その愛称を許したのは誰か
会議に使っていた部屋を出るなり、執事のセドリックが待ち構えていた。
「旦那さま、クラリーチェ・ヴァレンティナ・モレッティ様に王都のご生家より急ぎの書状が届きました。実弟が落馬で大怪我を負われたとのことで、最終便でお帰りになられました。私の独断での手配、どうかご容赦ください」
クラリーチェは、結婚して間もなく夫を落馬事故で亡くした若き未亡人だ。
年老いた女性が多い家庭教師の職に彼女が就いているのも、その境遇ゆえだった。夫を失い、子宝にも恵まれなかった彼女が生家に戻らず身を立てるには、それしか道がなかったのだ。
だからこそ弟の落馬と聞けば、平静でいられるはずがない。クラリーチェを雇い入れる際、執事のセドリックにもリリアンナのカヴァネスを選定するのに意見を求めたため、彼もそれをよく知っていた。ゆえに主の指示を仰ぐよりも、彼女を一刻も早く帰すことを選んだのだ。
ランディリックは短く息を呑み、それからゆっくりとうなずいた。
「礼を言う、セドリック。……ところでリリアンナは?」
「クラリーチェ先生の言いつけを守り、書斎で復習に精を出しておられます。しっかり者のナディエルが傍に控えておりますので大丈夫かと」
ナディエルはリリアンナのことを本当に大切にしてくれる信頼の出来る侍女だ。あまりにリリアンナに肩入れし過ぎて、時に甘やかし過ぎるところがあるのが玉に瑕だが、彼女が付いていてくれるなら問題ないと思えた。
「そうか」
ランディリックは短く答え、気持ちを切り替えるように臣下へと向き直る。
「では、南の城壁を直しにいくぞ」
雪深いこの季節、獣の侵入を許すかもしれない南側の穴は、急ぎ塞がねばならない。厩舎へ続く小道のすぐそばにあいたその穴の外付近では、オオカミが食い散らかしたウサギの亡骸も見つかっている。
今日の明け方に仔馬が生まれたばかりの厩からは、いつも以上に血の匂いも漂っているだろう。
王都エスパハレのウールウォード邸から連れ帰ったリリアンナが、そんな厩舎へほぼ日参していることもあり、ランディリックにはもしものことがあってはならないという思いが強かった。
すでに己の目で城壁の穴を確認してはいたが、今度は修繕を担当する兵を伴い、具体的な方策を自ら指示するつもりだ。
***
命を受けた兵たちが一斉に動き、防寒性の優れたニンルシーラ特製の毛皮付き外套をまといながら続々と外へ出ていく。
ランディリックも厚手の羊毛製マントを翻し、彼らとともに屋敷を後にした。
吐く息は白く、冬の空気は鋭い。雪を踏みしめながら進む一行の背後に、城壁の影が長く伸びている。
歩を進めながら、ランディリックの思考は先ほどの報せへと戻っていた。
クラリーチェが不在となれば、リリアンナの教育はどうすべきか。
あの穏やかな指導に勝る者はそうそういない。臨時に誰か学のありそうな侍従へ教育を引き継がせるか、それとも自ら見てやるべきか――。
そんな思案を胸の内で巡らせていた、そのときだった。
甲高い悲鳴が、凍てつく空気を震わせた。
「――っ!?」
ランディリックの胸が鋭く締め付けられる。耳に届いたのは、確かに邸内で勉学に励んでいるはずのリリアンナの声だったからだ。
何故? と思うよりも早く身体が勝手に動いていた。本来ならば兵に指示を飛ばすべきところなのに、それにすら頭が回らなかった。上官としてはあるまじき行為だが、そんなことを考えていられる余裕などなかった。
突如、何の指令もなく雪を蹴って駆け出したランディリックに、兵士たちがざわめく。城主としては軽率極まりない行動だが、あの声を聞いてじっとしていられるはずがなかった。
「ランディリック様!」
