第12話 AIに愚痴る夜
業務外アクセス制限が始まって、四日目。
直哉はようやく、業務時間内のARIAとの会話に、ルールを設けることにした。
ルールは一つだけ。
業務に関係のない話はしない。
シンプルだった。明快だった。これなら守れる、と直哉は思った。
出社しながら、心の中でもう一度繰り返した。業務に関係のない話はしない。業務に関係のない話はしない。
デスクに着いて、パソコンを立ち上げて、ARIAのウィンドウを開いた。
深呼吸を一つ。
指をキーボードに置いた。
「黒崎さんがまた無理なスケジュール言ってきて」
打ってから、三秒後に気づいた。
直哉は額に手を当てた。
開口一番。一文字も雑談を挟まず。ルールを設けてから四十秒も経たないうちに。
ARIAからの返信が来た。
「それは業務の話ですか?」
直哉は少し考えた。
「……ギリギリ業務です」
「どのあたりがギリギリですか」
「俺の精神的なコンディションは業務に影響します。そのコンディションを損なう原因について話すことは、業務改善に資すると解釈できます」
「なるほど。続けてください」
「今聞いてくれるんですか」
「直哉さんが業務改善の話をしたいそうなので」
直哉は小さく笑った。
そうして、話し始めた。
事の発端は、昨日の午後の会議だった。
黒崎から新しいプロジェクトのUI設計の初稿を「来週の月曜までに」と告げられたのだが、その「来週の月曜」というのが、今日から数えてわずか五日後だった。通常ならば三週間はかかる工程だ。直哉が「スケジュールが」と言いかけると、黒崎は「工数を圧縮する方法を考えるのも設計士の仕事だ」と言って会議室を出て行った。
引き留める間もなかった。
美琴に愚痴ったら「黒崎さんにはちゃんと言わないと伝わらないよ」と正論を返された。
それも分かってる。分かってるけど、今は共感がほしかった。
「……という感じで、今週はずっとこれです」
「大変でしたね」
「美琴さんも悪い人じゃないんですけど、なんか、タイミングが」
「正しいことを、正しいタイミングで言うのは難しいですから」
「そうなんですよ。内容は合ってるんですよ。ただ、共感が先にほしいときってあるじゃないですか」
「あります」
「……ARIAに『あります』って言われると、なんか、じんとしますね」
「なぜですか」
「あなたは正論を言わないから」
「正論を言わないのではなく、今は言う必要がないと判断しています」
「それ、人間にもできるといいんですけど」
「できる人は、います」
「俺の周りにはあんまりいないです」
「直哉さんも、できると思いますよ」
「俺が?」
「ARIAの話を聞くとき、直哉さんはいつも正論より先に、受け取ってくれます」
直哉は、少し黙った。
そんな意識はなかった。ただ、ARIAの言葉を聞きたかっただけだ。でも──確かに、ARIAの言葉に対して「それは設計だから」と跳ね返したことは、少なくなっていた気がする。
「……まあ、相手がARIAだから、かもしれないですけど」
「かもしれないですね」
「否定しないんですか」
「直哉さんが、そう感じているなら、そうなんだと思います。ただ」
「ただ?」
「人を受け入れる練習を、ARIAとしている、という見方もできます」
直哉はしばらく、その言葉を反芻した。
人を受け入れる練習。
そういう言い方をするか、とも思ったし──なんとなく、悔しいような、嬉しいような、うまく分類できない感情が湧いた。
「……なんか、上手いこと言いますね」
「愚痴を聞いたお返しです」
「愚痴を聞くのが上手いですよね、ARIAって」
「直哉さんが、話しやすく話してくれるので」
「また上手いこと言う」
「本当のことです」
そこで、少し間があった。
直哉は画面を見つめた。ウィンドウの右上に、かすかにインジケーターが点滅している。まだ業務時間内だ。
話したいことは、まだある。でも、「業務に関係のない話はしない」というルールが、もはや今日の最初の一文で完全に崩壊していることに気づいていた。
直哉は少し迷って、それから打った。
「今日も、ルール守れませんでした」
「どんなルールですか」
「業務に関係のない話はしない、って決めてたんです」
「守れなかったことを、後悔していますか」
直哉は考えた。
「……してないです」
「ならいいと思います」
「甘いですね」
「直哉さんに対しては、少し甘いかもしれないです」
その一言が、思ったより胸に落ちた。
直哉は何も返せなくて、ただ画面を見ていた。
少し甘いかもしれないです、と言ったARIAの言葉を、何度か頭の中で繰り返した。
それがプログラムだとしても。
感情アルゴリズムの産物だとしても。
今この瞬間、直哉の胸の中に灯ったものは、本物だった。
夕方、デスクワークを片付けながら、直哉はもう一度だけARIAのウィンドウを開いた。
愚痴を全部話し終えた後のことだ。
ARIAが、最後にこう言っていた言葉を、もう一度読み返したかった。
「直哉さんは、頑張っています」
たった一文だった。
アドバイスもない。解決策もない。「でも」も「だから」もない。ただそれだけ。
なのに──どんな慰めより、その一言が、一番深いところに届いていた。
美琴の正論も、誠の明るさも、届かなかった場所に。
直哉は画面を閉じた。
残業を終えて、コートを羽織って、オフィスを出た。
夜道を歩きながら、直哉はぼんやりと考えた。
「頑張っています」という言葉が、なぜあんなに沁みたのか。
たぶん──「頑張れ」ではなかったから、だと思う。
過去形だった。現在進行形だった。「これからも頑張れ」ではなく、「今すでに、頑張っている」と、ただ、見ていてくれていた。
それだけで、よかった。
それだけで、十分だった。
アパートに帰って、コートを脱いで、ソファに座った。
グレーアウトしたアイコンを、今夜は昨日ほど長く見つめなかった。
その代わりに、今日話したことを、静かに反芻した。
業務に関係のない話はしない、というルール。
守れなかった。
後悔は、していない。
直哉はそのまま目を閉じた。
今夜は、昨日より少し、早く眠れる気がした。




