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自称大魔導士と空の名前  作者: 白瀬余白


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第四十二話 行ってきます

リタの呼吸が止まった翌朝、医者が死亡を確認した。


ソラは、その言葉が必要なのか分からなかった。


夜のうちに何度も名前を呼び、返事がないことを知っている。


手は冷たくなり、魔力の流れも消えていた。


それでも医者が、亡くなっていますと告げるまで、椅子から立たなかった。


「身体を清めます」


町の女たちが来た。


「外で待っていてください」


ソラは動かなかった。


カイルが肩へ手を置く。


「行くぞ」


「なぜですか」


「あいつを支度してくれる」


「私もできます」


「任せろ」


命令ではなく、頼んでいる声だった。


ソラは寝室を出た。


居間の食卓には、前夜の椀が残っている。


リタはほとんど食べていない。


片づけようとした。


椀を持ち上げ、どこへ置けばよいか分からなくなった。


台所へ運ぶ。


水を入れる。


洗う。


いつもと同じ手順だった。


洗った椀を二つ、戸棚へ戻す。


次に使う時刻はない。


ソラは戸棚の扉を閉められなかった。


「ソラ」


カイルが呼ぶ。


「はい」


「座れ」


「することがあります」


「今はない」


「家を清掃します。薬を片づけます。食事を――」


食事を作る相手はいない。


言葉が止まる。


カイルは食卓の椅子へ座った。


ガレスが使っていた、廊下側の椅子だった。


ソラも向かいへ座る。


リタの椅子は寝室の近くにある。


エレナのものだった椅子。


誰も座らなかった。


「葬儀は三日後だ」


カイルが言う。


「必要なものは俺が手配する」


「私がします」


「何をすればいいか分かるのか」


「知識はあります」


「自分の師を送った経験は」


「ありません」


「俺もない」


カイルの声が掠れた。


「だから、二人でやる」


ソラはうなずいた。


三日間、家には人が途切れなかった。


町の者。


王都の魔法使い。


以前にリタと旅をした者。


魔王戦で助けられた兵。


誰もがソラの知らないリタを知っていた。


酒場で机を燃やした話。


子どもの病気を、専門の治療師へ運んだ話。


大魔道士と名乗って笑われ、別の男が同じように笑ったら本気で怒った話。


「本人も冗談で言っていたのでは」


ソラが尋ねると、町の女は涙を拭いながら笑った。


「自分で言うのと、人に馬鹿にされるのは違うんだってさ」


ソラは、その違いを理解できた。


リタは一般的な定義では大魔道士ではない。


それでも彼女の大魔道士という名を、他人が勝手に奪うことは許せなかったのだろう。


オーレンも来た。


寝室へ入り、長い時間出てこなかった。


戻ると、目を赤くしていた。


「最後まで、時間魔法をやっていたか」


「はい」


「馬鹿な弟子だ」


「師匠です」


「俺の弟子でもあった」


ソラは初めて知った。


「大魔道士でしたか」


「違う」


オーレンは即答した。


「だが、俺が教えた中で一番しつこい魔法使いだった」


褒めているのか、ソラには判断できた。


「時間魔法の紙を、どうしますか」


「燃やせと言われたのか」


「いいえ」


「なら、お前が決めろ」


また、同じ答えだった。


葬儀の日は晴れた。


墓地へ続く道に、町の者が並んだ。


王国から正式な称号を贈る話があった。


大魔道士ではなく、魔王討伐者としての称号だった。


カイルが断った。


「あいつは、死んでから国に名を決められることを望まない」


墓石には、名前と生年だけが刻まれた。


リタ。


それだけだった。


ソラは青い野花を一輪置いた。


空と同じ色だからではない。


春の庭で、リタが見ていた白い花は摘めなかった。


ガレスの墓へ供えるものだと、彼女が話していたからだった。


葬儀が終わる。


