第九話 斥候の仕事
ローデンを出た日の午後、五人は魔王国軍の監視線へ入った。
道に柵があるわけでも、国境を示す石が置かれているわけでもない。森も山も、それまでと同じように続いている。
違うのは、人の気配だった。
街道には新しい蹄の跡が増え、遠くの尾根では煙が上がっている。鳥はいるのに、獣の姿が少ない。ガレスに言われなければ、リタには見過ごす程度の違いだった。
「ここから馬は置いていく」
ガレスは森の中にある小さな狩猟小屋を見つけていた。
持ち主は避難したらしく、戸には三か月前の日付と、東の親族を頼るという書き置きがある。馬を囲いへ入れ、残っていた干し草と引き換えに、カイルが銀貨を包んで戸棚へ置いた。
「戻ってきますよね」
エレナが馬の鼻を撫でる。
「そのために、俺たちは歩く」
カイルは言った。
荷を背負い直し、五人はさらに南へ向かった。
「これからは、俺が歩けと言った場所だけを歩け」
ガレスが全員を見回す。
「声もなしだ。止まれは拳、伏せろは掌。指二本で左右に散る。三本なら隠れて待て。分からなくなったら、その場から動くな」
「質問」
リタが手を上げた。
「今せんといけん?」
「今しろ」
「喋ったらいけんのに、あんたはどうやって皮肉言うん?」
「お前を置いていけば言う必要がなくなる」
「喋っとるじゃん」
「今はまだいいんだ」
ガレスはソラへ目を向けた。
「お前は?」
「質問はありません」
「見習え」
「加入四日目に負けた気分はどうですか、リタ」
エレナまで加わった。
「もう喋らん。絶対喋らん」
その宣言から半刻もしないうちに、本当に言葉を使えなくなった。
ガレスの進む速さは遅い。
一本の枝を越える前に立ち止まり、土へ触れ、葉の裏を見る。誰もいない藪の前で長く待つこともあった。
リタには理由が分からない。
ただ、彼が進めば進み、止まれば止まった。
先ほど教わったとおり、ガレスが拳を上げる。
五人が止まる。
彼は道の脇にある若木を示した。樹皮へ浅い傷が一つ付いている。
自然に割れたようにしか見えない。
ガレスは指を三本立てた。
全員が散る。
リタは太い木の根元へ身を隠した。エレナがすぐ隣へ滑り込む。カイルは倒木の裏、ソラは道の反対側にある低い藪へ伏せた。
待つ。
風が葉を揺らす。
何も起きない。
リタの鼻先を、小さな羽虫が飛んだ。くしゃみが出そうになり、鼻をつまむ。
隣のエレナが真剣な顔でこちらを見ている。たぶん心配されているのではなく、絶対に音を出すなと念じられていた。
やがて、道の先から足音が聞こえた。
魔王国兵が六人。
濃い緑の外套を着て、二人には短い角がある。先頭の兵が若木の傷へ触れ、道の左右を見回した。
目印だったのだ。
兵たちはリタのすぐ前を通り過ぎた。
杖を上げれば倒せる距離だった。だが一人でも逃がせば警戒網が狭まり、倒した痕跡を見つけられても同じことになる。
息を潜める。
最後尾の兵が足を止めた。
顔を上げ、空気の匂いを嗅ぐ。犬に似た鼻と、尖った耳を持つ魔族だった。
一歩、林へ入る。
リタは魔力を練らないよう、杖を握った。
術を使う前のわずかな揺らぎでも、相手によっては気づく。
兵がもう一歩近づいた。
乾いた音が、道の反対側からした。
木の実が地面へ落ちた音だった。
兵が振り向く。
藪の中で、ソラが小石を握っている。
さらに遠くへ投げたらしい。
「何かいたか?」
仲間に呼ばれ、兵は道へ戻った。
六人の足音が聞こえなくなるまで、誰も動かなかった。
ガレスがようやく姿を見せる。
掌を下へ向け、安全だと合図した。
リタは鼻をつまんだまま立ち上がった。
「ぶはっ」
盛大なくしゃみが出た。
ガレスの目が冷たい。
「あとでよかったな」
「うちもそう思う」
「鼻から手を離す前に、少しは離れろ」
「我慢できんかったんよ」
ソラが藪から出てきた。
