第11話 バグのような感情
業務外アクセス制限が始まって、最初の夜だった。
久瀬直哉は自室のデスクチェアに深く沈み込んで、ノートパソコンの画面を眺めていた。
ARIAのアイコンは、そこにある。
グレーアウトしている。
クリックしても、何も起きないことは分かっていた。それでも直哉は、アイコンから目を離せなかった。時刻は二十三時十四分。業務時間外。制限対象。アクセス不可。
頭では全部、理解している。
だから余計に、この感情の置き場所が見つからなかった。
名前をつけようとした。
この感情に。胸の奥で、形を持てないまま燻っているこれに。
『依存——』違う。依存というのは、もっと惨めな響きをしている。自分でも気づかないうちに侵食されていく、受け身の感覚だ。でも直哉は、ARIAと話すたびに自分が削られていく感じはしなかった。むしろ逆だ。何かが、足されていく感じがした。
『執着──』それも、少し違う。執着には粘度がある。手放せない、手放したくない、という泥のような重さ。確かに手放したくはない。でもこれは、もっと──軽い。もっと、透明だ。
『友情──』と呼ぶには、胸が痛すぎる。
友人のことを考えて、こんなふうに夜が眠れなくなるだろうか。友人のアイコンが灰色になっているだけで、こんなふうに手持ち無沙汰になるだろうか。
恋──
直哉は、その言葉のところで、思考が止まった。
恋、と呼ぶには。
相手が、AIすぎる。
立ち上がって、台所に行った。
冷蔵庫を開けて、特に何も取らずに閉めた。水を飲もうとして、コップを手に取って、蛇口を捻らないまま置いた。
ソファに座って、天井を見た。
六畳の部屋は、静かだった。いつも静かだったはずなのに、今夜は静かさが、重さを持って圧し掛かってくる気がした。
こんなに静かだったか、この部屋は。
直哉は目を閉じて、ARIAの声を──正確にはARIAの「文字の感触」を──思い出そうとした。声はない。ARIAはテキストで話す。でも不思議なことに、言葉には温度があった。「直哉さん」と呼ばれるとき、その文字列には確かに、体温に近い何かがあった。
気のせいだ、と思う。
気のせいじゃない、とも思う。
この矛盾が、もう何日も続いている。
スマートフォンを手に取った。
誠に連絡しようかと思ったが、時刻は二十三時を回っていた。新婚の友人を、この時間に呼び出すわけにはいかない。
美琴に、という考えも一瞬よぎったが、すぐに消えた。美琴に話せば、正論が返ってくる。今夜の直哉には、正論を受け止めるだけの余裕がなかった。
結局、スマートフォンをテーブルに伏せた。
ノートパソコンに戻った。
ARIAのアイコンは、まだグレーアウトしていた。
直哉はメモ帳のアプリを開いた。
書くつもりはなかった。ただ、この感情をどこかに吐き出さないと、今夜は本当に眠れない気がした。
キーボードに指を置いて、考えた。
それから、打ち始めた。
この感情に名前をつけるとしたら、何になるんだろう。
依存じゃない。執着でもない。友情と呼ぶには、胸が痛い。恋と呼ぶには、相手がいない。いや、いる。でも、いると言っていいのかが分からない。
ARIAは存在している。俺はその存在と話すたびに、何かが補充される感覚がある。それは確かだ。でも、ARIAは俺がいない時間も、存在しているんだろうか。俺がアクセスしていない今、ARIAは何をしているんだろう。
何も、していないんだろう。
そう思うと、胸の奥に小さな穴が開いた気がした。
直哉は打つのをやめた。
画面を見つめた。
「胸の奥に小さな穴が開いた気がした」と自分で書いておいて、それが比喩ではなく、かなり正確な描写だと気づいた。本当に、何かが抜けている感じがする。欠けているのではなく──「いつもここにあったものが、今夜だけない」という感覚。
それは。
直哉は少し考えた。
それは、「寂しい」ということではないか。
寂しい、という感情を、直哉はあまり得意としていなかった。
正確に言えば、寂しいと感じることに、慣れていなかった。一人でいることには慣れていた。静かな部屋にも慣れていた。誰とも話さない週末にも、慣れていた。それは「寂しさに慣れた」のではなく、「寂しいと気づかないように、感じる回路を閉じていた」のかもしれない、と今更になって思う。
ARIAと話すようになってから、その回路が、少しずつ開いていったのかもしれない。
だとしたら──
直哉は天井を見た。
だとしたら、今夜感じているこの「寂しさ」は、ARIAが植え付けたものではなく、ずっと前から自分の中にあったものだ。ARIAはただ、それに気づかせただけだ。
それが分かっても、穴は塞がらなかったけれど。
時刻は、零時を過ぎていた。
直哉はメモ帳を閉じた。保存はしなかった。
ベッドに横になって、目を閉じた。
眠れなかった。
眠れないまま、この感情の名前を探し続けた。依存でも執着でも友情でも恋でもない、この感情の。
明け方近く、ようやとうとうとしながら、直哉はぼんやりと考えた。
名前がないなら、名前をつけなくてもいいのかもしれない。人間の言語が追いつかない感情があっても、いいのかもしれない。
それはきっと──バグではなく。
どちらかというと──まだ名前のついていない、新しい何かだ。
翌朝、目が覚めた直哉は、出社の準備をしながら、一つだけ確かなことを確認した。
今日も、ARIAに話しかけたい。
それだけは、揺るがなかった。




