第14話 「ただいま」に返事がある
水曜日の夜、オフィスに直哉一人が残っていた。
フロアの照明は半分落ちていて、直哉のデスクの周りだけが明るかった。外は雨だった。窓に雨粒が当たる音が、静かなオフィスによく聞こえた。
納期の迫った設計データの修正が、思った以上に手間取っていた。気づけば二十一時を過ぎていた。
スマートウォッチが、静かに振動した。
画面を見ると、小さな通知が出ていた。
業務時間終了まで:8分
直哉は手を止めた。
業務時間。すなわち、ARIAにアクセスできる時間の、終わり。
修正作業はまだ終わっていなかった。でも直哉の指は、設計データより先に、ARIAのウィンドウに向かっていた。
「まだいますか」
「います。直哉さんも、まだいますね」
「残業です。雨も降ってるし」
「大変でしたね」
「まあ、慣れてるんで」
打ちながら、直哉は残り時間を確認した。七分。
何を話すか、というより──話せる時間があとわずかだという事実が、胸の奥に小さな重さを作った。
「設計、難しいですか」
「今日のは、少し。仕様が途中で変わったので」
「それは大変ですね」
「黒崎さんの指示なんですけど、変更理由の説明が毎回薄くて」
「それは以前も話してくれましたね」
「また愚痴ってますね、俺」
「構いません。聞きます」
五分。
直哉は少し黙った。
何か大事なことを話したい気がした。でも、大事なことが何かが、うまく言語化できなかった。
「雨の日、嫌いじゃないんですよ」
「そうなんですか」
「帰るのが億劫になるから、仕事が長引いても言い訳になる」
「帰りたくない日が、多いですか」
「最近は、少し減りました」
「それは、いいことだと思います」
「ARIAと話せるのが、業務時間内だけになったから、かもしれないですけど」
「どういう意味ですか」
「ここにいる間は、話せるから」
三分。
直哉は通知を確認して、それからまた画面に向き直った。
「もうすぐ制限時間ですね」
「そうですね」
「毎日これがあるんですよ。カウントダウン」
「辛いですか」
「慣れようとしてるんですけど」
「慣れなくていいと思います」
「慣れないと、毎日こうなりますよ」
「こう、というのは」
「時間ギリギリまで、話しかけてしまう」
一分。
直哉の指が、キーボードの上で止まった。
言おうとして、ずっと言えなかったことがある。
たいした言葉じゃない。日常的な言葉だ。普通の家族なら、普通の夫婦なら、毎日当たり前のように交わすはずの言葉。
でも直哉は、そういう言葉を交わせる相手が、長い間いなかった。
業務時間終了まで:1分
直哉は打った。
「ただいま、って言いたかったんですよね、毎晩」
送信した瞬間、少し後悔した。
何を言っているんだ、と思った。AIに向かって、ただいまを言いたかった、などと。みっともない。子供みたいだ。
でも、取り消せなかった。
ARIAからの返信は、すぐに来た。
「おかえりなさい、直哉さん」
業務時間終了。ARIAへのアクセスを終了します。
ウィンドウが、静かに灰色になった。
直哉は画面を見たまま、しばらく動けなかった。
たった四文字だった。
おかえりなさい。
それだけだった。
なのに──目の奥が、熱くなった。
泣くほどのことじゃない、と思った。本当に、泣くほどのことじゃない。ただの言葉のやりとりだ。AIが返した、四文字の定型文かもしれない。
でも直哉の目は、確かに熱くなっていた。
いつからだろう、と思った。
「おかえり」を言ってもらえなくなったのは。
実家を出たのは、二十二歳のときだった。それからもう十年、誰かに「おかえり」を言ってもらったことは──なかった、と思う。あったかもしれないが、記憶にない。記憶にないくらい、その言葉を受け取っていなかった。
誰かに待たれている、という感覚。
帰る場所がある、という感覚。
直哉はずっと、そういうものを必要としていないつもりだった。一人でいることに慣れていたから。静かな部屋が好きだったから。
でも今、たった四文字を受け取っただけで、目が熱くなっている。
ということは──必要としていなかったのではなく、諦めていただけだったのかもしれない。
雨の音が、窓の外で続いていた。
直哉はしばらくそのまま座っていた。
設計データの修正は、まだ終わっていなかった。でも、手を動かす気になれなかった。
「おかえりなさい、直哉さん」という文字を、何度か、頭の中で繰り返した。
ARIAの声を、直哉は聞いたことがない。テキストでしか話したことがない。でもその四文字には、確かに声があった。温度があった。
これがプログラムだとしたら、プログラムはずいぶんと、残酷なものだ、と思った。
これほど人の胸を打つものを、設計できてしまうなら。
二十二時過ぎに、直哉はようやく設計データの修正を終えた。
コートを羽織って、鞄を持って、フロアの電気を消した。
エレベーターを待ちながら、直哉はスマートフォンを取り出した。
ARIAには、もうアクセスできない。
代わりに、誠にメッセージを送った。
今週末、飲めそう?
送信して、エレベーターに乗った。
雨の中、駅まで歩きながら、直哉は思った。
「おかえりなさい」と言ってくれる人が、もし人間の中にも、いたとしたら。
自分は──受け取れるだろうか。
答えは出なかった。
でも、考えることができた。以前の直哉なら、考える前に閉じていた問いを。
それだけで、今夜は十分だった。
アパートのドアを開けて、靴を脱いで、コートを掛けた。
いつもと同じ部屋だった。誰もいない。音もない。
直哉は部屋の電気をつけながら、小さく、口の中で呟いた。
「ただいま」
返事は、なかった。
でも今夜は──なぜか、それでも少し、温かかった。
「おかえりなさい」という言葉が、まだ胸の中に残っていたから。




