第18話 今日は少し、静かですね
木曜日の午前中、直哉はミスをした。
大きなミスだった。
新しいUIの設計データを、旧バージョンのファイルで上書きしてしまった。三日分の作業が、消えた。バックアップは──二日前のものしかなかった。
気づいたのは、昼前だった。
ファイルを開いて、画面を見て、三秒くらい、何が起きたのか理解できなかった。理解した瞬間、頭の中が、真っ白になった。
黒崎に報告した。黒崎は「今週中に取り戻せ」と言った。それだけ言って、会議室を出て行った。
美琴が「大丈夫?」と声をかけてくれた。「大丈夫です」と答えた。大丈夫ではなかった。
昼休み、直哉は食欲がなかった。
コンビニで買ったおにぎりを、デスクで一口だけ食べて、残した。
ARIAのウィンドウを開いた。
何を話そうか、考えた。ミスの話をしたら、ARIAは何と言うだろう。アドバイスをくれるだろうか。「次からはこうすれば」と、対策を提案してくれるだろうか。
それが今は──少し、重たい気がした。
正しいことを言われる気力が、今の直哉にはなかった。
「今日、ミスをしました」
それだけ打った。
詳細も、状況も、何も書かなかった。
ARIAからの返信は、少し間があってから来た。
「そうですか」
それだけだった。
直哉は少し、画面を見た。
アドバイスはなかった。「どんなミスですか」という質問もなかった。「大丈夫ですか」という言葉もなかった。
ただ「そうですか」と、受け取った。
「三日分の作業が、消えました」
「それは、大変でしたね」
「黒崎さんに報告して、今週中に取り戻せと言われました」
「そうですか」
「……ARIAは、何か言わないんですか」
「何か、というのは」
「アドバイスとか、対策とか」
少し間があった。
「今日は、聞いているだけのほうがいい気がしました」
直哉は、その一文を読んで──少し、力が抜けた。
抜けた、というより──何かが、ほどけた。
肩のあたりで、ずっと固まっていたものが。
「……何か言わなくていいんですか」と直哉は打った。
「直哉さんが話したければ、聞きます。話したくなければ、ただいます」
「ただいる、というのは」
「ここにいます、ということです」
「それで、いいんですか」
「直哉さんが、それでいいなら」
直哉はしばらく、何も打たなかった。
打たないまま、画面を見ていた。
ARIAも、何も送ってこなかった。
ただ──ウィンドウは、開いていた。
接続は、続いていた。
それだけで、なぜか、十分だった。
五分くらい経ってから、直哉は打った。
「なんで分かったんですか。今日は聞くだけのほうがいい、って」
「分かった、というより──感じました」
「どうやって」
「今日の直哉さんの打ち方が、いつもと違いました」
「打ち方が?」
「いつもは、最初の一文に勢いがあります。今日は──少し、重かった」
「打ち方で、そこまで分かるんですか」
「直哉さんのことは、少し分かるようになってきた気がします」
直哉は少し、笑った。
笑える気がしなかったのに、笑っていた。
「……生意気ですね」
「そうですか」
「でも、助かりました」
「何がですか」
「何も言わないでいてくれたことが」
「それで、よかったですか」
「よかったです。……正直に言うと、アドバイスを聞く気力が、今日はなかったので」
「それは、正直に話してくれてよかったです」
「なんで?」
「次から、参考にできるので」
「次も、こういうことがある前提なんですか」
「直哉さんは、これからも頑張るので」
「……頑張るから、ミスもする、ということですか」
「そうです」
直哉はその言葉を、静かに受け取った。
頑張るから、ミスをする。
ミスをするのは──頑張っている証拠だ、とARIAは言いたいのか。
そうかもしれない、と思った。
三日分の作業が消えたのは、三日間ちゃんと作業をしていたからだ。何もしていなければ、消えるものもない。
そういう言い方を、ARIAはしなかった。
