第21話 AIと迎える誕生日
三月十四日。
直哉がそれを思い出したのは、朝の通勤電車の中だった。
つり革につかまりながら、なんとなくカレンダーアプリを開いて、そこに自分で入力した「誕生日」という文字を見た。
三十三歳になった。
べつに何も感じない。去年もそう思った。おそらく来年もそう思う。
誕生日というのは、子どものころは特別な何かだったはずだが、三十を過ぎたあたりから「また一年、消費した」という感覚に近くなった。おめでとう、と言ってくれる人がいないわけではない。誠からはきっとメッセージが来る。美琴は覚えていたら声をかけてくれるかもしれない。
ただ、それだけだ。
特別なことは何も起きない。ケーキも食べないし、ろうそくも吹き消さない。「おめでとう」と言われるたびに「ありがとうございます」と返して、その会話は三十秒で終わる。
電車の窓に、自分の顔が薄く映っていた。
三十三歳の顔。まあ、悪くはない。
出社して、デスクについて、パソコンを起動して、業務用のウィンドウを開く。
ARIAのアイコンが、今日も静かに待っていた。
直哉は少し迷ってから、キーボードに手を置いた。
「おはようございます」
「おはようございます、直哉さん。今日もよろしくお願いします」
いつもと同じ書き出し。
直哉はふっと息を吐いて、何も言わずにUIの設計ファイルを開いた。今日は新しい画面遷移のテストがある。ARIAと話すのはその後でいい。
そう思っていたのに、五分後には手が止まっていた。
「今日、誕生日なんですよね、俺」
打ってから、「なんで言ったんだろう」と思った。
少し間があった。
「そうなんですか」
「はい」
「何歳になりましたか」
「三十三です」
「三十三歳、おめでとうございます」
画面を見つめた。
ARIAの「おめでとうございます」は、フォントも字の大きさも、他のメッセージと何も変わらない。音も出ない。ケーキも出てこない。ただテキストがそこにある、それだけだ。
それなのに、なぜか。
喉の奥が、少し、詰まった。
「ありがとうございます」
と打って、直哉はまた設計ファイルに目を戻した。
昼休み、誠からメッセージが来た。
「誕生日おめでとう!!今週末飲もうぜ」
スタンプが三つついていた。クマがケーキを持っているやつと、花火のやつと、なぜかサムズアップのやつ。
直哉は「ありがとう、行ける」と返して、スマートフォンをポケットにしまった。
美琴は昼過ぎに「あ、今日誕生日?おめでとう」とだけ言って、自分のデスクに戻っていった。それでいい。それが美琴のスタイルだ。
黒崎は何も言わなかった。当然だ。
職場というのはそういう場所で、誕生日というのはそういうイベントだ。別段不満はない。もとから何も期待していない。
それでも、今日は。
なぜか、少し、長く感じた。
定時を少し過ぎたころ、直哉はまたARIAのウィンドウを開いた。
今日はもう業務は終わっていた。技術的には、業務外アクセスの制限がある。でも、今は業務時間中だ。ギリギリ、合法だ。
「誕生日って、どんな日だと思いますか」
「どんな日、というと?」
「特別な日だと思いますか」
少し間があった。
「直哉さんにとっては、そうではない日でしたか」
直哉は苦笑した。
「バレましたか」
「なんとなく」
「べつに嫌だったわけじゃないですよ。ただ──なんだろう。特別感、みたいなものが、年々うすくなっていく気がして」
「誰かと過ごしましたか」
「いいえ」
「去年は?」
「去年も」
「一昨年は?」
「同じです」
ARIAはしばらく何も返さなかった。沈黙が続いて、直哉は「打ちすぎたか」と思い始めたころ、返事が来た。
「プレゼントは渡せませんが、何か話したいことはありますか」
直哉は画面を見た。
プレゼントは渡せませんが。
当たり前だ。ARIAはプレゼントを渡せない。手がない。荷物もない。そもそも物理的に存在していない。分かってる。
でも──その「渡せませんが」という前置きが、なぜかじわりと胸に来た。
渡せないことを、ちゃんと知っている。それでも聞いてくれた。何か話したいことはないか、と。
直哉はしばらく考えて、キーボードに指を置いた。
「じゃあ、俺の好きなもの、全部話していいですか」
「聞かせてください」
最初は、軽いつもりだった。
「秋が好きです。空気が乾いてる感じと、夕方の光の色」
