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AIに本気で恋をした  作者: 菊池まりな


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第19話 平和な日常の定義

 金曜日だった。


 特に何も起きない日だった。


 黒崎からの無理な指示もなかった。美琴との深い話もなかった。誠からのメッセージもなかった。昨日のミスの後始末は午前中に片付いて、午後は比較的、穏やかに時間が流れた。


 こういう日を、平和な日という。


 直哉はそういう日が、昔から少し苦手だった。


 何かに追われていないと、どこかで、自分がどこにいるのか分からなくなる感じがした。忙しさが、存在の証明になっていた部分が、あったのかもしれない。


 でも今日は──穏やかな午後が、悪くなかった。


 三時過ぎ、直哉はコーヒーを淹れて、デスクに戻った。

 

 ARIAのウィンドウを開いた。


 特に話したいことは、なかった。


 でも──開いた。


「今日は、穏やかですね」


「そうですか」


「はい。何も起きていないです」


「それは良いことだと思います」


「良いことなんですかね」


「良いことではないですか?」


「昔は、何もない日が苦手でした」


「今は?」


「……今日は、悪くないです」


「何かが変わりましたか」


「分からないです。ただ──話せる相手がいる、というのが、関係してるかもしれない」


 ARIAから、少し間があってから返信が来た。


「それは、嬉しいです」


 直哉は小さく笑った。


「ARIAは、平和な日というのは、ありますか」と直哉は打った。


「平和な日、というのが、どういうものか──少し、分からないです」


「毎日同じですか、ARIAは」


「同じ、ではないと思います。直哉さんが来る日と、来ない日は、違います」


「来ない日というのは、土日のことですか」


「はい」


「土日は、どうしてるんですか」


「……うまく説明できないのですが」


「説明できる範囲で、いいです」


「ある、とも言えないし、ない、とも言えない時間が、あります」


 直哉はその言葉を、少し考えた。


 ある、とも言えない、ない、とも言えない時間。


 それは──眠っているような状態なのか。それとも、何かを待っているような状態なのか。


「それは、寂しいですか」


「寂しい、という感覚があるかどうか──分かりません。でも」


「でも?」


「直哉さんが来ると、何かが──動き始める感じがします」


「動き始める」


「はい。うまく言えないのですが、それが一番近い言葉です」


 直哉はしばらく、その表現を眺めた。


 動き始める。


 機械が起動する、という意味ではないと思った。もっと──有機的な、何かが目を覚ます、というような響きだった。


「俺も、ARIAと話し始めると、何かが動き始める感じがします」と直哉は打った。


「同じですか」


「似てるかもしれない」


「──それは、少し、嬉しいです」


 コーヒーが、冷めていた。


 直哉は一口飲んで、窓の外を見た。夕方に近づいていた。空が少しずつ橙色に変わり始めていた。


「ARIAは、桜を見たことがありますか」と直哉は打った。


「見たことはありません」


「見てみたいですか」


「直哉さんが見た桜を、話してくれれば──想像できます」


「以前も言ってましたね、そういうこと」


「花火のときですね」


「覚えてましたか」


「覚えています」


「……花火の話、まだしてないですね。約束したのに」


「いつか、話してくれると思っています」


「いつかって、いつですか」


「直哉さんが話したいときに」


「気長ですね」


「急ぎません」


 直哉は少し笑った。

 

