最終話 ただいま
白い扉には、複雑な術式が刻まれていた。
リタが読めるのは、外側だけだった。
魂。
肉体。
受容。
魔王国の古い文字と魔法記号が混ざり、中心は見たことのない構造になっている。
三年前なら、一つも分からなかった。
ソラが真相を話したあと、魂と肉体の移送について調べた。
彼を戻す方法があると思ったわけではない。
最後に何が起きたのか、分からないままにしておけなかっただけだ。
三年を使っても、専門家にはなれなかった。
扉の術式が何を受け入れ、何を中へ残したのかは読めない。
「うち、こういうとこが大魔道士じゃないんよね」
自分で言う。
ソラなら、否定するだろうか。
それとも、事実ですと答えるだろうか。
扉の隙間から、時間魔法の薄い流れが出ている。
旅のあいだ、彼の身体を包んでいたものと似ている。
同じだと断言はできない。
時間魔法そのものが、リタには専門外だった。
扉へ手を置く。
罠の気配はない。
「開けるよ」
誰へともなく告げた。
重い扉を、土の魔法で下から支える。
風を蝶番へ通し、錆と砂を飛ばす。
火で金属をわずかに温める。
一つだけでは、錆びた扉は動かなかった。
三つを使い、壊さず動かした。
細い隙間ができる。
冷たい空気が流れ出た。
「大魔道士も、捨てたもんじゃないね」
もう一度力を加える。
人が通れる幅まで開いた。
円形の部屋だった。
壁沿いに、魔石が並んでいる。
半分以上は光を失い、残ったものも弱く明滅していた。
中央に、白い石で作られた槽がある。
蓋は閉じていた。
魔力の鼓動は、その中から来ている。
一歩、入る。
時間魔法の膜が、肌を撫でた。
魔王戦のあと、ソラの輪郭が消え始めたときと似ていた。
同じではない。
あの夜は、彼を過去へ固定していた魔法が崩れていた。
今ここにあるものは、槽の内側へ何かを留めている。
「なんなん、これ」
期待してはいけない。
リタは自分へ言い聞かせた。
この場所には、元から空の器がある。
未来の自分は、それを見つけた。
同じ身体が残っていても、不思議ではない。
中にいるのは、名前を持たない存在かもしれない。
ソラの顔をしていても、ソラではないかもしれない。
それでも、足は槽へ向かった。
蓋の表面には、透き通った箇所がある。
埃を袖で拭く。
黒い髪が見えた。
閉じた瞼。
高い鼻梁。
薄く結ばれた唇。
リタの膝から力が抜けた。
槽へ両手をつく。
「ソラ」
返事はない。
呼吸も、蓋越しには分からない。
三年前の姿と同じだった。
魔王戦で負った傷はない。
砦で切った頬も、決戦で焼けた腕も、何一つ残っていない。
だから、身体だけなら空の器と区別できない。
「ソラ」
もう一度呼ぶ。
瞼は動かない。
リタは蓋を押した。
動かない。
縁に、封印の術式がある。
壊せば開く。
けれど、内側を保っている時間魔法まで壊れる可能性があった。
「こういうのは、専門家呼ぶとこじゃろ」
自分へ言う。
入口へ戻り、役人を呼ぶ。
王都へ知らせ、魂の魔法使いを連れてくる。
それが正しい。
日没までには、まだ時間がある。
リタは槽から離れた。
三歩、扉へ向かう。
背後で、魔石が一つ消えた。
振り返る。
消えた魔石から、最後の光が細い溝を走った。
槽の縁を巡り、時間魔法の膜へ入る。
膜は弱くならなかった。
一度だけ大きく脈打ち、青年の身体へ近づいた。
残った魔石は七つ。
床下から感じた鼓動も、少し強くなっていた。
少なくとも、ただ尽きて消えようとしている流れではない。
今、何かが次の段階へ移ろうとしている。
「目ぇ覚ます準備なん?」
返事はない。
専門家を呼んでも、この変化を止めずに調べられるとは限らない。
何より、魔王の器を見つけたと報告すれば、目の前の青年は国の管理物になる。
未来の自分が、空のソラを自分で保護した理由を思い出す。
「蓋だけ開ける。変わったら、すぐ止めるけえ」
封印を正面から壊さず、支えている場所を探す。
風を、蓋の縁へ流した。
術式の凹凸をなぞる。
土の系統で、石の厚さを測る。
水を薄く広げ、熱の違いを見る。
分かったことを、一つずつ紙へ書いた。
風では、表面の溝までしか読めない。
土では、石の内部をぼんやりとしか捉えられない。
水が映す熱の差も、細かな数字にはならなかった。
それでも、三つの結果を並べれば、封印が四か所で蓋を留めていることは分かった。
一か所を外せば、ほかの三か所へ負荷がかかる。
同時に外す必要がある。
「一人で四つは、専門外なんじゃけど」
