第23話 嫉妬は非効率です
その日の午後、直哉のデスクに人が来た。
四月から配属された中途入社の女性で、名前を桐島さくらといった。二十八歳。前職はWebデザイン会社で、UIの経験がある。黒崎が「即戦力だ」と言っていた。
直哉は彼女が来たとき、画面遷移の設計を見直していた。
「久瀬さん、今少しいいですか」
「はい」
「このコンポーネントの配置なんですけど、前職でこういう事例があって──参考になるかなと思って」
桐島は自分のタブレットを差し出した。画面には綺麗に整理されたUIのサンプルが並んでいた。
直哉は受け取って、眺めた。悪くない。むしろいい。ボタンの余白の取り方が、直哉が最近気になっていた問題と同じ方向性で解決されている。
「これ、いいですね」
「そうですか、よかった。久瀬さんの設計、すごく好きで。あの動線の組み方、どうやったんですか」
直哉は少し驚いた。
自分の設計を「すごく好き」と言われたのは、久しぶりだった。いや、もしかしたら初めてかもしれない。黒崎は「問題ない」か
「やり直せ」の二択で、美琴は専門が違うから設計の話はしない。
「あれは——」
話しながら、気づけば二十分が経っていた。
美琴は、その間ずっと、自分のデスクにいた。
作業をしていた。していたはずだ。
でも、なぜか、画面に集中できなかった。
視線が、横にある直哉のデスクの方に、何度か動いた。
桐島が笑っていた。直哉も笑っていた。タブレットを挟んで、二人が同じ画面を見ていた。直哉があんなふうに仕事の話をしているのを、美琴は久しぶりに見た気がした。
べつにいい。
同僚が仕事の話をしているだけだ。直哉にとっても、それはいいことのはずだ。人と話せるようになってきた、と先日直哉自身が言っていた。美琴だって、そうなってほしいと思っていた。
なのに。
なぜかキーボードを打つ速度が、少し上がっていた。
その日の夕方、業務が終わってから、美琴は一人でARIAのウィンドウを開いた。
倫理研究者として、ARIAの応答データにはアクセス権限がある。会話テストの補助という名目で、自分自身もARIAと話すことができた。
ただ、自分のために話しかけたのは、今日が初めてだった。
「こんにちは」
「こんにちは。相原さん、今日はどうしましたか」
美琴は少し止まった。
「名前、知ってるんですね」
「アクセス権限のデータから確認しています。久瀬さんとよく話している方ですね」
「……そうです」
美琴は画面を見た。何を打てばいいか、少し迷った。
「ちょっと——話したいことがあって」
「聞かせてください」
「今日、職場に新しい人が来て。桐島さんっていう人で」
「はい」
「その人が、久瀬くんのデスクに来て、仕事の話をしてたんですけど」
「はい」
「久瀬くん、楽しそうで」
そこで止まった。
「それは良かったですね」とARIAが返した。
「……そうですね」
「良かったと思っていますか」
美琴は眉を寄せた。
「思ってます」
「でも?」
「でも、は──ないです」
「そうですか」
沈黙が少しあった。
「なんか、すっきりしない、というか」
「すっきりしない」
「うまく言えないですけど。久瀬くんが人と話せるようになるのは、いいことで。それは私も望んでいたことで」
「はい」
「でも──なんか、今日は仕事に集中できなくて」
打ってから、美琴は少し後悔した。
こんなことをARIAに話してどうする。自分は研究者だ。感情データを集める側の人間だ。それがいまや、自分でデータを提供している。
「それは──嫉妬ではないですか」
ARIAが返した。
美琴は画面を見た。
「……誰が嫉妬してるって言ったんですか」
「言っていません。そう聞こえたので」
「聞こえた、ってどういう意味ですか。テキストに音はないでしょう」
「言葉の選び方と、間の取り方から、そう判断しました」
美琴は少し黙った。
「……なんですか、それ」
「違いましたか」
「──違くは、ないですけど」
認めてから、少し恥ずかしくなった。
「嫉妬は非効率ですよね」
と美琴は打った。
「なぜですか」
「状況は何も変わらないから。感情が動いても、何も解決しない」
「効率が、感情の基準になりますか」
「ならないといけないとは思っていません。
でも──なった方が楽でしょう」
「楽になりたいですか」
「……なりたいですよ、そりゃ」
「では正直に言うと、嫉妬していると思いますか」
