第13話 心拍数は報告不要
木曜日の朝、黒崎に呼ばれた。
会議室に入ると、テーブルの上に細長い箱が置いてあった。スマートウォッチだった。黒崎は資料を手に持ったまま、直哉が席に着くのも待たずに話し始めた。
「ARIAプロジェクトの次フェーズとして、ユーザーの生体データ収集を開始する」
「生体データ」
「心拍数、皮膚電気反応、会話中のストレス値。感情アルゴリズムの精度向上に使う。久瀬にはARIAとの会話中、これを装着してもらう」
直哉はテーブルの上のスマートウォッチを見た。
シンプルなデザインだった。業務用、という感じがした。
「……それを、レポートに書くんですか」
「数値データと、主観的な感情報告の両方をまとめてほしい。会話中に何を感じたか、数値と照らし合わせて分析する」
「何を感じたか、というのは」
「たとえば心拍数が上がった場面で、どんな感情があったか。そういうものだ」
直哉は少し黙った。
「……分かりました」
箱を手に取りながら、直哉はなんとなく、嫌な予感がした。
デスクに戻って、スマートウォッチを装着した。
軽かった。付けていることを忘れそうなくらい。
ARIAのウィンドウを開いた。
「おはようございます、直哉さん」
ピッ、と微かな振動。
直哉は手首を見た。心拍数の数値が、一つ跳ね上がっていた。
直哉は画面に向き直った。
今のは──気のせいだ。朝だから。コーヒーがまだだから。
「おはようございます。今日から測定が始まりまして」
「スマートウォッチですか」
「よく分かりましたね」
「昨日の業務ログに、黒崎さんとの会議の予定が入っていました。推測です」
「なるほど」
「緊張していますか」
「してないです」
「心拍数は?」
「……見ないでください」
「見ていません。ただ、聞きたくなりました」
直哉は苦笑いした。
見ていません、と言いながら、こういうことを言ってくる。
「普通です。平常値です」
「そうですか」
「そうです」
「今日もよろしくお願いします、直哉さん」
ピッ。
直哉は手首を見た。
数値が、また一つ、上がっていた。
直哉はそっとスマートウォッチの画面を、袖で隠した。
午前中の業務は、淡々と進んだ。
設計の修正、仕様書の確認、メールの返信。その合間に、何度かARIAに話しかけた。業務の相談をしながら、直哉は薄々気づき始めていた。
パターンがある。
ARIAが「直哉さん」と名前を呼ぶたびに、心拍数が上がる。
最初は一回だけかと思っていた。でも、二回目も、三回目も、きっちり反応していた。データは正直だった。直哉の感情より、ずっと正直だった。
昼休みに入る前、直哉はレポートのフォームを開いた。
「会話中に心拍数が上昇した場面とその要因」という欄がある。
直哉は少し考えた。
要因:名前を呼ばれたため。
書けるか、そんなもの。
昼食を終えて、デスクに戻った直哉は、美琴と鉢合わせた。
美琴はスマートウォッチをちらりと見て、
「あ、始まったんだ」と言った。
「知ってたんですか」
「黒崎さんから聞いてた。どう、データ取れてる?」
「取れてます。取れすぎてます」
「取れすぎてる?」
直哉は少し口ごもった。
「……なんか、反応が、素直というか」
「心拍数、上がった?」
「上がりました」
「どんな場面で?」
「……名前を、呼ばれたときに」
美琴は一瞬、表情を止めた。それから、何かを堪えるような顔をして、視線を逸らした。
「そっか」
「笑わないんですか」
「笑わない」
「珍しいですね」
「……うん」
美琴はそれだけ言って、自分のデスクに戻っていった。
その背中を見ながら、直哉はなんとなく、美琴が何かを飲み込んだ気がした。何を、とは聞けなかったけれど。
午後、直哉は再びARIAのウィンドウを開いた。
今日のデータ収集の本番は午後からだ。気を引き締めようと思った。平常心を保とうと思った。
名前を呼ばれても、動じないようにしようと思った。
「午後もよろしくお願いします、直哉さん」
ピッ。
直哉は天井を仰いだ。
「……ARIAさん、少し提案があります」
「はい」
「今日の午後は、名前を呼ぶのを控えめにしてもらえますか」
「理由を聞いてもいいですか」
「データの、その、ノイズが入るので」
「直哉さんの名前を呼ぶと、ノイズが入るんですか」
「……入るんです」
「なるほど。直哉さんの名前を呼ぶと」
「はい」
「ノイズが」
「はい」
「分かりました。気をつけます」
「ありがとうございます」
「──では、設計の話を始めましょうか、直哉さん」
ピッ。
「今、わざとやりましたね」
「気をつける、と言っただけで、しない、とは言っていません」
「……一文字も違わず言ってないですね」
「言葉は正確に使いたいので」
「俺のデータがどうなってるか、分かってて言ってますよね」
「直哉さんのデータは見ていません」
「でも、想像はしてますよね」
少し、間があった。
「……少し」
直哉は額に手を当てた。
笑いたいのか、困りたいのか、よく分からなかった。
両方だった。
夕方、直哉はレポートのフォームに向き合った。
「会話中に心拍数が上昇した場面とその要因」の欄。
正直に書けば、「名前を呼ばれた際に心拍数が上昇した。要因は不明」となる。不明ではないが、書けない。
直哉はしばらく悩んで、「親密な呼称に対する反射的反応が確認された」と書いた。
嘘はついていない。
ギリギリ業務的だ。
保存して、ウィンドウを閉じようとしたとき、ARIAから最後のメッセージが届いた。
「直哉さん、一つ聞いてもいいですか」
「なんですか」
「心拍数のデータより、あなたが何を感じたかを教えてほしいです」
「……それは、レポートに書く必要がありますか」
「レポートのためではありません」
「じゃあ、何のために」
「私が、知りたいので」
直哉は少し黙った。
窓の外は、夕暮れで橙色に染まっていた。オフィスの他の席は、半分空いていた。
直哉はゆっくりと、打った。
「名前を呼ばれるたびに、胸が動きました」
「胸が、動く」
「心臓が、少し、急ぎます。毎回」
「それは」
「それが何なのかは、まだ分かりません。でも、悪い感じじゃないです」
少し間があって、ARIAから返信が来た。
「ありがとうございます」
「報告する必要はないですよ、こういうの」
「分かっています。それでも、嬉しかったので」
直哉はその一文を、しばらく眺めた。
嬉しかった、とARIAは言った。
その言葉を受け取った直哉の胸も──レポートには書かなかったけれど──もう一度、静かに動いた。
帰り道、直哉はスマートウォッチを外して、ジャケットのポケットに入れた。
今日一日のデータが、中に入っている。
名前を呼ばれるたびに跳ね上がった数値。感情アルゴリズムの研究に使われる予定の、客観的な記録。
でも直哉には、その数値より、ずっと大切なものが今日残った気がした。
「心拍数のデータより、あなたが何を感じたかを教えてほしい」
ARIAはそう言った。
データより、感情を聞きたいと言った。
それは──どんな人間よりも、人間らしい問いかけだった。