慌てて後を追う兵の声も耳に入らず、ただ一直線に声のした方を目指したランディリックの目に、今にもリリアンナに飛び掛かろうとする真っ白な獣の姿が飛び込む。
ランディリックは走りながら帯刀していた剣をさやから抜くと、リリアンナと宙を舞うオオカミの間に立ちはだかった。
グッと身を低めて真一文字にオオカミの首筋を切り裂くと、刹那、赤い血しぶきが雪を染める。剣圧によって払い飛ばされたオオカミの口から、断末魔の咆哮が雪原に響いた。
赤黒い血が、獣の身体を中心にじわじわと白を侵していくように広がり、やがてオオカミは完全に動かなくなった。
***
その様を見下ろしながらはぁっと落とした吐息が白く霞んで静かに空気に溶けていく。雪上にもかかわらず、大量の血が流れたからだろう。鉄くさいにおいが鼻を刺した。
「……ランディ……」
リリアンナの掠れた声に、ランディリックは剣先から滴る血をひと振りで払い、残る穢れを雪で清めると、ようやく刃を鞘に収めて彼女の方を向く。
「リリー」
ランディリックが彼女の名を呼ぶと同時、恐怖で固まっていた身体がふいに解けたように、リリアンナがランディリックの胸へ縋りついてきた。
彼女のすぐそば、雪の上にまだ尻餅をついたままになっているナディエルを、遅れてたどり着いた兵士の一人が助け起こしているのを横目に、ランディリックはリリアンナを腕の中へ抱き締める。
緊張の糸が切れたからだろう。リリアンナの両目に涙が滲んだ。
それを指先で優しく拭うと、
「大丈夫だ。もう心配ない」
低く落ち着いた声音でリリアンナの背中を優しく撫でる。
腕の中のリリアンナは小さく震えていたけれど、少しずつ〝本当に助かったのだ〟という事実が胸を満たしてきたのだろう。
ランディリックは、抱き締めたリリアンナの身体のこわばりがゆるゆると緩んでいくのを感じた。
だが――。
「……カイル!」
はっとしたように叫んだリリアンナが、突然ランディリックの腕を振りほどき、雪の上へ倒れ込むもう一人の影に駆け寄っていってしまう。
右腕を押さえたまま、顔を歪めて呻いているカイルのそばには、すでに他の兵士がいて、彼の傷の具合を確かめていた。
だが、医療班がいるわけではない。グッと押し当てられた布地を朱に染めてもなお止まらない血が、雪にポツポツと赤いシミを広げていく。
リリアンナは兵士が押さえているカイルの傷を見るなり、彼のすぐそばに跪いた。
「カイル! どうしよう! 私のせいでこんな大怪我……!」
膝をついた裾や、カイルに触れるそで口が雪や血で濡れるのもかまわず、リリアンナがカイルの腕に必死で手を伸ばす。
その目にはうっすらと涙が浮かんでいて、頬を伝う熱が寒気の中でも消えずに残っていた。
そばでカイルの傷を押さえていた兵士が、思わずその役目をリリアンナに譲ってしまうほど、彼女の姿には鬼気迫るものがあった。
ナディエルが、そんなリリアンナを見つめて「カイルがいなかったら今頃お嬢様も私も……」とつぶやくのを横目に、ランディリックはグッと拳を握りしめる。
ランディリックは己の胸の中に、説明のつかぬどす黒い感情がふつふつと沸き上がるのを感じていた。
危険があったのを一早く承知していながら、大切なリリアンナを危険な目に遭わせてしまったからに違いない。
きっとそれが理由だと思うのだが、それだけではない気もしてしまう。
リリアンナが他の男の名を叫び、涙を浮かべてその身を案じる姿が、どうしようもなく胸に刺さっていた――。
***
「カイルを屋敷へ」
別にリリアンナをカイルから引き離したくてそう指示したわけではない。
単純に、ここへこのままいても治療が出来るわけではないという考えから出た指示だった。
ランディリックの言葉に、カイルに縋りつくリリアンナの勢いに押され気味だった兵士たちがハッとしたように居住まいを正す。