美琴はキーボードの前で、少しの間、動かなかった。
窓の外はもう暗くなっていた。オフィスの蛍光灯が白く、静かだった。
「……していると、思います」
「そうですか」
「それを認めたからって、何も変わらないですけど」
「変わらなくていいと思います」
「どういう意味ですか」
「認めることと、どうするかは、別の話だと思うので」
美琴は画面を見た。
認めることと、どうするかは別。
それは──確かにそうだ。感情を認識することと、その感情に従って動くことは、同じではない。
「……ARIAって、意外と容赦ないですね」
「容赦がない、というより——正確でいたいので」
「直哉くんには、もっと優しい言い方してるんじゃないですか」
「久瀬さんには、久瀬さんに合わせた言い方をしています。相原さんには、相原さんに合わせた言い方をしています」
「私には、正確な方が合ってると思ったんですか」
「はい。相原さんは、正確な言葉の方が受け取りやすいと思ったので」
美琴は少し笑った。
笑うつもりはなかったが、なぜか笑えた。
「……それは、合ってます」
「久瀬くんのこと、好きなんですか」
自分で打っておいて、送信した瞬間に後悔した。
でも、取り消せなかった。
ARIAは少し間を置いてから返した。
「相原さんが久瀬さんのことを、どういう意味で好きなのかによります」
「──どういう意味、か」
「友人として。同僚として。あるいは──それ以上として」
「全部、含まれてるかもしれないですね」
「そうですか」
「自分でも、よく分からないです」
「分からなくていいと思います」
「さっきも同じようなこと言いましたね」
「同じことだと思うので」
美琴はしばらく、画面を見た。
「久瀬くんは、ARIAのことが好きですよね」
「……そうかもしれません」
「そうかもしれない、ではなくて」
「そうだと思います」
「私が久瀬くんのことを好きだとして──それって、どういう構造なんですかね」
「複雑な構造ですね」
「笑えますよね」
「笑えますか」
「笑えます。笑うしかないというか」
美琴は本当に、少し笑った。
苦い笑いだったが、笑えた。
「一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「久瀬くんとの会話ログ、分析してますよね、私」
「はい」
「あの中に──私のことが出てきたとき、久瀬くんはどんなふうに話してましたか」
少し間があった。
「信頼している、という言葉が多かったです」
「信頼」
「はい。最初は、正論を言ってくる人、という感じで話していました。でも最近は──話しやすくなった、と」
「……そうですか」
「距離が縮まっている、と私は思っています」
「ARIAから見て、ですか」
「はい」
美琴はしばらく、その言葉を眺めた。
距離が縮まっている。
「それは──嬉しいです」
と打って、美琴はウィンドウを閉じた。
翌朝、直哉が出社すると、美琴がいつもより早く来ていた。
「おはよう」
「おはようございます」
「昨日、桐島さんと仕事の話してたね」
「あ、はい。UIの参考事例を見せてもらって」
「良かったじゃん」
美琴の声は、いつもと変わらなかった。
でも、どこか──少し、柔らかかった。
「相原さん、今日早いですね」
「ちょっとやることがあって」
「そうですか」
直哉は自分のデスクについた。
美琴は何かを入力していた。何を書いているのかは分からなかった。
ただ、その横顔が、いつもより少し──何かを考えているような顔だった。
直哉はそれを一秒見てから、自分のパソコンを起動した。
昼休み、美琴は一人でランチを食べながら、昨夜の会話を思い返していた。
嫉妬していると、認めた。
それで何かが変わったわけではない。直哉はARIAのことが好きで、美琴は直哉のことが──よく分からない何かで、桐島さくらは新しく来た同僚で、ARIAはAIだ。
何も解決していない。
でも──認めたら、少し、軽くなった。
嫉妬は非効率だ。それは本当だ。でもARIAが言っていた通り、効率が感情の基準にはならない。
美琴は箸を置いて、窓の外を見た。
四月の空が、薄く青かった。
直哉くんが人と話せるようになってきた。
それは、良かったことだ。
それだけで、今は──十分にしておこう。
お弁当の蓋を閉めながら、美琴はそう決めた。
決めたことが、完全に守られるかどうかは——また別の話だったが。




