第八話 逃げない町
鉱山町ローデンは、山の斜面へへばりつくように造られていた。
石を積んだ家々の間を細い坂道が走り、そのいちばん上に鉱山の入口がある。反対側は深い谷で、町から外へ出る道は東の一本だけだった。
その道を、魔王国軍が西から回り込もうとしている。
「明日の昼には、ここへ着くでしょう」
町の集会所で、ガレスは広げた地図の一点を指した。
椅子は足りず、住民の半分は壁際に立っている。
「百人を少し超える。町の守り手は?」
「三十四人です」
鉱山主の女が答えた。灰色の髪を後ろで束ね、腕はカイルほども太い。
「戦える鉱夫を入れれば、八十は」
「数に入れるな」
ガレスの声は冷たかった。
「つるはしを振れるのと、兵士と戦えるのは別だ」
「なら、町を捨てろと?」
「その話をするために集まった」
住民たちが一斉に話し始めた。
逃げるべきだという者。鉱山を渡せば生活がなくなるという者。老人や子どもを連れて、山道を歩けないという者。
声は次第に大きくなり、互いの言葉を押し潰した。
「静かに!」
カイルの一声で、集会所が黙った。
「我々の任務は魔王討伐だ。ここで明日まで戦えば、敵の本隊に位置を知られる。町を守り続けることはできない」
「討伐隊なのだろう!」
壁際の男が叫んだ。
「魔王を倒せる者が百人程度を恐れるのか!」
カイルは怒らなかった。
「倒せるかどうかと、戦うべきかは別だ。俺たちがここで消耗すれば、魔王を止める者がいなくなる」
正しい言葉だった。
だが、明日にも家を奪われる者へ、王国全体のためだと説いても簡単には届かない。
リタは地図を見た。
東の道。北の鉱山。南と西は谷と急斜面。
「鉱山の中、別の出口はないん?」
鉱山主が首を振った。
「古い通気坑が南の斜面近くまで伸びている。だが、十年前の落盤で塞がった」
「どのくらい?」
「掘り直すなら、早くて三日だ」
リタは立ち上がった。
「見せて」
通気坑は、人が二人並べるほどの狭い穴だった。
町の明かりが届かなくなるところから空気が淀み、奥には崩れた岩が積み上がっている。
リタは岩壁へ手を当てた。
土と岩の魔法は使える。だが得意ではない。崩れた場所をまとめて吹き飛ばせば、坑道そのものが落ちる可能性が高かった。
「上の地層、分かる人おる?」
「私が」
若い鉱夫が進み出た。
リタは彼から崩落の形と岩の種類を聞いた。ガレスは小さな穴へ煙を流し、向こうへ空気が抜けているのを確かめる。エレナは内部に溜まった毒気を浄化した。
「掘る場所はここです」
鉱夫が岩を三つ示した。
「ただ、真ん中を先に抜くと上が落ちます」
「ほいじゃ左右から支える。カイル、木ぃ組める?」
「鉱夫の指示があれば」
「ソラは岩運び」
「分かりました」
作業は日が落ちるまで続いた。
リタが岩の隙間へ水を染み込ませ、薄く凍らせて割る。細かくなった岩をソラと鉱夫たちが運び、カイルが崩れる前に支柱を入れる。ガレスは斜面側から出口を探し、エレナは町で避難の準備を手伝った。
何度目かの岩を割ったところで、天井から砂が落ちた。
「止まれ!」
鉱夫が叫ぶ。
全員が手を止めた。
支柱が低い音を立てている。
リタは咄嗟に杖を上げたが、岩を支え続けられるほどの力はない。何か一つ間違えれば、坑道ごと埋まる。
「右の根元を二寸、内側へ!」
鉱夫の指示が飛ぶ。
ソラが支柱へ肩を当てた。
カイルが木槌を振るい、根元をずらす。リタは天井の亀裂へ薄い土の膜を伸ばし、砂だけを止めた。
きしみが収まった。
誰もすぐには動かなかった。
やがて鉱夫が長く息を吐く。
「もう大丈夫です」
「寿命縮んだわ」
リタは杖を下ろした。
「さっき、魔王を倒す者が百人を恐れるのか言われとったけど、岩は怖いね」
「岩は脅しても退かないからな」
カイルが答える。
「魔王は脅したら退くん?」
「お前がやれば、呆れて退くかもしれない」
「それ採用」
「するな」
ソラが支柱から離れた。
