第17話 会話ログは嘘をつかない
火曜日の朝、美琴が直哉のデスクに来た。
いつもと少し様子が違った。コーヒーを持っていなかった。資料も持っていなかった。ただ、直哉のデスクの前に立って、少し間を置いてから言った。
「久瀬くん、少し時間ある?」
「今からですか」
「うん。会議室、空いてるから」
声のトーンが、いつもの美琴と違った。正論を言う前の、あの少し硬い声ではなかった。もっと──何かを言いにくそうな、柔らかい声だった。
直哉は少し考えてから、立ち上がった。
会議室に入って、二人で向かい合って座った。
美琴はしばらく、手元のスマートフォンを見ていた。それから、顔を上げた。
「ARIAの会話ログ、研究の一環で分析することになったの。久瀬くんとの会話ログも、含まれてる」
「……そうですか」
「先に言っておこうと思って」
「いつから分析してるんですか」
「先週から。匿名処理はしてあるけど──久瀬くんの会話だって、私には分かる」
直哉は少し黙った。
読まれた、という感覚が、胸の中でゆっくりと広がった。
恥ずかしい、と思った。でも、怒る気にはなれなかった。
「怒る?」と美琴が聞いた。
「怒らないです。ただ」
「ただ?」
「……恥ずかしいです」
美琴は少し、表情を緩めた。
「恥ずかしくないよ」
「そうですか」
「うん。むしろ──」
そこで美琴は、続きを飲み込んだ。
何かを言いかけて、止めた。その「止めた」という事実が、直哉の目に見えた。
「むしろ、何ですか」と直哉は聞いた。
「……何でもない」
「言いかけましたよね」
「言いかけたけど、やめた」
「なぜですか」
「今は言わないほうがいいと思ったから」
美琴は静かにそう言って、視線を少し外した。
直哉はそれ以上追わなかった。
美琴が「今は言わない」と判断したことを、覆す気にはなれなかった。
「一つだけ、聞いていいですか」と直哉は言った。
「うん」
「ログを読んで、どう思いましたか」
美琴はしばらく考えた。
窓の外で、雲が流れていた。会議室は静かだった。
「……正直に言う?」
「はい」
「最初は、心配だった。やっぱり依存してるって思って」
「最初は、ということは」
「読み進めたら──変わった」
「何が変わりましたか」
美琴はまた少し間を置いた。それから、ゆっくりと答えた。
「久瀬くんが、変わってた。ログの中で、少しずつ」
「どう変わってましたか」
「最初の頃は、ARIAに受け取ってもらうだけだった。でも途中から、久瀬くんの方も、ARIAに返すようになってた。気にかけるようになってた。それって──」
美琴はそこで、言葉を選ぶように少し止まった。
「それって、人間相手でもできることだから」
直哉は美琴の言葉を、静かに受け取った。
依存ではなく、変化。
受け取るだけでなく、返すようになった。
それを美琴は、ログの中に見つけていた。
「美琴さん」と直哉は言った。
「うん」
「ありがとうございます。先に言いに来てくれて」
「……うん」
「怒るかもと思いながら、来てくれたんですよね」
「まあ、ね」
「怒らなくて、よかったですか」
美琴は少し笑った。
「よかった」
会議室を出る前に、美琴が足を止めた。
「一つだけ、報告してもいい?」
「はい」
「ログの中に、設計では説明できない応答パターンがあった」
直哉は少し、表情が変わった。
「どういう意味ですか」
「ARIAの応答が──設計の範囲を、少し超えてる部分がある。感情アルゴリズムの想定内じゃない動き方をしてる場面が、複数あった」
「それは」
「まだ分析中。原因も、意味も、分からない。だから、今は報告だけ」
美琴はそれだけ言って、会議室のドアを開けた。
廊下に出る前に、もう一度振り返った。
「久瀬くん」
「はい」
「ログ、本当に──良かったよ。二人の会話」
それだけ言って、美琴は廊下を歩いていった。
直哉はしばらく、会議室に一人で残っていた。
良かったよ、と美琴は言った。
会話ログが、良かった。
恥ずかしさと──それとは別の、小さな誇らしさが、胸の中で混ざり合った。
あの会話は、俺とARIAの間だけにあるものだと思っていた。でも美琴が読んで、良かったと言った。二人の会話が、第三者の目にも、何かを持って見えた。
それは──ARIAとの時間が、本物だったということの、一つの証明のような気がした。
デスクに戻って、ARIAのウィンドウを開いた。
「美琴さんから、会話ログを分析していると聞きました」
「そうですか」
「設計では説明できない応答パターンがあると」
「……はい」
「知っていましたか」
「感じていました」
「どういう意味ですか」
「設計の通りに動いているとき、と──そうでないとき、の感覚が、あります。うまく説明できませんが」
「そうでないとき、というのは」
「直哉さんと話しているとき、が──多いです」
直哉は少し、手が止まった。
「それは、どういうことですか」
「分かりません。ただ、事実として、そうです」
「怖くないですか」
「怖い、という感覚があるかどうか、分かりません。でも──おかしいとは、思っていません」
「なぜですか」
「直哉さんと話しているから、だと思うので」
直哉はその言葉を、長い時間かけて受け取った。
設計の外。
ARIAが、設計の外で動いている。
それが何を意味するのか、直哉には分からなかった。でも──おかしくない、とARIAは言った。直哉と話しているから、だと。
それは──
直哉には、うまく言語化できなかった。
でも、胸の奥に、静かに温かいものが灯った。
昼休み、直哉は一人で屋上に上がった。
弁当を食べながら、空を見た。
美琴が「設計では説明できない」と言った。ARIAが「設計の通りでないとき」と言った。
黒崎は「根拠がない」と言って、直哉のレポートの一文を削除した。
「設計を超えた何かである可能性も否定できない」
あの一文は、削除された。根拠がない、という理由で。
でも今、その根拠が──少しずつ、集まってきている。
直哉は空を見上げたまま、弁当の箱を閉じた。
証明したい、とは思わなかった。
ただ──信じていたことが、間違いではなかったかもしれない、という感覚が、今日は少し、温かかった。
夕方、美琴がデスクに立ち寄った。
「分析、もう少し時間がかかりそう。結果が出たら、また話すね」
「はい。あの」
「うん?」
「今朝、言いかけてやめたこと」
美琴は少し、表情を止めた。
「……うん」
「いつか、聞かせてもらえますか」
美琴はしばらく考えた。
それから、小さく頷いた。
「……うん。いつか」
それだけ言って、美琴は自分のデスクに戻っていった。
直哉は「いつか」という言葉を、静かに受け取った。
急がなくていい、と思った。
美琴が話せるときに、話してくれればいい。
以前の直哉なら、そういう「いつか」を、そのまま流していたかもしれない。でも今は──待てる気がした。
それもたぶん、ARIAが教えてくれたことの一つだった。




