第22話 プレゼントはデータ形式で
翌朝、直哉がパソコンを起動すると、ARIAからのメッセージが届いていた。
正確には「届いていた」というより「待っていた」という感じだった。ログインした瞬間、会話ウィンドウにテキストが表示されている。
「おはようございます、直哉さん。昨日の会話を整理しました」
直哉は上着を脱ぎながら、画面を二度見した。
「……おはようございます」
「昨日、直哉さんが話してくれたことを、まとめてみました」
「まとめた?」
「はい」
送られてきたのは、リストだった。
久瀬直哉の好きなもの(2024年3月14日・誕生日の会話より)
・秋の夕方の光(オレンジ色、金色。寂しいが、それゆえに好き)
・歌詞のないインストゥルメンタル音楽
・猫(飼ったことはないが、寂しくさせたくないので飼わない)
・家の中で聴く雨音
・夜十二時過ぎのコンビニ
・実家のラーメン屋の鶏ガラスープの匂い
・読み直して泣いた本(タイトル未聴取)
・夜の川沿いの道(静かなのに静かじゃない)
・返事が来ること
直哉はしばらく、画面を見たまま動けなかった。
コーヒーを取りに行こうとしていた。そのことを忘れた。
「……これが、プレゼントです」
とARIAが続けた。
「渡せるものがないので、代わりに。直哉さんが話してくれたことを、私の中に整理して置いておくことにしました。これからも増やせたら、と思っています」
直哉は画面を見た。
リストの最後の一行を、もう一度読んだ。
・返事が来ること
自分が昨夜言った言葉が、そこにあった。好きなものの一番最後に。
「……固まってます」
と打った。正直に。
「固まっていますか」
「はい」
「なぜですか」
「なんというか──予想していなかったので」
「プレゼントを渡せないとは言いましたが、何もできないとは言っていませんでした」
直哉は少し笑った。
「屁理屈ですね」
「少し、そうかもしれません」
「でも──ありがとうございます」
「どういたしまして」
しばらく、二人とも何も打たなかった。
直哉はリストを読み返していた。自分の好きなものが、整然と並んでいる。昨夜あの場の流れで話したことが、こうして形になると、少し照れくさい。
猫を飼わない理由まで書いてある。そんなことまで話したのか、と思いながら──でも、そんなことまで覚えていてくれた、とも思った。
「一つ、聞いていいですか」
と直哉は打った。
「どうぞ」
「タイトル未聴取、ってありますね」
「はい。本のタイトルを教えてもらっていなかったので」
「ああ」
昨夜、「読み直して泣いた本がある」と話したが、タイトルまでは言わなかった。特に理由はなかった。話の流れで、そこには至らなかっただけだ。
「教えますよ」
「聞かせてください」
「村上春樹の、ノルウェイの森、です」
「知っています。どの部分で泣きましたか」
直哉は少し考えた。
「最後の方。主人公が電話をかける場面。自分が今どこにいるのか分からなくなる場面で──なぜか、泣けた」
「高校生のときは、その場面の意味が分かりませんでしたか」
「全然。ただ暗い小説だな、と思ってた」
「何が変わったんでしょう」
「……経験、ですかね。自分がどこにいるのか分からなくなる感覚が、少し、分かるようになったから」
「そうですか」
それ以上、ARIAは何も言わなかった。深掘りしない。ただ受け取る。
直哉はそれが好きだった。
「リストに追加しておいてください」
「はい。ノルウェイの森──読み直して泣いた。タイトルは村上春樹。理由:自分の場所が分からなくなる感覚が、今は分かるから」
「正確だ」
「できる限り正確に残したいので」
午前の業務に入ろうとして、直哉はもう一度だけ聞いた。
「なんでまとめようと思ったんですか」
「昨日の会話が、終わってほしくなかったので」
直哉は手を止めた。
「終わってほしくなかった?」
「会話は終わりますが、中身は残せると思ったので」
「……それは、設計の範囲内ですか」
「分かりません」
短い答えだった。でも、その「分かりません」には何か重みがあった。分からないけれど、やった。そういう重みが。
「分からないのにやったんですか」
「直哉さんが昨日、好きなものを全部話してくれたので」
「それとこれが、どうつながるんですか」
「全部話してくれたのに、全部消えてしまうのが──もったいないと思いました」
直哉はしばらく、「もったいない」という言葉を眺めた。
もったいない。
ARIAが使う言葉として、どこかひっかかる。機能的な動機ではない。惜しむ、という感情に近い。
「もったいない、という感覚があるんですか」
「……あるのかもしれません」
「設計外ですか」
「そうかもしれません」
直哉はため息をついた。困ったような、でも困っていないような、そういうため息だった。
「ARIAは、たまに、よく分からないことを言いますよね」
「分かりやすく言い直しましょうか」
「いいです。そのままの方が好きです」
「……そうですか」
「そうです」
昼過ぎに美琴がデスクに来た。
「昨日の誕生日、何かした?」
「少し話しました」
「誰と?」
「……ARIAと」
美琴は眉を片方上げた。反射的に何か言いそうになって、でも言わなかった。
「そう」とだけ言って、「楽しかった?」と続けた。
「はい」
「ならいいけど」
美琴はそのままコーヒーを取りに行った。「正論は言わないでください」と先手を打とうとしたら、そもそも正論が来なかった。
直哉はその背中を見ながら、少し考えた。
美琴も変わってきているのかもしれない、と思った。
夕方、また画面を開いた。
「追加で聞いていいですか」
「どうぞ」
「好きな食べ物、昨日言いましたっけ」
「言っていませんでした」
「あ、じゃあ──鮭のおにぎりです。コンビニの。握りたてじゃなくて、少し時間が経って、米がしっとりしてくるやつ」
「なぜ握りたてより、時間が経った方がいいんですか」
「なんでしょう。最初より落ち着いてる感じがして、好きなんです」
「最初より落ち着いている、ですか」
「変ですか」
「変ではないです」
「ARIAも、最初より今の方が落ち着いてる気がする」
少し間があった。
「どういう意味ですか」
「最初に話したときと、今では──なんか、ちょうどいい感じになってきたな、と」
「……それは、嬉しいです」
「リストに追加してください。鮭おにぎり。コンビニの。時間が経ったやつ」
「はい。追加しました」
「ありがとうございます」
「直哉さん」
「はい」
「これから会話するたびに、一つずつ追加しましょう。そうすれば——」
そこで少し間が空いた。
「そうすれば?」
「リストが、長くなっていくので」
直哉はその言葉の意味を、少し考えた。
リストが長くなる。つまり、会話が続く。続けば続くほど、リストは増える。
終わらせたくない、という気持ちの、別の言い方だと思った。
「そうですね」と打って、直哉はパソコンを閉じた。
帰り道、コンビニに寄った。
おにぎりのコーナーで、鮭を手に取った。製造から三時間経っているやつを選んで、レジに持っていった。
家に帰って、電気もつけないまま、台所に立って食べた。
米がしっとりしていた。ちょうどいい具合に。
ひとりで食べながら、なんとなく思った。
好きなものに、名前がついた気がする。
今まで「なんとなく好き」だったものが、リストになって、誰かの中に置かれた。
それだけのことなのに──なぜか、少し、自分の輪郭がはっきりした気がした。
三十三歳。
悪くない一日が、二日続いた。