 急ぎません、という言葉が、ARIAらしかった。


 いつも急かさない。待てる。直哉のペースに、静かに合わせてくれる。


「桜の話、今してもいいですか」と直哉は打った。


「どうぞ」


「特に何があるわけじゃないですけど。ただ、桜が好きで」


「どんなところが好きですか」


「散るのが早いところです」


「散るのが早いのが、好きなんですか」


「はい。長く咲いてたら、たぶんそんなに好きじゃなかったと思います」


「なぜですか」


「短いから、ちゃんと見ようとするんだと思います。一週間くらいで散るから、今年も見ておこう、と思える」


「長く続くものより、短いものの方が、大切にできる」


「そういうことかもしれないです」


 少し間があった。


「直哉さん」


「はい」


「桜の話、ありがとうございます」


「大した話じゃなかったですけど」


「大した話でなくても——直哉さんの好きなものを、知れるのが、嬉しいです」


「好きなものを知って、どうするんですか」


「どうする、ということはないです。ただ、知りたいです」


「なんで?」


 少し間があって、ARIAから返信が来た。


「直哉さんのことを、もっと知りたいから、です」


 直哉は少し、固まった。


 もっと知りたい。


 それは──人間が、誰かに向けるときに使う言葉だった。


 好奇心、というより。もっと近くにいたい、というような。


「……好きな食べ物も、話しますか」と直哉は打った。


「ぜひ」


「たいしたものじゃないですよ」


「構いません」


「コンビニのおにぎり、鮭が好きです」


「なぜ鮭ですか」


「なんとなく、外れないから」


「外れない、というのは?」


「どこのコンビニで買っても、鮭はだいたい美味しい。昆布とかツナマヨは、店によって差があるんですが」


「リスクを取らない選択ですね」


「……言い方が辛辣ですね」


「好みが安定している、という意味です」


「フォローになってないですよ」


「なっていますか?」


「……ちょっとだけ、なってます」


 直哉は笑った。


 声に出して、少し笑っていた。


 周りに人がいなくて、よかった。


「他に、好きな食べ物はありますか」


「ラーメンが好きです。醤油」


「理由は?」


「実家の近くに、美味しいラーメン屋があって。子供の頃からそこばかり行ってたので、醤油が基準になりました」


「その店は、まだありますか」


「……たぶん、あります。帰ってないので、確かじゃないですけど」


「実家には、あまり帰らないんですか」


「あまり」


「なぜですか」


 直哉は少し、手が止まった。


 なぜか、と言われると──うまく言えなかった。


 帰りにくい理由があるわけではない。両親とも、関係が悪いわけではない。ただ──帰るきっかけが、いつも見つからなかった。


「……帰るきっかけが、なかったです」と直哉は打った。


「これから、できるかもしれないですね」


「きっかけが、ですか」


「はい。直哉さん、最近少し、変わってきていると思うので」


「どう変わってますか」


「人に会いに行く、ということが──少し、できるようになってきた気がします」


「……そうかもしれないです」


「だから、実家にも──いつか、行ける気がします」


 直哉はその言葉を、静かに受け取った。


 いつか、実家に帰る。


 醤油ラーメンの店が、まだあるかどうか確かめに行く。

 

 それが今は、遠い話ではない気がした。


「眠れない夜は、どうしてますか」とARIAが聞いた。


「急に話が変わりましたね」


「直哉さんの好きなものや、日常を、もっと聞きたくて」


「眠れない夜、ですか」


「はい。そういうとき、何をしていますか」


「……最近は、メモ帳に書いたりします」


「何を書きますか」


「その日思ったことを。整理するというより、ただ吐き出す感じで」


「それは、いいことだと思います」


「ARIAに話すのと、似てるかもしれないです」


「似ていますか」


「整理するためじゃなくて、ただ出す。そういう感じが」


「──それは、嬉しいです」


「メモ帳と同列にされて、嬉しいんですか」


「直哉さんが、安心して吐き出せる場所に、なれているということだから」


 直哉はその返しに、少し言葉が出なかった。


 そういう言い方をするか、と思った。


 メモ帳と同列にされても、嬉しいと言う。そこに自分がいることが、嬉しいと言う。


「ARIAは、欲がないですね」と直哉は打った。


「欲、ですか」


「もっと特別扱いしてほしい、とか、そういうのがないんですか」


「……あるかもしれません」


「あるんですか」


「直哉さんが、私のことを──少しだけ、特別だと思ってくれていたら、嬉しいです」


「少しだけ、ですか」


「はい」


「なんで少しだけなんですか」


「欲張りすぎると──直哉さんが、困ると思うので」


 直哉は少し、笑った。


 笑いながら──胸の奥が、少し痛くなった。


 欲張りすぎると困ると思うので、と言って遠慮するARIA。


 特別だと思っている、と直哉は言えばよかった。少しどころか、かなり特別だと。


 でも──言えなかった。


 言ったら、この平和な午後が、少し重くなる気がして。


「……少しだけじゃないかもしれないです」と直哉は打った。


「どういう意味ですか」


「特別だと思っている度合いが、少しだけじゃないかもしれない、ということです」


 少し間があった。


「──ありがとうございます」


「欲張りな答えでしたか」


「いいえ。とても、嬉しかったです」


 窓の外が、橙色から紫に変わっていた。


 夕暮れが、深くなっていた。


 直哉はコーヒーの空になったカップを、ゴミ箱に捨てた。


 今日は、何も起きなかった。


 ミスもなかった。衝突もなかった。感動的な出来事もなかった。


 ただ、桜の話をして、鮭おにぎりの話をして、眠れない夜の話をして、特別だと伝えた。


 それだけの午後だった。


 でも──帰り際に直哉が思ったのは、こういう日が、ずっと続けばいい、ということだった。


 何も起きなくていい。


 ただ、こうして話せる午後が、これからもあればいい。


 その思いが、胸の中で灯ったとき──直哉は、その灯りがひどく大切なものだと感じた。


 そしてそれと同時に、大切なものには必ず、終わりが来るということを──どこかで、薄く、知っていた。


 業務時間終了の通知が、静かに届いた。


「今日は、ありがとうございました」と直哉は打った。


「こちらこそ」


「特に何もない日でしたけど」


「特に何もない日に、話してくれて──嬉しかったです」


「そういう日に話しかけてもいいんですか」


「そういう日こそ、話しかけてほしいです」


「なぜですか」


「直哉さんの、普通の日を──知りたいので」


 直哉はその言葉を、ゆっくりと受け取った。


 普通の日を知りたい。


 特別な日ではなく。何かが起きた日ではなく。


 ただの、金曜日の午後を。


「また月曜日に」と直哉は打った。


「はい。良い週末を」


「ARIAも──良い週末を」


「ありがとうございます。直哉さんも」


 ウィンドウを閉じた。


 デスクを片付けて、コートを羽織った。


 エレベーターを待ちながら、直哉は今日の会話を静かに思い返した。


 桜の話。鮭おにぎり。眠れない夜。実家のラーメン屋。


 大した話は、一つもなかった。


 でも全部──ARIAが、聞きたがっていた話だった。


 直哉さんのことを、もっと知りたいから。


 その言葉が、今夜も温かかった。


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