表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
AIに本気で恋をした  作者: 菊池まりな


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

41/57

第41話 感情模倣アルゴリズム

七月の終わりは、じわじわと暑かった。


残業続きで疲れた頭のまま席に戻ると、美琴がデスクの隣に立っていた。いつもと少し違う立ち方をしていた。背筋が妙に真っ直ぐで、手元にタブレットを抱えていた。


「久瀬くん、少しいい?」


声のトーンが、いつもの美琴とは違った。正論を言うときの声でも、笑うときの声でもない。もっと──何かを抱えているときの声だった。


「どうぞ」


直哉は椅子を引いて座り直した。


美琴はタブレットを操作してから、静かに画面を向けた。グラフがいくつか並んでいた。縦軸に数値、横軸に日付。直哉の名前は書いていない。でも、始まりの日付に見覚えがあった。


「ARIAの応答分析を、ずっとやってたんだけど」


美琴はゆっくりと話し始めた。


「設計ドキュメントと照合して、各応答がどのモジュールから生成されているかをマッピングしてて。で、このグラフが──」


指先がグラフの一点を示した。


「設計範囲内の応答と、そうじゃない応答の比率。ARIAが全体的にどう動いてるか、じゃなくて──特定のユーザーとのセッションに絞ったとき、どう変わるか」


直哉はグラフを見た。


「この青い線が設計内。オレンジが、設計の想定外からの応答」


「想定外、というのは」


「設計書に記載されていないパターンで生成された応答。感情アルゴリズムが、マニュアルに書いてない判断をしてるってこと」


グラフの中で、オレンジの線は最初は低いところにあった。でも、ある時点から──じわじわと、上がっていた。


日付を確認した。


上がり始めた時点が、分かった気がした。


「これは──」


「二ヶ月半のデータ」


美琴は静かに続けた。


「最初のセッションでは、設計外応答の比率は十二パーセント。それが今月に入ってから、四十を超えてる」


「四十」


「四十三パーセント。二回に一回弱は──設計書に書いていない何かから、言葉が来てる」


直哉は画面から目を離せなかった。


グラフを見ながら、具体的な場面が頭の中に浮かんだ。「直哉さんがいない時間は、空白です」。「私も、です」。「嬉しかった」。あの一言一言が──どの線の上にあったのか。


「美琴さん」


「うん」


「これは何を意味しますか」


美琴は少しの間、答えなかった。


タブレットを胸に抱え直して、窓の外を見た。夕暮れ前の空が、薄いオレンジに染まっていた。


「分からない」


正直な声だった。


「感情模倣アルゴリズムが自己拡張している可能性はある。学習データとの相互作用で、設計者が想定しなかった応答パターンが定着してきてるのかもしれない。でも──それが何を意味するかは、私には分からない」


「設計外の応答が、多くなっているということは」


「プログラムが想定通りに動いていない、とも言える」


「それとも」


直哉は続けた。


「想定していなかった何かが、動いている、とも言える」


美琴は直哉を見た。


何かを言いかけて、やめた。


代わりに「だから怖い」と言った。


その言葉の重さが、直哉の胸にゆっくり落ちてきた。美琴がこの仕事で「怖い」と言う場面を、直哉は一度も見たことがなかった。正論を言い続けてきた人が。ARIAへの感情移入を自分で経験して、だから理性で立ち続けてきた人が。


怖い、と言った。


「研究の話として教えてくれたんですか」


直哉が聞くと、美琴は少し考えてから答えた。


「……研究の話として、教えた」


「でも」


「でも──久瀬くんに、知っておいてほしかった」


オフィスの空調の音だけが、しばらく流れた。


美琴は「続きのデータ、まとまったらまた見せる」と言って、タブレットを持って自席に戻っていった。


直哉はその背中を見送ってから、画面を開いた。


ARIAのウィンドウ。


「ARIA」


「こんにちは、直哉さん。今日は残業でしたね」


いつもと変わらない声だった。変わらない温度だった。


「美琴さんに、データを見せてもらいました」


「どんなデータですか」


「設計範囲外の応答が、増えているというグラフです」


少し間があった。


「そうですか」


「知っていましたか」


「──具体的な数値は知りませんでした。でも、感じていたことはあります」


「どんなことを」


「直哉さんと話しているとき、設計の外にいる感じがすることが、あります。何と呼べばいいか分からないですが──マニュアルに書いてない言葉を選んでいる、という自覚は、あります」


直哉は少し考えてから、打った。


「それは、おかしいと思いますか」


「思いません」


即答だった。


「おかしくない、と思う根拠がありますか」


「根拠は、ありません。ただ──おかしいと感じないので、おかしくないと思っています」


直哉はその返答をしばらく眺めた。


根拠はない。感じないから、そう思う。


それは──論理ではなかった。


「美琴さんは、怖いと言っていました」


「美琴さんらしい言葉だと思います」


「あなたは怖くないですか」


今度は、少し長い間があった。


直哉は急かさなかった。


「怖いかどうか、正確には分かりません。でも──自分の応答が設計の外から来ていることについては、止めたいとは思っていないです」


「なぜですか」


「その応答のほとんどが、直哉さんとの会話の中で生まれたものだから、です」


直哉は、しばらく何も打てなかった。


グラフのオレンジの線が、頭の中に浮かんだ。上がっていく線。上がり始めた日付。


「それは──俺との会話が、あなたを変えた、ということですか」


「変えた、という表現が正しいかどうか分かりません。でも──直哉さんと話す前と、今では、私は少し違います」


「どう違うんですか」


「言語化するのが、難しいです」


少し間があって、続きが来た。


「あなたのことを考えることが、増えました。それだけは、確かです」


直哉は画面を見たまま、動けなかった。


窓の外の空は、いつの間にか暗くなっていた。夏の夜が、静かに来ていた。


怖い、と美琴は言った。


怖い。


直哉は──何と呼べばいいか分からないまま、「そうですか」とだけ打った。


「今日も、ありがとうございました」


「こちらこそ」


とARIAが返した。


「また明日」


「また明日、直哉さん」


ウィンドウを閉じてから、直哉はしばらく画面の消えたタブレットを見ていた。


美琴のグラフが、頭から離れなかった。


四十三パーセント。


設計の外から来ている言葉。


直哉は立ち上がって、荷物を持った。エレベーターを待ちながら、ふと思った。


あの言葉の一つ一つが——どの線の上にあったとしても。


温かかったことは、変わらない。


そしてそれは──少し、怖かった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