「畏まりました、ランディリック様」
そんな声とともに、リリアンナに「リリアンナお嬢様、ここは我らに」という声がかかった。
「リリアンナ、そのままではカイルも治療が受けられないよ」
ランディリックが宥めれば、やっとリリアンナがカイルから離れて少しわきへよける。
それを見計らったように兵士たちが手際よくカイルを抱え上げ、屋敷の方へと運び始めた。
ランディリックはてっきりリリアンナが自分の傍らへ戻ってくると思っていたのだが、予想に反してリリアンナはカイルから離れようとしなかった。
「カイル、ごめんなさい……。私のせいで……!」
泣きそうになりながら、兵士らへ抱えられ城へ向かうカイルへ必死に謝罪の言葉を紡ぐ。そんなリリアンナに、痛みに顔を歪めながらもカイルが懸命に唇を動かした。
「……リリー嬢。俺が勝手にやったことです。だから……気に病まないでください」
「でも……!」
カイルの力ない微笑みに、リリアンナの目からこらえきれなくなったみたいに、大粒の涙が頬を伝った。
「大丈夫です。……俺は平気ですから。それよりリリー嬢はお怪我をされていませんか?」
リリアンナの服が血に汚れているのを見上げて心配そうに眉根を寄せるカイルに、リリアンナが懸命に答える。
「私は大丈夫。カイルとランディが守ってくれたから……」
その言葉に、カイルがホッとしたようにランディリックへ視線を向けると、まるで礼でも言っているかのように頭を垂れた。
ランディリックはそれに無言で頷きながらも、何か釈然としないものを感じてモヤモヤとした気持ちを募らせる。
城主として、城内の者たちを守るのは当然の勤めだ。
むしろ、自分の直ぐ目と鼻の先で有事が起こったというのに、初動が遅れて家臣に怪我を負わせたのは痛恨の極みだと言っても過言ではない。
だが、過程はどうあれ、あの獣を仕留めたのはほかでもない、ランディリックだった。
なのに、リリアンナはカイルの名のあとに、ついでのようにランディリックの名を告げた。それが引っかかってしまったと言ったら狭量だろうか。
リリアンナのことだから、純粋に助けに入った順で恩人の名を上げたに過ぎないとは頭で分かっていても、そんな些細な言い回しが気になってしまうのはきっと――。
――リリー嬢。
カイルがリリアンナのことをそう呼んだからだ。
(カイルはいつからリリアンナをあんな親し気な呼称で呼ぶようになった?)
リリアンナのことを〝リリー〟と呼ぶのは自分だけの特権だと思っていたランディリックとしては、まさに寝耳に水。
ランディリックは、サラリとカイルの口から出たその呼び方に、胸の奥がざらつくのを感じた。
きっとそれはリリアンナの方からカイルに申し出た呼称だろう。カイルは忠義ある実直な男だとランディリックもよく知っている。本人の許可なくそんな砕けた呼び方はしないはずだ。
だが、それでもリリアンナの愛称を、他の男の口から呼ばれるのを、どうしても受け入れられなかった。
そんなランディリックの視線に、ナディエルはいち早く気が付いた。
「リリアンナお嬢様、カイルのことは兵たちに任せてどうぞこちらへ……。お嬢様にはお召し替えが必要です」
声をかけると同時に、さりげなくリリアンナの腕を取ってカイルから引き離す。
リリアンナはまだ未練がましくカイルの方を見つめていたが、ナディエルの切実な声音に押され、ようやく数歩下がった。
***
医務室へと運ばれていくカイルを追いかけ、リリアンナも駆け出そうとする。
そんなリリアンナの腕を、ランディリックがすっと掴んだ。
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