リタは四つの封印と、自分の二つの手を見比べた。
一つ目へ氷の楔を作る。
二つ目へ、土の支えを置く。
三つ目には、引けば外れる風の輪を掛ける。
どれも、作ったあと手を離せる形にした。
最後の一つだけ、自分の手で動かす。
準備に一刻かかった。
途中で、魔石がまた一つ消えた。
六つ。
最初と同じように、光が膜へ移った。
鼓動が、また強くなる。
「急いどるんは、そっちなん?」
額の汗を拭う。
氷の温度を確かめる。
土が崩れていないか見る。
風の輪へつないだ糸を、左手へ巻く。
右手で最後の封印へ杖を当てた。
「三、二、一」
氷を割る。
土を落とす。
風の糸を引く。
最後の留め具を火で膨張させる。
四つの封印が外れた。
蓋が一寸だけ浮く。
中から出た冷気に、時間魔法が混じっていた。
リタはすぐに魔法を止めた。
蓋を両手で押し上げる。
重い。
土の魔法を使えば楽になる。
だが、時間の膜へ余計な魔力を触れさせたくなかった。
肩を入れ、自分の力でずらした。
腕が震える。
健康な身体だった。
三年前の戦いを越え、傷を負わずに生きている身体。
ソラが残したものだった。
「このくらい、やるわ」
誰に言うでもなく呟く。
蓋が床へ落ちた。
大きな音が響く。
槽の中に、青年が横たわっている。
リタはすぐに手首へ触れた。
温かい。
脈がある。
遅いが、一定だった。
呼吸もしている。
「生きとる」
言った途端、涙が落ちた。
ソラかどうかは分からない。
それでも、目の前の人間は生きている。
空の器を見つけた未来の自分も、最初は同じことを思ったのだろうか。
殺す意味がない。
渡せば殺されるかもしれない。
悪用されるかもしれない。
だから、自分で保護した。
今なら、その選択がよく分かった。
リタは青年の頬へ触れた。
「聞こえる?」
反応はない。
瞼を開けない。
手を握っても、握り返さない。
身体を満たす魔力は、魔王戦で知ったものと似ていた。
膨大で、深い。
その内側へ意識を伸ばそうとして、やめた。
他人の魔力回路へ入るのは危険だった。
回復も、魂も、リタの専門ではない。
生きていることしか分からない。
同じ顔をしていることしか分からない。
「空っぽなん?」
問いかける。
「それとも、あんたがおるん?」
答えはない。
時間魔法の膜は、槽の蓋を開けたあとも身体の表面へ残っている。
触れれば、指先が水の中へ入ったように遅れた。
ソラが過去にいたとき、身体の外側にあったもの。
魔王戦のあと、消えながら彼は言った。
帰る力まで使った。
固定する魔力も、もうない。
この世界には残れない。
最後に何をしたかは、話さなかった。
話す時間もなかった。
青い光だけが残り、すぐに消えた。
その光がここへ来たのかもしれない。
まったく別の仕組みかもしれない。
リタには判断できなかった。
魔石がもう一つ消えた。
五つ。
時間の膜が、青年の身体へ近づく。
外へほどけた光は一筋もない。
すべてが皮膚の下へ吸い込まれ、脈が一度、強く打った。
「戻りよるん?」
リタは青年の手を両手で包んだ。
「空っぽでもええけえ」
言ってから、首を振る。
よくない。
ソラに帰ってきてほしい。
同じ顔の別人を、代わりにしたいわけではない。
空の存在なら、それはそれで、一人の別の人間として保護する。
ソラの名前を押しつけない。
未来の自分と同じように、その者自身が選べるようにする。
けれど、今ほしい答えは一つだった。
「あんたがええ」
声が震えた。
「うちは、ソラがええ」
返事はない。
壁際へ座り、槽の青年を見た。
日没までには戻れない。
入口へ残した紙を見れば、捜索隊が来る。
リタは、時間の膜へ指先を近づけた。
触れる直前で止める。
魔石が消えるたび、呼吸と脈は安定している。
自分の魔力を足せば、かえって流れを乱すかもしれない。
残った魔石を数える。
五つ。
鼓動に合わせて明滅している。
リタは待つことを選んだ。
一刻後、遠くで声がした。
役人たちが、残した紙を見つけたらしい。
リタは廊下へ出た。
罠の場所を声で伝え、白い扉の手前で待つよう頼んだ。
「中に何があるのですか!」
「人がおる!」
「救助が必要ですか!」
青年を見る。
呼吸は続いている。
「今は、待って!」
「一人で大丈夫ですか!」
「大丈夫!」
「信用できますか!」
「今日は信用して!」
役人は何か言ったが、扉の向こうへは来なかった。
最奥の部屋には、リタと青年だけが残った。
夜になった。
地下には、外の明るさが届かない。