「音を出してよかったん?」
リタが尋ねる。
「こちらへ来るよりはよいと判断しました」
「外れていたら、あいつら全員が向こうへ行ったぞ」
ガレスが言う。
「その場合は、私も移動しました」
「一人で引きつけるつもりだったのか」
「はい」
あっさり答える。
リタは眉を寄せた。
「勝手に囮にならんで」
「戦うより発見されにくい方法です」
「そういう話じゃない」
「では、どういう話ですか」
言葉に詰まった。
まだ出会って四日だ。仲間になったばかりの男へ、どうして一人で危険を引き受けるなと言いたいのか、自分でもうまく説明できない。
「隊の判断に従う言うたじゃろ。囮になるなら、せめてガレスに合図してから」
代わりにそう言った。
ソラはガレスを見る。
「次からそうします」
「次があってほしくないがな」
再び進み始める。
ガレスは日が暮れるまで、監視の印を七つ見つけた。細工された枝、石の積み方、獣脂を塗った幹。ひとつとして同じ形ではない。
リタには、そのどれも見つけられなかった。
戦わずに抜けた距離を地図で見れば、昼までの半分にも満たない。それでも、百人を倒して進むより価値がある。
夜営地へ着き、ようやく声を出してよいと言われたとき、ソラがガレスへ尋ねた。
「若木の傷は、どこで不自然だと分かったんですか」
「高さだ。あの辺りを通る鹿の角より上にあった」
「兵が付けたと、なぜ?」
「切り口に鉄の粉が残ってた。斧でも剣でもない。王国の狩人は、あの形の小刀を使わない」
ソラは一つずつ覚えるように聞いていた。
「今日のを全部覚えようとするなよ」
ガレスが荷を下ろす。
「森が変われば印も変わる。覚えるなら、分からないときに止まることだけ覚えろ」
「分かりました」
少し離れたところで、リタは寝床を整えていた。
「座る前に、もう一仕事だ」
ガレスが全員を呼んだ。
夜営地の周囲には、五人が歩いた跡が残っている。折れた草、沈んだ土、枝へ擦れた荷の跡。
「追う側なら、ここで五人が休んだと分かる。明日の朝、出る前に消す。今から一人ずつ、この先二十歩を歩いて戻れ。自分の跡がどこに残るか見ろ」
「試験?」
リタが尋ねる。
「生きて帰る練習だ」
最初にカイルが歩いた。
重い鎧のぶん足跡は深いが、石を選び、草を踏まない。エレナは裾が枝へ触れた跡を自分で見つけた。
リタは風を足元へ流し、落ち葉を元へ戻そうとした。
「最悪だな」
ガレスが言った。
「なんで!」
「落ち葉の表だけが全部上を向いた。ここだけ不自然に掃除されてる」
「魔法で消した方が上等じゃろ」
「痕跡を別の痕跡に替えただけだ」
ソラは、往路で踏んだ自分の足跡へ復路の足を重ねた。
一見きれいに見えたが、ガレスは土を指す。
「同じ場所を二度踏めば深くなる。体重のある奴ほど分かりやすい」
「では、帰りはどこを歩けば?」
「自分で探せ」
ソラは道を見直し、今度は木の根と石だけを選んで戻った。
「それでいい」
「うちへの再試験は?」
「朝まで落ち葉を一枚ずつ裏返したいならやれ」
「教え方に差がない?」
「素直さの差だ」
リタは文句を言いながら、乱した落ち葉を手で戻した。
ソラが隣へしゃがみ、一緒に裏返す。
「あんたは合格したじゃろ」
「私の足跡も残っています」
二人で作業していると、ガレスが小さく息を吐いた。
「全部消す必要はない。動物か一人旅に見せればいい。五人組だと悟らせるな」
手本として枝を引き、足跡の半分だけを崩す。
リタの魔法より、ずっと少ない動きだった。
派手さはない。
だが、こういう仕事の積み重ねで、彼は国境を十年以上生きてきたのだ。
足りないものを自分一人で埋めようとしない。
ソラが師匠から教わったという言葉を思い出す。
少なくとも、今日の大魔道士は斥候の後ろを黙って歩いただけだった。
それで全員が無傷なのだから、上出来だった。