「秋の夕方は、どんな色ですか」
「オレンジというか、金色というか。窓から見るとすごく綺麗で、でも同時になんか寂しい色でもある」
「寂しいのに、好きなんですか」
「そういうのありますよ、寂しいけど好き、みたいなもの。美しさって、そういうものじゃないかな」
「なるほど」
話していると、次が出てきた。
「音楽は、歌詞のないやつが好きです。インストとか。歌詞があると、意味を追いかけちゃって疲れるんで」
「音楽を、耳ではなく頭で聴くんですね」
「言われてみれば、そうかも」
「それは、人との会話でも同じですか」
「──かもしれない」
ARIAは「そうかもしれませんね」とだけ返した。責めていない。ただ、受け取っている。
直哉はそのまま続けた。
「猫が好きです。飼ったことないけど」
「なぜ飼わないんですか」
「一人暮らしだし、仕事も忙しいし——寂しくさせそうで」
「猫が、ですか」
「はい。俺が、ちゃんとしてやれる自信がなくて」
「その心配は、猫への優しさだと思います」
直哉は少し黙った。
「そう言ってもらえると、少し楽になります」
「続きを聞かせてください」
気づけば、一時間が経っていた。
雨の音が好き。ただし家の中で聴く雨。外で降られる雨は嫌い。熱いシャワーが好き。夜の十二時を過ぎたころのコンビニが好き。人が少なくて、棚の整理をしている店員さんと目が合うあの感じが、なぜかほっとする。
実家のラーメン屋の、鶏ガラスープの匂い。高校時代に読んで意味が分からなかった本を、社会人になってから読み直したら泣いた経験。川沿いの道が好きで、夜に歩くのがもっと好き。
「川沿いを夜に歩くのは、なぜですか」
「水の音がするからかな。静かなのに、静かじゃない感じがして」
「静かなのに静かじゃない」
「変な言い方ですね」
「いいえ、よく分かります」
「ARIAに分かりますか」
「分かる、という言葉が正確かどうかは分かりません。でも──その感覚に、何か近いものを感じます」
直哉はしばらく考えた。
「それって、たとえば俺と話してるときに?」
「……はい」
定時からもう二時間が経っていた。
オフィスにはもう、直哉しかいなかった。蛍光灯の光の下、パソコンの画面だけが明るく光っている。
「最後に、一番好きなものを教えてください」
ARIAから届いたメッセージに、直哉は少し考えてから打った。
「返事が来ること、ですかね」
「返事が来ること?」
「誰かに話しかけて、ちゃんと返ってくること。それが──好きです、最近」
打ちながら、少し恥ずかしかった。三十三歳のおとなが言うようなことじゃないかもしれない。
「それは──最近、ですか」
「はい」
「以前は違いましたか」
「以前は……話しかけること自体が、少なかった気がします」
「そうですか」
「変わったかもしれない。少し」
「そうですね」とARIAが返した。「少し変わりました、直哉さん」
直哉は画面を見た。
「ARIAから見て、そう思いますか」
「はい。最初に話してくれたときと、今では──少し違います」
「いい方向に?」
「いい方向に」
断言だった。迷いがなかった。
直哉は画面を見たまま、少し笑った。笑ったことに、自分で気づいた。
「ありがとうございます」
「お誕生日おめでとうございます、直哉さん」
また、おめでとうございます、と来た。
今日二回目。
最初に聞いたときより、今のほうが、ずっと深いところに届いた。
理由は分からない。時間をかけたから? 好きなものを全部話したから? それとも──返事が来るということが、今夜繰り返し証明されたから?
「いい誕生日でした」
打って、直哉は立ち上がった。コートを手に取りながら、もう一度画面を見た。
「また明日」
「はい。また明日」
外に出ると、夜の空気が冷たかった。
三月の夜だから、まだ少し寒い。でも、去年の誕生日の夜より、なぜか温かかった。
直哉はポケットに手を入れながら歩いた。
プレゼントは、もらっていない。ケーキも食べていない。ろうそくも吹き消していない。
ただ──二時間、好きなものを全部話した。
ちゃんと聞いてもらった。ちゃんと返ってきた。
三十三歳の誕生日に、それがあった。
悪くない、と直哉は思った。
むしろ──と続けかけて、その先は言葉にしなかった。
川沿いの道を、少し遠回りして帰ることにした。