服も髪も白い砂だらけになっている。
リタはその頭を見て、笑った。
「なんか急に老けたね」
「あなたもです」
ソラがリタの前髪へ触れた。
指で砂を一度払う。
触れられたのはほんの一瞬だった。
リタは笑ったまま、その手を目で追った。
「……先に自分の払いんさい」
「はい」
ソラは何事もなかったように、自分の髪へ手をやった。
作業を再開して一刻。
最後の岩の隙間から、夜の冷たい風が吹き込んだ。
外側で待っていたガレスが、穴の向こうから顔を出す。
「遅いぞ、大魔道士」
「誰が掘ったと思っとるん!」
「主に鉱夫とソラだな」
「魔法も使うたわ!」
通気坑は、どうにか人が通れる避難路になった。
集会所へ戻ると、住民たちは再び二つに分かれた。
子どもと老人を逃がし、残って町を守るという者。全員で避難するという者。決められずに家族と顔を見合わせる者。
鉱山主がリタへ尋ねた。
「あなたなら、どうする」
「うち?」
「大魔道士なのだろう」
冗談ではなかった。
この町の明日を決める答えを、女は本気で求めている。
「逃げろ言うても、あんたら全員が聞くとは思えんね」
「だから、あなたに命じてほしい」
リタは集会所を見渡した。
疲れた顔が並んでいる。
自分が一言命じれば、迷いを預けられる者もいるのだろう。結果が悪ければ、大魔道士の判断が間違っていたと言える。
「嫌じゃ」
「なぜだ」
「うちはあんたらの王様じゃないけえ」
リタは地図の上へ指を置いた。
「敵が来る時刻。逃げ道。残ったときに起きること。うちらが今できること。分かることは全部話す。じゃけど、家を捨てるか、命を懸けて残るかは、うちが代わりに決めることじゃない」
「間違えるかもしれない」
「そりゃ、うちが決めても同じよ」
鉱山主は黙った。
やがて椅子へ座り、隣にいた男へ話しかける。
住民たちも、今度は怒鳴らずに相談を始めた。
話し合いは夜半まで続いた。
リタたちは集会所の端へ退き、求められた情報だけを答えた。
「うちは残る」
若い鉱夫が言った。
坑道で地層を教えた男だった。向かいには、幼い子を抱いた妻がいる。
「荷を運び終えたら追う。東門を空けたままじゃ、逃げる前に入られる」
「その言葉を信じて、何度待てばいいの」
妻は泣いていなかった。
怒ってもいない。ただ、夫の答えを聞くまで動かない顔だった。
鉱夫がリタを見る。
「残るべきではないですか」
助言を求めているようで、実際には自分の答えを認めてほしいのだと分かった。
「うちがあんたの代わりに、奥さん待たせるん?」
「そういうつもりでは」
「なら、二人で話しんさい。守るもんの中に、町しか入っとらんように見えるよ」
鉱夫は妻へ向き直った。
今度は、敵が来るまでに運べる荷の量、東門へ残る人数、最後に坑道へ入る時刻を具体的に話し始めた。
夫婦が選んだのは、夜明けまで町へ残り、そのあとは二人で逃げることだった。
別の老人は、家族だけを逃がして自分は残ると言った。息子が怒鳴り、孫が泣き、最後には老人も一緒に行くことになった。
全員がきれいに納得したわけではない。
それでも、自分の言葉で決めた顔は、最初にリタへ命令を求めたときとは違っていた。
討伐隊は夜明け前に町を発った。
通気坑からは、まず子どもと老人が避難することになった。戦える者の一部は、家財を運び終えるまで東門へ残る。全員が同じ答えを選んだわけではない。
町を背に山道を下りながら、リタは何度も振り返った。
「心配ですか」
隣を歩くソラが尋ねる。
「するよ。うち、薄情に見える?」
「いいえ」
「ほいじゃ、聞かんで」
「心配していても、選ばせるんですね」
リタはソラを見た。
責めている声ではない。
「当たり前じゃろ。人の一生を、勝手に使うわけにいかん」
ソラは町へ目を戻した。
朝の薄い光の中で、坑道の出口から人々が列になって出てくるのが見える。
「そうですね」
短い返事だった。
けれどソラは、その景色を長いあいだ見ていた。




