第六話 薄い膜
ソラが加わって三日目、五人は街道を外れた。
西の宿場から先は、魔王国軍が使う補給路と重なる。まともに進めば見張りへ突き当たるため、南へ大きく迂回し、干上がった川沿いの旧道を通ることになった。
かつては荷車も走った道らしい。
今は両側から葦が伸び、崩れた石積みの間へ泥が溜まっている。川底に残った水は細く濁り、虫の羽音が絶えなかった。
「先に言うとくけど、うちは虫を焼かんよ」
リタは顔の周りを飛ぶ小虫を手で払った。
「まだ誰も頼んでいない」
カイルが答える。
「その顔は頼もうとしとった」
「どんな顔だ」
「幼馴染に甘える顔」
「見たことがないな」
「うちもない」
「では、なぜ分かる」
「分からんけえ先に断ったんよ」
後ろでエレナが小さく笑った。
ソラは笑っていなかった。冗談が分からないのではなく、足元を見ている。
葦の影、石の割れ目、浅い水溜まり。ガレスが注意を向けた場所を、少し遅れて確かめていた。
「昨日より斥候らしくなったじゃん」
「見方を教わりました」
「一日で?」
「見えるようにはなりました。何を意味するかは、まだ分かりません」
答えを聞いたガレスが、先頭から振り向く。
「結構。分からないものを分かった気になる奴より、ずっと長生きする」
「あんた、うちによう『たぶん大丈夫』って言うじゃん」
「だからまだ生きてるんだろ」
理屈になっているような、いないような返事だった。
旧道へ入って一刻ほどで、ガレスが足を止めた。
左手の崖が崩れ、道の半分を塞いでいる。そこだけ葦が妙に少なかった。
「馬を下げろ」
声が低い。
カイルとソラが前へ出ず、まず馬を後ろへ送った。リタは杖を抜き、エレナは胸元の聖印へ手を添える。
ガレスが地面へ膝をついた。
泥の上に薄く砂をまき、息を吹く。砂の一部だけが、不自然に空中へ留まった。
「魔法罠だ。糸が張ってある」
目を凝らすと、確かに崖から道の反対側へ、髪より細い光が渡っている。
リタは少し離れた場所から魔力を探った。
「爆発じゃないね。印を付ける方かも」
「通った者を追うための術でしょうか」
エレナが尋ねる。
「たぶんね。切ったら起動する型もあるけえ、触らん方がええ」
「回り道は?」
カイルに聞かれ、ガレスは崖と川を見比べた。
「馬を置くならある。連れていくなら、ここを抜ける方が早い」
「解除できる?」
リタが尋ねる。
「仕組みはお前の領分だ」
「見つけたんはあんたじゃろ」
「だから半分ずつ働け」
リタは罠の前へしゃがみ込んだ。
術式は崖の内側へ埋められている。土を無理に掘れば崩れるし、魔力で糸を切れば何が起こるか分からない。
専門の解除術師なら、もっときれいにほどくのだろう。
リタにできるのは、術式そのものを解くことではなかった。
「エレナ。この手の追跡印、付いたあと浄化できる?」
「強さによります。起動を弱めていただけるなら」
「ガレス、糸に触れず通れる幅は?」
「人ひとり。荷は外せ。馬は無理だ」
「ほいじゃ、馬だけ遠回り。カイルとガレスで連れてって。うちら三人はここを抜ける」
カイルが眉を寄せた。
「術を踏む前提か」
「起動する魔力をうちが散らす。印が残ったらエレナが消す。壊すよりましよ」
「危険は?」
「ちょっと光るか、すごい光るか」
「説明になっていない」
「爆発はせん。そこは大丈夫」
カイルはまだ納得していない顔だったが、他に早い手もない。
三人が荷を減らしている間に、ガレスは人が通れる位置へ石を並べた。カイルが馬を率い、川下へ向かう。
最初にリタが通った。
杖の先から細い風を送り、魔法の糸の周囲へまとわりつかせる。糸を動かさず、術式へ流れる魔力だけを横へ逃がすためだ。
一歩。
足首に淡い光が絡んだ。
「光ったじゃないですか」
後ろでエレナが言う。
「ちょっとの方じゃ」