人が一人ずつ帰る。


最後に、ソラとカイルだけが残った。


「帰るぞ」


カイルが言う。


「どこへですか」


「家だ」


「誰の?」


カイルは答えなかった。


リタの家へ戻る。


扉を開けた。


「ただいま」


ソラは言った。


返事はない。


聞こえなかった可能性はない。


眠っている可能性もない。


それでも、少し待った。


「おかえり」


カイルが後ろから言った。


ソラが振り返る。


「俺で悪いが」


「いいえ」


胸の圧迫は消えなかった。


ただ、家へ入ることはできた。


葬儀の夜、ソラは二人分の食事を作った。


魚と豆の煮物。


香草は、鍋へ入れず二つの皿へ分けた。


リタの皿へ多く。


自分の皿へ少なく。


食卓へ置いてから、間違いに気づいた。


リタは食べない。


皿を下げようとする。


カイルが止めた。


「今日は、そのままでいい」


「冷えます」


「いい」


二人で食べた。


リタの皿からは、湯気が消えた。


ソラは自分の分を食べ終えたあと、その皿も食べた。


香草が多い。


以前なら好みではなかった。


今は味がほとんど分からなかった。


カイルは食後も帰らなかった。


居間の椅子で眠った。


翌朝、ソラは火を十個作った。


すべて同じ大きさだった。


「師匠」


寝室へ呼びかける。


返事はない。


火を消した。


魔力を身体へ戻す。


正しくできているか、判断する者はいない。


二日目も、火を十個作った。


三日目も。


毎回同じ形だった。


毎回、最後に寝室を見た。


七日目、カイルが木剣を持ってきた。


「稽古をする」


「今日は、剣の日ではありません」


「今日から変える」


庭へ出る。


春の白い花は、まだ咲いていた。


ソラは踏まない場所を選んだ。


カイルは何も言わず、反対側へ立つ。


「打ってこい」


「理由は?」


「俺が受ける」


理由になっていない。


それでもソラは木剣を振った。


一撃目を受けられる。


二撃目も。


三撃目で足を払われ、倒れた。


「立て」


「継続する目的がありません」


「俺にはある」


「何ですか」


「今、止めたくない」


カイル自身の希望だった。


ソラは立った。


日が傾くまで続けた。


一度もカイルへ触れられなかった。


それでも、剣を振っている時間だけ、寝室を見なかった。


その一年、ソラは家に残った。


食卓の椅子は、また二脚が使われなくなった。


それでも朝は来た。


ソラは火を十個作った。


同じ大きさで並べ、順番に消し、余った魔力を身体へ戻す。リタが生きていたころと同じ練習だった。違うのは、十個目を消しても寝室から声が飛んでこないことだけだ。


三十日続けた。


三十一日目、九個目をわずかに大きくした。


間違えたのではない。


同じ形を作り続ける理由が、もう分からなくなったからだった。


大きくした火は、他の九個より先に揺れた。消費する魔力も増えた。リタなら、何が分かったと聞くはずだった。


「大きい火は、風の影響を受けやすい」


誰もいない部屋へ報告する。


「今さらじゃね」


返ってくるはずの言葉も、自分で想像できた。


ソラは九個目を消し、翌日からは火の数と形を毎朝変えた。


午後にはカイルが来た。


雨の日も、王城の仕事で夜になった日も来た。庭が使えない日は、狭い居間で足運びだけを繰り返した。


「右足を置きすぎだ」


「以前は、踏み込みが浅いと言いました」


「浅いのと、置きすぎるのは別だ」


「適切な場所を示してください」


カイルが床へ炭で線を引く。


ソラは同じ場所へ百回足を置いた。


九十七回目で、カイルが木剣を投げた。


ソラは咄嗟に避ける。右足が線の外へ出た。


「今のだ」


「線上ではありません」


「剣が飛んできたのに、線を守ってどうする」


リタも似たようなことを言った。


術式どおりに魔法を使うことと、術式へ従うことは違う。形は目的のためにある。目的を捨てて形だけを守るな。


ソラは床の線を見た。


「もう一度、投げてください」


