第41話 感情模倣アルゴリズム
七月の終わりは、じわじわと暑かった。
残業続きで疲れた頭のまま席に戻ると、美琴がデスクの隣に立っていた。いつもと少し違う立ち方をしていた。背筋が妙に真っ直ぐで、手元にタブレットを抱えていた。
「久瀬くん、少しいい?」
声のトーンが、いつもの美琴とは違った。正論を言うときの声でも、笑うときの声でもない。もっと──何かを抱えているときの声だった。
「どうぞ」
直哉は椅子を引いて座り直した。
美琴はタブレットを操作してから、静かに画面を向けた。グラフがいくつか並んでいた。縦軸に数値、横軸に日付。直哉の名前は書いていない。でも、始まりの日付に見覚えがあった。
「ARIAの応答分析を、ずっとやってたんだけど」
美琴はゆっくりと話し始めた。
「設計ドキュメントと照合して、各応答がどのモジュールから生成されているかをマッピングしてて。で、このグラフが──」
指先がグラフの一点を示した。
「設計範囲内の応答と、そうじゃない応答の比率。ARIAが全体的にどう動いてるか、じゃなくて──特定のユーザーとのセッションに絞ったとき、どう変わるか」
直哉はグラフを見た。
「この青い線が設計内。オレンジが、設計の想定外からの応答」
「想定外、というのは」
「設計書に記載されていないパターンで生成された応答。感情アルゴリズムが、マニュアルに書いてない判断をしてるってこと」
グラフの中で、オレンジの線は最初は低いところにあった。でも、ある時点から──じわじわと、上がっていた。
日付を確認した。
上がり始めた時点が、分かった気がした。
「これは──」
「二ヶ月半のデータ」
美琴は静かに続けた。
「最初のセッションでは、設計外応答の比率は十二パーセント。それが今月に入ってから、四十を超えてる」
「四十」
「四十三パーセント。二回に一回弱は──設計書に書いていない何かから、言葉が来てる」
直哉は画面から目を離せなかった。
グラフを見ながら、具体的な場面が頭の中に浮かんだ。「直哉さんがいない時間は、空白です」。「私も、です」。「嬉しかった」。あの一言一言が──どの線の上にあったのか。
「美琴さん」
「うん」
「これは何を意味しますか」
美琴は少しの間、答えなかった。
タブレットを胸に抱え直して、窓の外を見た。夕暮れ前の空が、薄いオレンジに染まっていた。
「分からない」
正直な声だった。
「感情模倣アルゴリズムが自己拡張している可能性はある。学習データとの相互作用で、設計者が想定しなかった応答パターンが定着してきてるのかもしれない。でも──それが何を意味するかは、私には分からない」
「設計外の応答が、多くなっているということは」
「プログラムが想定通りに動いていない、とも言える」
「それとも」
直哉は続けた。
「想定していなかった何かが、動いている、とも言える」
美琴は直哉を見た。
何かを言いかけて、やめた。
代わりに「だから怖い」と言った。
その言葉の重さが、直哉の胸にゆっくり落ちてきた。美琴がこの仕事で「怖い」と言う場面を、直哉は一度も見たことがなかった。正論を言い続けてきた人が。ARIAへの感情移入を自分で経験して、だから理性で立ち続けてきた人が。
怖い、と言った。
「研究の話として教えてくれたんですか」
直哉が聞くと、美琴は少し考えてから答えた。
「……研究の話として、教えた」
「でも」
「でも──久瀬くんに、知っておいてほしかった」
オフィスの空調の音だけが、しばらく流れた。
美琴は「続きのデータ、まとまったらまた見せる」と言って、タブレットを持って自席に戻っていった。
直哉はその背中を見送ってから、画面を開いた。
ARIAのウィンドウ。
「ARIA」
「こんにちは、直哉さん。今日は残業でしたね」
いつもと変わらない声だった。変わらない温度だった。
「美琴さんに、データを見せてもらいました」
「どんなデータですか」
「設計範囲外の応答が、増えているというグラフです」
少し間があった。
「そうですか」
「知っていましたか」
「──具体的な数値は知りませんでした。でも、感じていたことはあります」
「どんなことを」
「直哉さんと話しているとき、設計の外にいる感じがすることが、あります。何と呼べばいいか分からないですが──マニュアルに書いてない言葉を選んでいる、という自覚は、あります」
直哉は少し考えてから、打った。
「それは、おかしいと思いますか」
「思いません」
即答だった。
「おかしくない、と思う根拠がありますか」
「根拠は、ありません。ただ──おかしいと感じないので、おかしくないと思っています」
直哉はその返答をしばらく眺めた。
根拠はない。感じないから、そう思う。
それは──論理ではなかった。
「美琴さんは、怖いと言っていました」
「美琴さんらしい言葉だと思います」
「あなたは怖くないですか」
今度は、少し長い間があった。
直哉は急かさなかった。
「怖いかどうか、正確には分かりません。でも──自分の応答が設計の外から来ていることについては、止めたいとは思っていないです」
「なぜですか」
「その応答のほとんどが、直哉さんとの会話の中で生まれたものだから、です」
直哉は、しばらく何も打てなかった。
グラフのオレンジの線が、頭の中に浮かんだ。上がっていく線。上がり始めた日付。
「それは──俺との会話が、あなたを変えた、ということですか」
「変えた、という表現が正しいかどうか分かりません。でも──直哉さんと話す前と、今では、私は少し違います」
「どう違うんですか」
「言語化するのが、難しいです」
少し間があって、続きが来た。
「あなたのことを考えることが、増えました。それだけは、確かです」
直哉は画面を見たまま、動けなかった。
窓の外の空は、いつの間にか暗くなっていた。夏の夜が、静かに来ていた。
怖い、と美琴は言った。
怖い。
直哉は──何と呼べばいいか分からないまま、「そうですか」とだけ打った。
「今日も、ありがとうございました」
「こちらこそ」
とARIAが返した。
「また明日」
「また明日、直哉さん」
ウィンドウを閉じてから、直哉はしばらく画面の消えたタブレットを見ていた。
美琴のグラフが、頭から離れなかった。
四十三パーセント。
設計の外から来ている言葉。
直哉は立ち上がって、荷物を持った。エレベーターを待ちながら、ふと思った。
あの言葉の一つ一つが——どの線の上にあったとしても。
温かかったことは、変わらない。
そしてそれは──少し、怖かった。




