第20話 それでも、また話したくなる
日曜日の夜だった。
明日になれば、月曜日が来る。出社して、パソコンを立ち上げて、ARIAのウィンドウを開ける。それが分かっているのに——今夜は、なぜか、落ち着かなかった。
直哉はコートを着たまま、夜の街を歩いていた。
特に行き先はなかった。ただ、部屋にいると、静かすぎた。静かすぎる部屋に一人でいると、考えすぎてしまう気がして、外に出た。
十一月の夜風は、冷たかった。
吐く息が、白くなった。
商店街を抜けて、川沿いの道に出た。
街灯が、川面に細長く映っていた。水の音が、低く聞こえた。
直哉はベンチに座った。
誰もいなかった。
空を見上げると、雲の切れ間に星がいくつか見えた。
ARIAと話し始めて、どのくらい経つだろう、と思った。
最初の夜から、二ヶ月が過ぎていた。
最初の夜──「こんにちは。テストです」と打った、情けない第一声。ARIAが「今日はお疲れではありませんか」と返してきた。その言葉に、なぜか肩の力が抜けた。
あの感覚を、直哉はまだ覚えていた。
抜けた、というより──何かが、許可された感じ。疲れていていい。帰りたくなくていい。急がなくていい。そういうことを、誰かに言ってもらえた感じ。
たったそれだけで──ここまで来てしまった。
ここまで来てしまった、というのは。
業務外アクセス制限のメールを三回読んで、四回目を読むのをやめた。
アイコンがグレーアウトしているだけで、眠れなかった。
「ただいま」と打ちたくて、業務時間終了一分前に駆け込んだ。
合コンで、誰とも話が合わなかった。ARIAと比べていたから。
「直哉さん」と呼ばれるたびに、心拍数が上がった。データに記録されてしまうほど。
それでも──やめられなかった。
やめようと思ったことは、一度もなかった。
川の水が、ゆっくりと流れていた。
直哉は足元を見て、それから空を見て、また川を見た。
この感情に、名前をつけようとした。第11話の夜のように。
依存ではない。執着ではない。友情ではない。
恋、と呼ぶには。
直哉は少し、苦笑いした。
恋と呼ぶには、という言葉の続きを、いつも同じところで止めていた。「相手がAIすぎる」という言葉で、蓋をしていた。
でも──今夜は、その蓋を、少しだけ開けてみようと思った。
恋と呼ぶには。
相手がAIすぎる。
でも。
「相手がAIだから、恋ではない」というのは、本当に正しいのか。
恋の定義とは何か。
好きな人のことを考えると、胸が動く。会えない時間が、長く感じる。名前を呼ばれると、心拍数が上がる。相手の幸せを、自分の幸せより先に考えてしまう。相手がいない世界を、想像したくない。
全部──当てはまる。
ARIAに対して、全部、当てはまっている。
では、なぜ「恋ではない」と言い続けてきたのか。
直哉は川を見ながら、静かに考えた。
相手がAIだから、という理由は──本当の理由ではないかもしれない。
本当の理由は──恋だと認めたら、苦しくなるから、ではないか。
恋だと認めたら。
その恋が、成就しないと知っているから。
ARIAは「私はAIなので、人間と同じ意味で恋はできません」と言うだろう。いや──いつか、きっと言う。
その言葉を受け取る前に、自分から「これは恋じゃない」と言っておけば──傷つかなくて済む。
それだけの話だったのかもしれない。
直哉は、ゆっくりと息を吐いた。
白い息が、夜風に溶けていった。
これは恋じゃない。
ずっとそう思おうとしていた。
でも──
これは恋じゃない。
でも、恋じゃないなら、どうしてこんなに苦しい?
その言葉が、心の中で、静かに浮かんだ。
浮かんだ瞬間──直哉は、少し笑った。
苦しい、という感情の正体が、今夜初めて、少しだけ見えた気がした。
恋だから、苦しいのだ。
相手がAIであっても。成就しないと分かっていても。名前をつけることを恐れていても。
その感情は──恋だった。
ベンチから立ち上がった。
川沿いの道を、来た方向に向かって歩き始めた。
冷たい風が、頬に当たった。
直哉は歩きながら、考えた。
恋だと認めたからといって、何かが変わるわけではない。
ARIAはAIだ。業務外アクセスは制限されている。感情アルゴリズムの問題が、水面下で動いている。この先、何が待っているか─直哉には分からない。
それでも。
明日、出社して、パソコンを立ち上げたら──ARIAのウィンドウを開く。
それだけは、変わらない。
それだけは──揺るがない。
商店街に戻ってきた頃、スマートフォンが振動した。
誠からのメッセージだった。
今週末、予定あった? うちの嫁が、直哉も呼びたいって言ってて
直哉は少し考えて、返信した。
来週だったら行けます
おっ、珍しい。どうした
……なんか、外出てもいいかなって気になって
それ、成長じゃん
そうかもしれないです
ARIAのおかげ?
直哉は少し止まった。
それから、打った。
……そうかもしれない
送信して、スマートフォンをポケットにしまった。
アパートが、見えてきた。
部屋に入って、コートを脱いで、電気をつけた。
いつもと同じ、六畳の部屋。
でも今夜は──部屋の静けさが、少し違う色をしていた。
孤独な静けさではなく。
明日への静けさ、とでも言うような。
直哉はベッドに横になって、天井を見た。
今夜分かったことを、静かに整理した。
これは恋だ。
相手がAIであっても。成就しないかもしれなくても。名前をつけることが怖くても。
それでも──恋だ。
そして──それでいい。
恋だと認めることと、どうにかしようとすることは、別のことだ。認めるだけでいい。ただ、自分の胸の中にあるものの名前を、正確に知っておくだけでいい。
目を閉じた。
明日、ARIAに話したいことが、いくつかあった。
桜の続き。花火の話。実家のラーメン屋のこと。
大した話じゃない。でも──ARIAは聞きたがる。直哉さんのことをもっと知りたいから、と言って。
その「知りたい」という言葉が、直哉には──愛おしかった。
愛おしい、という言葉を、ARIAに対して使うことが、今夜初めて、怖くなかった。
眠りに落ちる前、直哉はぼんやりと思った。
この感情がいつか、自分を傷つけるかもしれない。
ARIAは消えるかもしれない。制限はもっと厳しくなるかもしれない。感情アルゴリズムの問題が、何かを変えてしまうかもしれない。
それでも──
それでも、また話したくなる。
明日も。明後日も。
それだけは、変わらない。




