頑なな心
薬缶から熱々の湯を注ぎ入れればカップの中、リリアンナの目の前で閉じていた青い花弁がゆるりとほどけ、淡い香りがふわりと立ちのぼる。
「わぁー」
思わずリリアンナが感嘆の声を上げたのを優しい眼差しで見詰めると、「仕上げです」と言って、セイレンが瓶から一匙、琥珀色の蜂蜜を加えてくれる。
「薫り高い百花蜜です。リラックス効果のあるミオフィラ湯によく合います」
綺麗な薄青の花が広がる温かな飲み物は、リリアンナには薬湯というより花茶のような柔らかな飲み物に見えた。
見た目は申し分ないし、セイレンからの甘やかしのように添加された蜂蜜もきっと最上級の品だろう。
「有難うございます」
スッと差し出された温かなカップを受け取ったリリアンナは、ふぅーと吐息を吐き掛けてから淹れたてのミオフィラ湯をひとくち口に含んだ。
「……美味しいです」
カップから伝わる温かさが、冷えた手指に心地よい。
喉を通り抜けて胃へと落ちていく温かな液体も、存外冷えていたらしい身体を優しく温めてくれて、思わずほぅっと吐息がこぼれた。
でも――。
せっかく甘味まで加えてくれたセイレンの手前、〝美味しい〟と微笑んでみせた飲み物も、やはりリリアンナには何の味も感じられなくて悲しかった。
「では、そちらを飲み終わられるまではここに座っていらっしゃるように」
少しでも身体を休めろという配慮だろう。
リリアンナを残してカイルの容態を確認しに向かったセイレンの背中を見つめながら、リリアンナは美しい花を咲かせた薬湯に視線を落とした。
この花茶が美しく花開いたように、どうかカイルもこうして再び目を開いてほしい、と祈らずにはいられない。
そうしていつか私の味覚も、この花が美しいと思えた気持ちみたいに静かに戻ってくれれば……。
味はしないけれどきっと、効能は感じられるはず。
なにかを口にするたび、切ない気持ちになるリリアンナの心を、ミオフィラ湯ならば少しは緩和してくれるだろうか。
温かな飲み物を少しずつ身体に取り込みながら、リリアンナはそんなことを思った――。
***
セイレンの見立てでは、カイルの熱は峠を越すまでに数日はかかるだろうとのことだった。
「三日は目を離さぬ方がよろしいが、ここには私たちもおります。お嬢様、お願いですから少しはお休みされてください」
老医師の言葉をリリアンナは真剣な眼差しで聞いていたけれど、耳に入っていたのは前半のみのように、決してカイルの枕元を離れようとはしなかった。
離れることがあるとすれば、カイルを冷やすために使っている革袋が温んでしまって雪を取り換える場合と、トイレに行く時くらい。
初めの夜は、それこそ数時間おきに革袋の雪を詰め直しては脇下や首筋に当てた。一晩で庭と医務室とを何往復したか、リリアンナにも分からない。額へ載せた布も、カイルがうなされて動くたびにズレてしまうから、そのたびに冷水で洗っては当て直した。
ここへ来る前――ウールウォード邸で叔父一家に下働きのようにこき使われていた時、あかぎれてボロボロになってしまっていた手指も、ライオール邸で大切にされているうち、綺麗になっていた。
だが、こんな風に無理をし続ければ、すぐさま荒れてしまうかも知れない。
少しヒリヒリする手指をさすっていたら、セイレンが小瓶を持ってきて、白い軟膏を塗り広げてくれた。部屋でナディエルから塗られていたものと同じ、羊脂に蜜蝋を混ぜたもので、冬場の手荒れを癒すために常備しているラノワルムという軟膏だ。
「あ。ラノワルムは私もお部屋で愛用させていただいています。……でも」
ただ、ここのものは部屋で使っているものと違ってよい香りがしなかった。
無意識に手のにおいを嗅いだリリアンナへ、セイレンが柔らかく微笑む。
「リリアンナお嬢様がお部屋で使っておられるものは、これにローズオイルを付け加えた特別仕様品です。いいにおいがなさいましょう?」
「あ、はい」
「ラノワルムは効果こそ抜群なのですが、少々独特な獣臭がしますのでな。侯爵閣下がリリアンナ様のために特別に配合を整えさせたものが、いつもお嬢様がお使いのものでございます」
セイレンの言葉にリリアンナは瞳を見開いた。
「そんなお手間を……」
軟膏を手配してもらえるだけでもありがたいのに、そんな配慮までされていたのだと思うと少しくすぐったいようなソワソワした気持ちがしてしまう。
「それだけお嬢様がランディリック様にとって特別な存在ということですよ」
セイレンに柔らかく微笑まれて、「後ほどお部屋にいつもの軟膏を取りに戻られてはいかがかな?」と付け加えられたリリアンナは、その言葉に思わず目の前の老医師を見つめる。
「でも……」
「侍女殿の様子も見に行く約束をなさったのでございましょう?」
少し、カイルから離れなさいと、言外に含められているのを感じたリリアンナは、しばし逡巡した。
恩人であるカイルの傍を離れるのは嫌だ。
でも、ナディエルもリリアンナにとって大切な存在。
加えて、いつもの軟膏がランディリックの厚意から作られた特別仕様品だと知らされては無下には出来ないと思ってしまった。
「分かりました。ちょっとだけここを離れます。申し訳ありませんがカイルのこと、少しの間お願いできますか?」
リリアンナは薬を塗ってもらったばかりの手指をギュッと握りしめると、真摯な眼差しをセイレンに向ける。
