第四十四話 生まれた場所
旅は十二日かかった。
三年前は、追われるように進んだ道だった。
魔王国の軍はレグナ王国の領土へ入り、村を焼き、砦を奪っていた。街道には避難民があふれ、宿の窓にも板が打ちつけられていた。
今は、荷車が両方の国へ向かって走っている。
人間の商人が魔王国の織物を積み、角のある魔族が王国の農具を運ぶ。
すれ違う者が全員、友好的なわけではない。
互いの顔を見て唾を吐く者もいる。
それでも、剣を抜かずに同じ道を通り過ぎる。
一日目の夜、ベルカに泊まった。
三年前、魔王国の兵に襲われ、ソラが初めて一行へ加勢した町だった。
焼けた家は建て直されている。
広場の井戸には新しい屋根が付き、その柱へ五人の名を刻んだ板があった。
リタ。
カイル。
エレナ。
ガレス。
ソラ。
最後の名だけ、家名も出身地もない。
「大魔道士様?」
背後から呼ばれた。
宿の女主人だった。
三年前、地下室へ子どもたちを隠していた女だ。
「久しぶり。元気じゃった?」
「それはこちらの台詞ですよ。お一人ですか」
「うん」
女主人は五人目を探すように、街道を見た。
「青い目の剣士さんは」
「遠いとこ」
死んだとは言わなかった。
死んでいないと言う根拠もない。
「そうですか」
女主人はそれ以上聞かなかった。
夕食に、豆と魚の煮物が出た。
香草は多い。
リタの好みだった。
「これ、西海岸の料理じゃろ」
「ええ。戦後に流れてきた料理人から教わりました」
同じ料理を、ソラは未来の自分と作った。
リタ自身には、その記憶がない。
彼が話してくれたのは、名前をもらい、魔法と剣を習ったところまでだった。何を食べ、何を好きになったのか、すべてを聞く時間はなかった。
香草を少なくした方が好きだったことも、リタは知らない。
知っているはずのないことを、なぜか失ったように感じた。
「塩、もうちょい欲しいね」
女主人へ頼む。
自分の好きな味にして食べた。
未来の自分と同じ人間になる必要はない。
ソラが好きになったのは、傷を負った自分だけではなかった。
元気で、よく笑い、格好をつける若いリタを、彼は別の人間として見ていた。
そのことを、決戦前夜に知った。
短い時間だった。
短いから嘘になるわけではない。
翌朝、井戸の板へ触れた。
ソラの名は、三年の雨にも消えていなかった。
二日目は雨だった。
以前なら避けた王国の関所に、両国の旗が並んでいる。
王国兵と、灰色の角を持つ魔族の兵が同じ屋根の下で通行証を調べていた。
「氏名と目的を」
若い王国兵が尋ねる。
「大魔道士リタ。献花」
「大魔道士?」
隣の魔族兵が、壁の手配書を指した。
戦時中に使われた古い似顔絵が、記念として額へ入れられている。
自分に似ていない。
「これ、うち?」
「赤い髪の魔法使いは一人しかいなかったと聞いている」
「もっと美人じゃったよ」
「本人が言うことではない」
魔族兵は真面目な顔で返した。
ソラのようだと思った。
笑いそうになり、少しだけ胸が痛んだ。
「魔王城へ行くなら、北の橋を使え」
「あそこ、谷で落ちとらんかった?」
「去年かけ直した。王国の木と、こちらの石でな」
通行証へ印が押された。
橋は、三年前に五人が縄で渡った谷へ架かっていた。
まだ新しい石柱の上を、荷馬車が二台並んで通れる。
下を見れば、白い川が細く見えた。
三年前、ソラは後ろからリタの身体を支えた。
触れ方が妙に慣れていて、腹が立った。
未来の自分を何度も支えた手だったと、あとで知った。
「若いうちは、自分で渡れるっちゅうの」
今さら言う。
橋の中央で、補修をしている者たちがいた。
人間と魔族が一緒に石を運んでいる。
リタは馬を降り、欠けた欄干を持ち上げるのを手伝った。
土で下を支え、風で綱を引く。
石工ほど上手く積めない。
力自慢の魔族ほど重い物も持てない。
それでも、二つの作業の間をつなぐことはできた。
「旅人にさせる仕事じゃない」
人間の石工が言う。
「大魔道士に頼んだら高いよ」
「自分から手を出したんだろう」
魔族の石工が笑った。
昼食に、焼いた芋を一本もらった。
橋の上で食べる。
谷を越えるためだけに半日を使った旅が、今は馬なら数分で終わる。
世界は、ソラがいなくても先へ進んでいた。
正確には、彼がいたから進める世界になった。
五日目、山際の村へ着いた。
三年前、魔王国の兵から逃れた魔族の家族が、一行を納屋へ泊めた村だった。