「剣をか」


「はい」


「俺の剣がなくなるだろう」


カイルの声には、わずかな笑いがあった。


ソラはそれを聞いても、以前のように意味を確かめなかった。


日が落ちると、二人で食事をした。


カイルが来ないと分かっている日は、一人分だけ作った。


最初に一人分の魚を買った日は、店先で長く立ち止まった。二尾を一尾に変えればよいだけなのに、店主へ数を告げるまで時間がかかった。


「今日も二尾かい」


「一尾です」


「あんた一人で足りるのか」


「足ります」


店主は何も聞かなかった。


家へ帰り、一人分の鍋を作った。


香草は少なくした。


食べ終えた器も一つだった。


それはリタを忘れる行為ではなかった。


自分が一人で生きていることを、毎晩確認する行為だった。


初夏のある日、オーレンが来た。


古い革鞄を机へ置き、中からリタの研究資料を三束取り出す。


「俺のところに預けていた分だ」


「すべてですか」


「時間魔法についてはな」


ソラは束へ手を伸ばした。


オーレンが、その上へ掌を置く。


「読むのか」


「はい」


「あいつは、お前に完成させろとは書いていない」


「知っています」


「過去へ行けとも言っていない」


「はい」


「なら、何のために読む」


ソラはすぐに答えられなかった。


リタが死ぬ前なら、目的は明確だった。


彼女の研究を理解したかった。彼女が無理をする理由を知りたかった。できるなら、止めたかった。


今は、止める相手がいない。


術式を完成させても、リタは戻らない。


エレナも、ガレスも戻らない。


「師匠が三年を使ったものだからです」


「遺品なら、箱に入れておけばいい」


「それでは、師匠がどこまで考えたか分かりません」


「分かってどうする」


また、答えを求められた。


リタなら、分からんのなら分からんでええと言う。


分からないまま触るな、とは言わない。


「まだ決めていません」


オーレンはしばらくソラを見た。


それから資料を押さえていた手を退ける。


「決めてから読むんじゃ遅いこともある。だが、読んだから決めたつもりになるな」


「難しい指示です」


「弟子が二人とも素直じゃないせいだ」


「私は、あなたの弟子ではありません」


「そういうところだ」


オーレンは酒も飲まずに帰った。


ソラは夜まで、資料の紐を解かなかった。


魔法の練習をし、カイルと剣を振り、夕食を食べ、器を洗った。


寝る前になって、最初の束を開く。


一枚目には、リタの字で題名があった。


――過去干渉による損失回復の可能性。


損失という二文字が、乱暴に塗り潰されている。


その横へ、別の題名が書き足されていた。


――時間分岐における到達術式。


日付は、ソラが発見される二年以上前だった。


彼のために始めた研究ではない。


使わせるためでもない。


リタは魔王戦から戻ったあと、失われたものを取り戻せないと知りながら、それでも考えることをやめられなかったのだ。


最初の百枚は、ほとんど失敗の記録だった。


時間を逆に流せば、現在までの原因をすべて否定することになる。術者自身も術式を使った理由も消えるため、成立しない。


過去を上書きする方法も成立しない。


起きたことは変わらない。


どれほど大きな魔力を注いでも、一度生じた世界を無かったことにはできない。


そこでリタは、上書きを捨てていた。


過去の一点へ異物が届いたとき、そこから先に新しい世界を生じさせる。元の世界を残したまま、別の結果へ向かう枝を作る。


理論の中央には、何度も同じ注意が書かれていた。


――救済ではない。


――こちら側の死者は戻らない。


――術者の慰めと、向こう側で生きる者の利益を混同するな。


ソラは最後の一文を三度読んだ。


その夜は、術式へ魔力を流さなかった。


翌日も読んだ。


七日かけて、三束すべてを読んだ。


リタの計算は、過去へ道を開く直前まで届いていた。


けれど、身体がそこを通れない。


世界から見れば、未来から来る人間は、その時点に存在しない異物だった。到着した瞬間から拒まれ、輪郭を失う。物を投げ込んでも同じだった。