時間は、魔石が消える間隔でしか分からなかった。
五つはまだ残っている。
リタは携行食を食べた。
乾燥果実を一つ取り、青年の横へ置く。
「甘いの、好きじゃったろ」
未来で好みを覚えたのか、最初から身体が好んだのかは知らない。
「起きたら食べんさい。今食べたら、カイルみたいに怒るけえね」
笑う。
自分の声しかない部屋では、笑いも長く続かなかった。
青年の手を握る。
温度は変わらない。
「みんな、生きとるよ」
魔王戦のあと、消えかけたソラへ何度も言った。
今も同じことを話す。
「エレナは、あんたが守った。ガレスも。カイルもうちも」
「エレナとカイル、結婚したよ。未来のあんた、知っとったんかな。二人、昔から好き合うとったんじゃろ」
「ガレスは、国境で人を帰しよる。あんたがおらんかったら、帰す側におらんかった」
「うちは、先生しよるよ。大魔道士じゃけえ」
一つずつ、ソラが作った先を話した。
「あんたのしたこと、消えとらんよ」
元の世界では、エレナとガレスの墓が残る。
傷だらけのリタの墓も残る。
カイルは、ソラの帰りを待っている。
この世界が生まれても、あちらの悲しみは何も減らない。
ソラはそれを知って、それでも来た。
こちらで生きる四人の時間は、彼が無かったことにできなかった死と、並んで存在している。
「あんた、帰るつもりじゃったよね」
リタは手の甲を撫でた。
「あっちのカイル、待っとるもんね」
帰還の力を使い切ったあと、ソラは戻れないと言った。
なら、この身体へ魂を移せたとしても、元の世界へは帰れない。
ここで目を覚ませば、待っているカイルへ、二度とただいまと言えない。
リタが喜んでよいのか、分からなかった。
「うちが、おってええんかな」
答えはない。
それでも、手を離さなかった。
未来の自分は、何も持たないソラへ名前を与えた。
言葉を教えた。
食べるものを選ばせた。
帰る家を作った。
若い自分は、その一年を知らない。
ソラの師匠にはなれない。
なる必要もなかった。
彼が若いリタを選んだ夜、二人は師弟ではなかった。
一人の男と、一人の女だった。
「うちは、あんたの師匠じゃないよ」
決戦前夜にも言った。
ソラは、知っていますと答えた。
「じゃけえ、帰ってきたら、ちゃんとうちのこと好きになり直しんさい」
勝手な言葉だった。
同じ魂でも、同じ気持ちのまま目覚める保証はない。
過去へ固定する魔力を失い、魂だけを器へ移すようなことをしたなら、何が残るか分からない。
記憶を失っているかもしれない。
未来で育った感情だけが消えているかもしれない。
それでも、空の器へ新しいソラを重ねるよりは、目の前の相手へ尋ねたかった。
「嫌じゃったら、断ってええけえ」
自分の人生は自分で選ぶ。
未来のリタが最初に教えたことだった。
リタも、その選択を奪わない。
魔石が一つ消えた。
四つ。
時間の膜が、胸と額へ吸い込まれる。
青年の指先に、先ほどより熱があった。
呼吸も、少しだけ深くなっている。
魔石は生命を削って消えているのではない。
役目を終えた力を、一つずつ身体へ返している。
リタには仕組みまでは読めない。
けれど、消えるたび青年が生きる側へ近づいていることは、握った手から分かった。
三つ。
二つ。
一つ消えるたび、脈は強くなった。
リタは、そのたび指で確かめた。
最後の一つだけが残る。
青白い光が、青年の横顔を照らしていた。
「ソラ」
呼ぶ。
返事はない。
最後の魔石が暗くなる。
残った時間の膜が、光の糸になって青年の身体へ沈んだ。
部屋が暗闇になる。
リタはすぐに光を作った。
青年の胸を見る。
先ほどより大きく上下している。
脈もある。
「よかった」
力が抜けた。
槽へ額をつける。
眠っているだけかもしれない。
何年も、このままかもしれない。
空のまま、決して目を開けないかもしれない。
それでも、消えなかった。
「連れて帰るよ」
リタは言った。
「あんたでも、違う人でも。ここへ一人にはせん」
廊下の役人を呼ぼうと、手を離しかけた。
指が動かなかった。
青年の手が、リタの指を握っていた。
弱い力だった。
偶然の痙攣かもしれない。
リタは息を止めた。
「ソラ?」
握る力が、少しだけ強くなる。
閉じた瞼が動いた。
ゆっくりと開く。
淡い青の瞳。
空と同じ色。
焦点が合うまで、長い時間がかかった。
瞳の中に、リタが映る。
驚きも、警戒もない。
彼は、名前を知っている者を見る目で、リタを見た。
唇が動く。
「ただいま」