人間を嫌う者もいた。
魔王へ従わなかったことで、戦後に裏切り者と呼ばれた者もいた。
今は村の入口に、両国の商人へ宿を貸す看板がある。
「赤い魔法使い!」
畑から、大きな角の女が走ってきた。
リタの肩を両腕で掴む。
「生きていたか!」
「そっちもね。子どもは?」
「あれだ」
三年前に母親の後ろへ隠れていた少年が、畑で鍬を振っている。
角が少し伸び、背も高くなった。
リタを見ると、照れたように頭を下げた。
「あの青いのは?」
女が尋ねる。
「青いの?」
「目が青くて、笑わない男。うちの子に剣の握り方を教えていた」
リタの知らないソラだった。
この村へいたのは一晩だけだ。
その間にも、彼は誰かの記憶に残ることをしていた。
「今はおらんよ」
「死んだか」
魔族の女は、言葉を濁さなかった。
「分からん」
リタも濁さず答えた。
「そうか」
女はリタの肩から手を離した。
「なら、帰ってきたら連れてこい。あの子の剣は、三年経ってもひどい」
「ソラが教えて、ひどいん?」
「一晩で上手くなるか」
「そりゃそうじゃ」
その夜は、同じ納屋へ泊まった。
以前より藁が新しく、屋根の穴も塞がっている。
家の中へ泊めると言われたが、リタがこちらを選んだ。
一人で寝ると、納屋は広かった。
三年前は、カイルが入口にいた。
ガレスは梁の上。
エレナは一番奥で、負傷した村人の手当てをしていた。
ソラはリタの近くへ座り、未来の師匠の話をした。
自慢するくせに、肝心なことは言わなかった。
名前をくれた。
魔法を教えた。
生き方を教えた。
その師匠が、リタだとは言わなかった。
言えば、過去を変える危険があると考えたのだろう。
それとも、若いリタへ背負わせたくなかったのかもしれない。
「どっちもありそうじゃね」
暗い納屋へ言う。
答える者はいない。
毛布を頭までかぶる。
一人旅の夜は、何度経験しても一人だった。
それを不幸だとは思わない。
一人で行くと、自分で選んだ。
ただ、選んだ寂しさなら消えるわけではなかった。
九日目、ローデンへ入った。
三年前に抜けた通気坑は、正式な南門へ変わっている。
坑道を案内した鉱夫が、今は門番をしていた。
「正門から入ってくるとは、偉くなったな」
「元から偉いよ。大魔道士じゃけえ」
「あのときは炭まみれだったぞ」
「今日は泥まみれ」
橋で手伝ったときの汚れが、外套へ残っている。
門番は笑い、通行証を返した。
町の酒場は、戦時中より混んでいた。
鉱夫だけでなく、魔王城の撤去作業へ向かう職人がいる。
リタは隅の卓へ座った。
注文したのは酒ではなく、温かいスープだった。
隣の卓で、若い剣士たちが王国剣技の型について話している。
一人が、右足を深く置きすぎると仲間に笑われていた。
ソラの剣にも、似た癖があった。
未来のカイルから習った剣。
今のカイルは、旅の途中でそれを見抜いた。
二人は同じ人間ではない。
それでも、同じように右足を直したのだろう。
リタはスープを飲んだ。
「それ、置きすぎよ」
思わず口を出す。
若い剣士が振り返った。
「魔法使いに何が分かる」
「王国式は盾で列作るじゃろ。足置きすぎたら、戻るん遅れる」
「剣も使うのか」
「使わんよ」
「なら黙ってろ」
素直ではない。
ソラなら理由を尋ね、次の一歩で直そうとする。
「うちの知り合いの方が、あんたより上手かったけえね」
「なら連れてこい」
「連れてこれたら、そうするわ」
強い声になった。
剣士は何か言い返しかけ、やめた。
リタは残りのスープを飲み、代金を置いた。
店を出る。
喧嘩をするために旅をしているのではない。
それでも、ソラの剣を知らない者に馬鹿にされたようで腹が立った。
「本人もまだ完成しとらん言うとったけどね」
外へ出てから付け足す。
十一日目、かつての魔王国領へ入った。
黒い城壁は、一部を残して取り壊されている。
城下には新しい役所と家が建ち、市場には王国の言葉と魔族の言葉が混ざっていた。
魔王は国そのものではなかった。
侵略を望んだ王と、その軍が倒れたあとにも、そこで暮らす人々は残った。
新しい統治評議会の役所で、魔王城跡へ入る許可を求めた。
窓口の役人は、赤い皮膚と短い角を持つ若い男だった。
「中央塔の上層は危険です」
「三年前に壊したん、うちらじゃけえ知っとる」
「壊した本人へ言っています」
「案内は要らんよ」
「規則です。入口までは同行します」
「中まで来る?」
