第四十三話 三年後
魔王討伐から三年が過ぎた。
レグナ王国と魔王国の間には、細いながら道ができていた。
商人が行き交い、互いの国へ使節が向かう。国境にはまだ兵がいる。戦争で家族を失った者も、相手を許せない者も多い。
それでも、軍が領土を奪い合うことはなくなった。
王都の魔術師団演習場で、四人の若い魔法使いが泥まみれになっていた。
火術師の外套は水を吸って重くなり、水術師の髪は火術師が出した火で先だけ焦げている。
結界役は地面へ座り込み、治療を学ぶ少女がその手首へ布を巻いていた。
「もう一回!」
リタが杖を上げる。
四人が一斉に嫌な顔をした。
「教官。いまのは標的を倒しました」
火術師が抗議する。
「倒したね。ついでに味方二人も焼いたけど」
「演習です」
「本番で同じ言い訳するん?」
「水で消しました」
水術師が言う。
「自分の髪ごとね」
「これは火術師の狙いが悪いからです」
「あんたは火が来る前に水の壁出す役じゃったろ」
「結界役が守ると」
「私は正面を守っていました!」
結界役が立ち上がる。
四人が互いの失敗を言い始めた。
リタは聞きながら、泥へ杖で円を描いた。
「ほいじゃ、次は役を替えようか」
「専門外です」
「火術師は火を使わん。水術師は水を使わん。結界役は治療、治療役は結界」
「無茶です」
「隣の人間が何しよるか、知れ言うとる」
リタは火術師へ、水の入った椀を渡した。
「これ一杯、標的まで運びんさい。浮かせんでもええ。こぼさんかったら合格」
「手で?」
「魔法で。火より弱い力出す練習」
次に、治療役へ薄い木板を渡す。
「一撃だけ止める結界。二撃目は逃げる」
「もっと強い結界を教えてください」
「それは専門の先生に習いんさい。うちより上手いけえ」
「教官は、大魔道士なのでしょう」
結界役が笑った。
自称、と小さく付け足す。
リタは杖の先で、その足元だけを泥へ沈めた。
「はい、一人だけ追加で三回」
「職権乱用です!」
「大魔道士を馬鹿にするけえよ」
ほかの三人が笑った。
三年前の旅でも、同じような笑いがあった。
大魔道士と言えば、カイルがはいはいと流す。
エレナが真面目にたしなめる。
ガレスが都合のよいときだけ持ち上げる。
ソラは最初、本当に称号だと思っていた。
違うと知ったあとも、呼び方を変えなかった。
――やはり、あなたは大魔道士です。
魔王戦のあと、彼はそう言った。
誰から教わったのか尋ねる必要はなかった。
傷だらけになった別の自分。
わずかな魔力を使い切らないため、三年かけて制御を身につけた自分。
「教官?」
火術師が呼ぶ。
椀の水は、半分が泥へ落ちていた。
「すみません。もう一度お願いします」
「なんで謝るん」
「話を聞いていませんでした」
「正直じゃねえ。ほいじゃ、うちも一緒にやる」
リタは新しい椀を取った。
四人と同じ課題を、自分も行う。
最初の一歩で、水が縁からこぼれた。
「教官も失敗した!」
「今のは風向きが悪かった」
「言い訳するなと言いました」
「よう覚えとるね!」
二度目は、全員が水を運べた。
誰が一番早かったかではなく、こぼれそうになった互いの椀を、風と土で支えたからだった。
演習が終わる。
四人が着替えに行ったあと、リタは泥へ残った五人分の足跡を見た。
自分を入れて五人。
偶然だった。
三年も経てば、偶然はどこにでもあった。
青い布。灰色の外套。王国式の剣を使う青年。甘い菓子を、その場で食べる客。
一つずつ立ち止まっていたら、どこへも行けない。
リタは杖を一度振り、足跡へ乾いた土をかぶせた。
夕方、カイルの家へ向かった。
正確には、今はカイルとエレナの家だった。
玄関の前に、見覚えのある汚れた荷馬車が止まっている。
「ガレス来とるね」
扉を開ける前から分かった。
中から、カイルの怒鳴り声が聞こえる。
「だから、捕虜三十人を『だいたい返した』で済ませるな!」
「全員ちゃんと返したって。書類の数字が二人ほど合わないだけ」
「それを、合っていないと言う!」
「三十人全員の顔は覚えてる。紙より俺を信用しろよ」
「お前を信用できないから紙がある!」
リタは扉を叩かずに入った。
「相変わらずじゃね」
居間の机に、ガレスの報告書が山になっていた。
ガレス自身は三年前より日焼けしている。斥候の軽装は変わらないが、魔王国の通行証とレグナ王国の徽章を両方、腰へ下げていた。
「大魔道士様、助けて」
「うち、数字は専門外」
「何でもできるんじゃないの?」
「ちょっとずつならね。カイルに怒られる役、代わろうか」
「それは結構」
台所からエレナが顔を出した。
「二人とも、手を洗ってください」
「うち、泥ついとらんよ」
「外套の裾までついています」
「ほんまじゃ」
「教え子と泥遊び?」
ガレスが尋ねる。
「訓練」
「子どもに混じって転んだんでしょ」
「見とったん?」
「想像」
三年前なら、ここへもう一人いた。
ガレスの隣で、会話を聞いていた。
冗談へ半拍遅れて笑い、分からないときには理由を尋ねた。
