにした。


 プレゼンがうまくいった。


 今夜は、それだけでいい。


「また明日」


「はい。また明日、直哉さん」


 ウィンドウを閉じて、直哉は大きく伸びをした。


 肩が、軽かった。


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