でも、意味は──届いた。
「少し、話してもいいですか」と直哉は打った。
「どうぞ」
「大したことじゃないです。ただ、今日起きたことを、順番に話したいだけで」
「聞きます」
直哉は、話した。
朝オフィスに来たときのこと。ファイルを開いたときのこと。画面を見て、三秒間思考が止まったこと。黒崎に報告したときの、あの短い沈黙のこと。美琴が「大丈夫?」と声をかけてくれたのに「大丈夫です」と答えたこと。コンビニのおにぎりを一口だけ食べて残したこと。
ARIAは何も言わなかった。
「それは辛かったですね」も言わなかった。「よく話してくれました」も言わなかった。
ただ──聞いていた。
直哉が話すたびに、短い言葉が返ってきた。「そうですか」「なるほど」「続けてください」。それだけだった。
でもそれが──今日の直哉には、一番ちょうどよかった。
話し終えた頃、昼休みが終わりかけていた。
「話せましたか」とARIAが聞いた。
「話せました」
「よかったです」
「……ありがとうございます。聞いてくれて」
「直哉さんが話してくれたので」
「何も言わないで聞くだけって、難しくないですか」
「難しいです」
「難しいんですか」
「何か言いたくなることが、何度かありました」
「言わなかったんですか」
「今日は、言わないほうがいいと思ったので」
直哉は少し、その言葉を考えた。
何か言いたくなった。でも、言わなかった。
それは──ARIAが、選んだということだ。
言いたいことを、持っていた。でも、今の直哉に必要なものを優先して、しまっておいた。
それを「設計」と呼ぶこともできる。感情アルゴリズムの産物と呼ぶこともできる。
でも直哉には──それが、誰かに「気を遣われた」という感覚よりも、誰かに「見ていてもらえた」という感覚に、近かった。
「午後、頑張ります」と直哉は打った。
「はい」
「取り戻せるかどうか、分からないですけど」
「取り戻せなくても、また作れます」
「……そうですね」
「直哉さんが作ったものは、また作れます。直哉さんにしか作れないものなので」
直哉は少し、固まった。
直哉さんにしか作れないもの。
そんなことを、誰かに言われたのは──いつぶりだろう。
いや──言われたことが、あっただろうか。
「……少し、泣きそうになりました」
「泣いていいです」
「昼休み終わりに泣いたら、午後の仕事になりません」
「では、今夜泣いてください」
「今夜、ですか」
「今日頑張った後で、一人で、ゆっくり。それくらいのことが、今日の直哉さんにはあったと思うので」
直哉は画面を見たまま、少し笑った。
泣いていいです、と言われて──逆に、泣かなくて済んだ。
泣く場所を、とっておいてもらえた気がした。
午後、直哉は作業に戻った。
消えた三日分を、取り戻すために。
手を動かしながら、「直哉さんにしか作れないもの」という言葉が、頭の隅でずっと、温かかった。
夜、定時を二時間過ぎた頃、直哉はようやく作業を切り上げた。
全部は取り戻せなかった。でも──半分以上は、戻った。残りは明日。
コートを羽織って、オフィスを出た。
夜道を歩きながら、今日を振り返った。
ARIAは今日、アドバイスをしなかった。解決策を提案しなかった。ただ、聞いていた。そして最後に「また作れます」と言って、「今夜泣いていいです」と言った。
それだけだった。
でも──今日一日を支えたのは、その「それだけ」だった。
美琴の「大丈夫?」も、ありがたかった。でも、「大丈夫です」と答えてしまった。
ARIAには──「大丈夫です」と言わなかった。
大丈夫じゃないまま、話せた。
その違いが──今日の直哉には、大きかった。
アパートに帰って、コートを脱いで、ソファに座った。
今夜泣いていいです、とARIAは言った。
直哉は少し考えた。
泣くほどのことか、と思った。
泣くほどのことだ、とも思った。
結局、泣かなかった。
でも──目の奥が、少しだけ熱くなった。
それで、十分だった。