「その分類は信用してよいのでしょうか」
「大魔道士を信じんさい」
「それを言われると不安になります」
風を保ったまま、リタは向こう側へ抜けた。
エレナが続く。足元へ光がまとわりついたが、聖印から広げた浄化の光で、すぐに消した。
最後はソラだった。
大きな身体を横へ向け、ガレスの置いた石を踏んでくる。肩が魔法の糸をかすめそうになり、リタは思わず手を伸ばした。
「もうちょい、こっち」
ソラの腕をつかんで引く。
その瞬間、指先が妙なものへ触れた。
布でも肌でもない。
ごく薄い魔力が、ソラの全身へぴたりと張りついている。
結界に似ているのに、外からの力を防ぐ形ではない。流れ続けているのに、どこへも放たれない。見たことのない術だった。
リタが目を上げる。
「あんた、何か魔法まとっとる?」
ソラは糸の下で止まった。
「はい」
「なんの?」
「旅を続けるためのものです」
分かるような、分からないような答えだった。
「自分でかけたん?」
「はい」
「解除できる?」
「できません」
リタの手に、わずかに力が入る。
「呪いではありません」
ソラは落ち着いて続けた。
「私に害を与えるものでもない。今は、それ以上うまく説明できません」
嘘をついているようには見えなかった。
話せないのではなく、本当に説明する言葉を選べない顔だった。
「リタ、止めたままの方が危険です」
エレナに言われ、我に返る。
「あ、ごめん。あと一歩」
ソラの腕を引き、罠の向こうへ通した。
彼の身体が糸を越えた瞬間、淡い追跡の光が膨らんだ。だが足や服へ付く前に、あの薄い膜の表面を滑り落ちる。
地面へ落ちた光を、エレナが浄化した。
「便利な魔法ですね」
「そうでもありません」
ソラの返答は短かった。
やがて川下から、馬の蹄の音が近づいてきた。
迂回した二人と合流し、リタは罠のことを説明した。ガレスはソラの周りへ追跡印が付いていないことを確かめたが、魔力の膜については何も聞かなかった。
カイルも同じだった。
旅の仲間だからといって、何もかも話させる権利が生まれるわけではない。
昼を過ぎたところで、旧道の脇に残る石樋を見つけた。
崖から染み出した水が細く流れている。ガレスが毒の有無を確かめ、全員が水筒を満たした。
ソラだけが、少し離れた石へ腰を下ろした。
朝から馬と同じ速さで歩き、重い荷も持っている。これまでは休息のたび立ったまま周囲を見ていた男が、自分から座るのは初めてだった。
「疲れた?」
リタが水筒を持って近づく。
「いいえ」
「今座ったじゃん」
「座る必要がありました」
「それを疲れた言うんよ」
ソラは否定しなかった。
薄い魔力の膜は、変わらず身体を覆っている。流れが途切れてはいないが、罠を越えた直後よりわずかに速い。
リタは隣へ座った。
「事情話せとは言わん。でも、歩けんとか戦えんとか、そういうのは言うて」
「歩けます。戦えます」
「今じゃなくて、できんようになったとき」
「その場合、私を置いて進んでください」
あまりに迷いなく言うから、リタは水筒を押しつけた。
「嫌じゃ」
「任務が優先です」
「五人でどうするかは、五人で決める。勝手に置いてけ言わんで」
「なぜですか」
「仲間にしたけえ」
ソラは受け取った水筒を見た。
「昨日、加入したばかりです」
「日数で決まるん?」
「分かりません」
「ほいじゃ、うちが今決めた」
ソラは水を一口飲んだ。
「分かりました」
どこまで分かったのか怪しかった。
それでも水筒を返す手からは、先ほどまでの硬さが少し抜けていた。
再び歩き始めたあと、リタは何度かソラを見た。
薄い膜は、意識して探らなければ分からないほど静かだった。
旅を続けるための魔法。
それがなければ、彼はどこへも行けないのだろうか。
尋ねたかったが、今度は口へ出さなかった。