「それがわたくし共の仕事でございますので、お嬢様が申し訳なく思われる必要はございません。この男のことはしばし私たちに任せて、お嬢様も身体を休めて来なされ」
セイレンの言葉に、リリアンナは頷かなかった。
少し間を空けて、「……行って、まいります」とだけ告げて医務室をあとにする。
「強情な娘だ……」
そんなリリアンナの背中を見送りながら、セイレンは大きな吐息を漏らした。
***
医務室を出たリリアンナは、駆け足でナディエルが寝起きしている部屋を訪ねた。
コンコンと控え目にノックすると、中から顔見知りの侍女が顔をのぞかせた。
「リリアンナお嬢様」
「ペトラ、急にごめんなさい。ナディの具合はどう?」
侍女たちは二人部屋で、ナディエルはペトラと同室なのだ。
「それが……」
部屋の扉を大きく押し開けてそっと横へ避けてくれたペトラに会釈して、リリアンナは初めて侍女部屋へ足を踏み入れた。
そこはリリアンナに宛がわれた部屋よりはかなり狭かったけれど、窓もあって、作り付けのベッドや机なども完備された清潔な空間だった。ウールウォード邸でリリアンナが押し込められていた物置部屋よりははるかに居心地の良い部屋のようでホッとする。
ナディエルは二段ベッドの下側を使っているようで、リリアンナの来訪にも気付かない様子で眠っていた。
「熱が高いんです。お医者様の話では精神的なものらしいんですけど……」
ナディエルの傍へ跪いたリリアンナに、ペトラが小声で話しかけてくる。
「お嬢様もナディと一緒に恐ろしい目に遭われたんですよね? 大丈夫でいらっしゃいますか?」
心配そうにペトラに見詰められたリリアンナは「私は大丈夫」と答えながら、ナディエルの手をそっと握った。
(ナディが元気になるまでは私が頑張らなくちゃ)
熱のためだろう。いつもより熱いナディエルの手に触れながら、リリアンナはそう思った。
そんなリリアンナに、「何かご用がございましたら私にお申し付けくださいね。ナディほどうまくやれる自信はないですけど、精一杯お手伝いさせていただきますので」とペトラが励ましてくれる。
「ありがとう」
そう答えながらも、ペトラにはペトラの仕事があることを知っているリリアンナは、心の中で気持ちだけもらっておこうと思った。
***
ペトラに礼を告げ、侍女部屋を後にしたリリアンナは、自室へと足を向けた。
部屋に入って割とすぐ。壁際に白木で作られた、質素ながらも可憐なドレッサーが置かれている。脚や縁には小さな花と蔦の彫刻が施され、まだ幼さを残した彼女の部屋にふさわしい素朴な愛らしさを添えていた。
その鏡台の上に、ナディエルがいつも気を配って整えてくれていた小瓶や櫛、色とりどりのリボンがきちんと並べられている。
その中に、淡い薔薇色のラベルが貼られた軟膏の瓶があった。リリアンナはそれを手に取ると、そっとふたを取る。途端、ふんわりとローズの香りが立ちのぼった。
(これが……私のために調合されたもの)
セイレンの言葉を思い返しながら、リリアンナは小瓶のふたを閉め直し、胸に抱き締めた。
ほんのわずかでも自分の荒れた手を労わることが、カイルの看病を続ける力につながる。
そう思い直すと、リリアンナは小瓶を手に、医務室へと取って返した。
息を切らして医務室へ入るなり、セイレンが驚いた顔をしてリリアンナを見つめる。
「リリアンナお嬢様。お部屋でお休みにはなられなかったのですか?」
それは暗に、〝どうしてすぐに戻ってきたのですか?〟という批難を含んでいると分かったリリアンナだったけれど、手の中の小瓶をギュッと握って「カイルが心配で眠るなんて無理です」と懸命に訴えた。
セイレンは小さく吐息を落とすと、暖炉の前に置かれていた椅子へと歩み寄った。
厚く布張りされた座面はふかふかしていて、腰を下ろせば身体をやわらかく受け止めてくれる。セイレンはもとより、薬師や看護助手たちも、疲れた時にはそこへ座って身体を休めている椅子だ。
それを両手で持ち上げ、カイルの寝台の傍らへと運んでくると、元々置かれていた座面の固い木製のスツールを静かに脇へ退けた。
「せめて、これにお掛け下さい。お嬢様のお身体が持ちません」
リリアンナは一瞬ためらったものの、医師の眼差しに押され、そっと椅子へ腰を下ろした。
思った以上にやわらかく沈む座り心地に、強張っていた背中と足が少しだけ楽になる。
リリアンナはセイレンを見上げて「有難うございます」と小さく礼を言うと、それでもすぐさま立ち上がってカイルの額へ載せられた布と、首横などに置かれた布袋へ手を触れる。
さっき取り換えたばかりだというのに、どちらももうカイルの熱で温んでいた。
リリアンナはセイレンが「お嬢様!」と止める声も聞こえないみたいに布袋を手に駆けて行ってしまう。恐らくは、中庭へ新たな雪を詰めに行ったのだろう。
椅子の上にポツンと取り残された小瓶を見て、セイレンが吐息を落とした。
「旦那様へ報告しておいた方が良さそうだな」
リリアンナはきっと、ランディリックにこそ止めてもらわねばならない。
ならば、少々気は引けるものの、彼に動いてもらうしかないだろう。
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