「希望があれば」
「ない」
「では、崩落のない階までです」
翌朝、役人と二人の作業員が城跡まで来た。
外壁の手前で馬を預ける。
中央塔の入口には、立入記録を書く帳面があった。
名前と目的を書く。
大魔道士リタ。
故人への献花。
「故人の名は」
役人が尋ねる。
「ソラ」
「家名は」
「ない」
「出身地」
「ここ」
役人の筆が止まる。
「城内で生まれたのですか」
「たぶんね」
「たぶん?」
「書類、そんくらいでええじゃろ」
役人は納得していなかったが、故人欄へソラとだけ書いた。
中央塔を上る。
三年前の広間は、空が見える場所になっていた。
玉座はない。
床の焦げ跡も薄くなっている。
作業員が安全な範囲へ白い線を引いていた。
「夕刻までに戻ってください」
役人が言う。
「戻らんかったら?」
「捜索隊を入れます」
「分かった」
「あなたの分かったは、信用できますか」
リタは役人を見た。
「誰かに習うた?」
「何をですか」
「なんでもない」
三人が階段を下りる。
広間には、リタ一人が残った。
鞄から、青い野花を一輪出した。
王都の外で摘み、押し花にして持ってきた。
空と同じ色。
彼の瞳と同じ色。
「来たよ」
花を置く。
「三年もかかってしもうた」
最初の年は、ここへ来れば消えたことを認めるようで嫌だった。
二年目は、仕事を理由にした。
三年目になって、ようやく、いない場所へ会いに来てもよいと思えた。
床へ座る。
旅のあいだに見たものを話した。
ベルカの井戸に、名前が残っていたこと。
谷へ橋が架かったこと。
魔族の少年が、まだ剣を振っていること。
ローデンで、王国剣技の若者へ喧嘩を売りかけたこと。
「うち、三年経っても変わらんね」
返事はない。
「エレナとカイル、仲ええよ。喧嘩もするけど」
風が花を動かした。
「ガレスは、相変わらず字ぃ書かん。あんたがおったら、代わりに報告書作らされとるよ」
笑う。
声が広い空間へ消える。
「うちは元気。ほんまに。魔力もあるし、どこも痛うない」
一番伝えたかったことだった。
ソラは、そのために来た。
傷だらけの自分が死ぬ未来から、若い自分を救った。
「ちゃんと生きとるよ」
目の奥が熱くなる。
「じゃけえ、あんたも生きとったらええのにね」
泣くつもりはなかった。
献花をして帰るだけのつもりだった。
涙を拭く。
立ち上がる。
そのとき、足元の奥から、ごく小さな魔力を感じた。
一度。
間を置いて、もう一度。
生き物の鼓動に似た、規則正しい波だった。
リタは動かなかった。
涙のあとの錯覚かもしれない。
魔王城の古い魔石が動いているだけかもしれない。
床へ掌を置く。
三度目の波が来た。
魔力そのものは、微かだった。
その外側に、別の流れがある。
薄い膜のような、時間魔法。
三年前、ソラの身体を覆っていた魔法と似ていた。
「なんで」
答えは出ない。
杖を取る。
床へ風を流し、地下へ続く空洞を探した。
階段は埋まっている。
崩れた床の端に、狭い隙間があった。
夕刻までに戻ると約束した。
捜索隊を入れれば、地下の何かを壊すかもしれない。
リタは鞄から紙を出した。
――地下の魔力を確認する。日没までに戻らなければ、白線の北側にある隙間から入ること。
入口へ固定する。
今度は、誰にも知らせず消えなかった。
土を少しずつ退け、人が通れる幅へ広げる。
光を一つ浮かべ、暗い廊下へ下りた。
魔力の鼓動が近くなる。
ソラから聞いたのは、戦場で空の器を見つけたというところまでだった。
どの階段を下り、どの扉を開けたかまでは知らない。
地下は何度も分かれている。
左の道は崩落。
右には、魔力を吸う古い罠が残っていた。
専門の解除術師なら、術式を止めただろう。
リタにはできない。
壁から石を一つ抜き、罠の中央へ投げた。
石にまとわせた少量の魔力を、罠が吸う。
起動している場所だけが淡く光った。
光らなかった床を選び、一歩ずつ通る。
次の扉には、古い魔族文字が刻まれていた。
読めるのは半分だけだった。
生体。
移送。
保管。
「嫌な言葉ばっかりじゃね」
扉を開く。
奥へ進む。
魔力の波は、もう足元ではなく正面から来ていた。
廊下の最奥に、白い扉がある。
扉の前で、光が揺れた。
リタの制御が乱れたのではない。
向こう側から流れる時間魔法に触れたのだ。
「そこに、おるん?」
誰へ尋ねたのか、自分でも分からなかった。
白い扉へ手をかけた。