今の食卓は四人分だった。
空の椅子を置くことは、最初の年でやめた。
いない者のために空ければ、そこだけを見てしまう。
四人で食べるなら、四人で囲む。
それでも、忘れたわけではなかった。
食前に、エレナが小さな杯を棚の上へ置いた。
中には甘い果実酒が入っている。
ソラが好むと知ったのは、彼が消える三日前だった。
王都の菓子店で乾燥果実を試食し、二袋買った。旅の途中で食べるつもりだったのか尋ねると、一袋は自分で、一袋はリタへ渡すと答えた。
リタの袋は、凱旋のあと彼の部屋で見つかった。
その年のうちに、四人で食べた。
味を忘れないために残して腐らせるより、彼が買ったものを美味しいうちに食べたかった。
「三年ね」
エレナが言う。
今日は、ソラが消えた日だった。
国は、五人の魔王討伐者を記録している。
王都には、五人の像を作る話まであった。
顔の記録がないソラだけ、彫刻師が何度描いても別人になった。リタが三回作り直させ、結局計画そのものを止めた。
「あいつ、像とか嫌がりそうじゃし」
「理由は、それに変えたのか」
カイルが言う。
「最初は、似とらんけえ嫌じゃったんじゃろ」
「両方よ」
「四回目なら似たかもしれない」
エレナが静かに言った。
「もう顔、忘れそうで嫌なんよ」
リタは果実酒を飲んだ。
甘い。
ソラなら、味を確かめましたと言って最初に飲む。
「忘れていない」
カイルが言う。
「あんたは、毎日見とったわけじゃないじゃろ」
強い言い方になった。
カイルは怒らなかった。
別の世界のカイルは、ソラへ一年間、剣を教えた。
墓前で見送ったのも、そのカイルだった。
今ここにいるカイルは、二か月に満たない旅でしかソラを知らない。
同じ人間でも、同じ記憶は持っていない。
「そうだな」
カイルは認めた。
「だが、あいつの剣は覚えている」
「俺は盾を貸した」
ガレスが言う。
「壊されたけど」
「あれがなければ、お前は死んでいた」
「分かってる。だから請求してない」
「請求する気だったのですか」
エレナが眉を寄せた。
「冗談です」
「今のは分かりにくいです」
「ソラみたいなこと言うね」
四人が黙る。
次に笑ったのは、リタだった。
「ほんまね」
エレナも笑った。
カイルは困った顔をし、ガレスは杯を上げた。
悲しい話をして、悲しいまま終わらなくてもよくなった。
三年は、その程度には長かった。
食事のあと、エレナが湯を沸かした。
カイルとガレスは、まだ報告書を挟んで争っている。
リタは台所で、洗った皿を拭いた。
「明日、発つのですか」
エレナが尋ねた。
「カイルから聞いた?」
「あなたが十二日分の携行食を買ったと聞きました」
「あいつ、監視しとるん?」
「心配しているだけです」
「三年前のうちじゃないんじゃけえ」
今のリタの身体に、魔王戦の傷はない。
魔力回路も健康だった。
それでも、旅へ出るのに誰かの手は必要なかった。
「どこへ行くのですか」
「魔王城」
エレナの手が止まる。
「何か見つかったのですか」
「なんも」
「では、なぜ」
「あいつが生まれた場所、見てみたいんよ」
ソラは説明の中で、未来のリタが魔王城跡を訪れ、空の器を見つけたと話した。
正確な場所は知らない。
そのときの身体が、今の世界にもあるかも分からない。
あったところで、中身はソラではない。
「献花みたいなもんよ」
「墓なら、王都にあります」
「あれは空っぽじゃん」
墓には、砦で割れた丸盾の破片と、カイルから借りた剣の柄を納めた。
身体は残らなかった。
「一人で行くのですか」
「うん」
「私たちも」
「一人がええ」
エレナは続きを言わなかった。
リタの手から皿を取り、棚へ戻す。
「着いたら連絡をください」
「はいはい」
「返事は一度です」
「カイルと同じこと言うようになったね」
「三年、一緒に暮らしていますから」
エレナの胸元には、細い銀鎖がある。
カイルから贈られたものだった。
二人は戦後の混乱が落ち着いた年、小さな式を挙げた。
ガレスは国境を行き来し、捕虜や失踪者を家へ帰す仕事を自分で選んだ。
エレナは神殿で、戦争で親を失った子どもたちを診ている。
カイルは国境守備隊を離れ、両国の共同警備隊を作る仕事へ移った。
三人には、ソラが渡した時間の先がある。
リタにもあった。
教え子がいる。
明日の予定がある。
健康な身体で、行きたい場所へ行ける。
彼だけが、その先にいない。
「帰ってきてくださいね」
エレナが言った。
「うん」
リタは、今度は一度だけ返事をした。
翌朝、王都の西門を馬で出た。
見送りは断った。
普通の旅へ出るのに、四人で並ぶ必要はなかった。
それでも門を抜けるとき、背後の物見塔から何かが落ちてきた。
受け取る。
小さな紙包みだった。
中には、砂糖をまぶした乾燥果実が入っている。
塔の上に、ガレスがいた。
「子どもじゃないんじゃけど!」
「旅の途中で食べろ!」
「今食べる!」
一つ口へ入れる。
甘い。
ガレスが笑った。
リタも笑い、残りを鞄の上へしまった。
西へ向かった。