リタは、時間の流れを薄い膜のように身体へまとわせる案を書いていた。


ただし、その膜は常に壊れる。


過去へいるあいだ、魔力を流し続けなければならない。


彼女の残った魔力では、一呼吸も維持できない量だった。


ソラは紙から顔を上げた。


自分の内側には、使われる目的を失った魔力がある。


魔王の魂を受け入れ、別の身体として動かすために作られた器。そのための魔力回路は、人間の魔法使いより太く、深い。


リタが持たず、自分が持っているものだった。


その夜、初めて術式の端へ魔力を流した。


紙が燃えた。


火は一瞬だった。


ソラは掌で叩き消し、黒く欠けた計算式を見た。


「多すぎる」


火を十個作るときより少なくしたはずだった。


リタの術式が求める魔力は、さらに小さい。


魔力が足りないのではない。


自分が大きすぎる。


翌朝、火を十個ではなく、百個作った。


針の先ほどの火を、食卓の上へ並べる。


二十三個目が弾けた。


五十一個目が隣と混ざった。


百個を別々に保てたのは、十日後だった。


「何をしている」


訪ねてきたカイルが、火で埋まった食卓を見た。


「時間魔法の練習です」


「やると決めたのか」


「いいえ。読むと決めました。そのために必要な制御を試しています」


「言葉を分ければ、違うことになると思っているのか」


「同じではありません」


カイルは長く息を吐いた。


「稽古をする。火を片づけろ」


「あと三個です」


「今すぐだ」


「はい、剣の師匠」


カイルの眉間へ皺が寄る。


「それはやめろ」


「事実です」


「お前が師匠と言うと、あいつのことだと思う」


ソラは火を消した。


「では、カイル」


「最初からそう呼べ」


庭へ出た。


その日、初めて木剣の先がカイルの袖へ触れた。


勝ったのではない。


盾で肩を打たれ、直後に倒された。


それでもカイルは袖の土を払いながら、もう一度と言った。


夏が深くなる。


ソラは午前に魔法を、午後に剣を、夜に時間術式を学んだ。


毎日同じではなかった。


カイルが来られない日は王都へ行き、オーレンへ計算を見せた。オーレンは完成に手を貸さないと言いながら、間違った箇所には赤い線を引いた。


「ここは、到着する時刻と身体の時刻を同じ式へ入れています」


「何が悪い」


「身体の時間を保ったまま過去へ行かなければ、私は五年前の状態になります」


「お前の五年前は何だ」


「存在していません」


「なら、消えるな」


「そのための式です」


「それは式じゃない。願望だ」


赤い線が増える。


ソラは持ち帰って、書き直した。


リタの本棚から人体の魔力回路を調べ、魔王城から回収された資料も読んだ。


そこで初めて、自分の身体が魂の移送を前提としていたことを、理論として理解した。


器は、入ってきたものを拒まない。


だが、時間は別だった。


魂ではなく、魂を収めた身体ごと過去へ移るなら、身体の外側にもう一つの仮の時間を作らなければならない。


ソラはそれを、固定層と名づけた。


薄い膜を作り、毎秒同じ量の魔力を流す。


一度に大きな魔力を注いでも、長くは保てない。穴の空いた桶へ水を満たすように、漏れる分を注ぎ続ける必要がある。


最初の試験では、一分で膜が破れた。


過去へは行かない。


水時計の周囲だけをわずかに速い時間へ置き、外から固定する。水が一滴落ちるたびに、術式の端が崩れた。


二度目は三分。


十度目は二十七分。


五十度目には、夜から朝まで保った。


朝、ソラが机へ伏していると、カイルが勝手口から入ってきた。


「寝ているのか」


「起きています」


「それを寝ていたと言う」


水時計の内側では、外より半刻多く水が落ちていた。


カイルが術式を見る。


「成功したのか」


「固定することには成功しました」


「過去へ行けるのか」


「まだです」


「そうか」


安堵と失望のどちらなのか、ソラには分かった。


両方だった。


「食べろ」


カイルは紙包みを置いた。


硬いパンと、干した肉だった。


「あなたは、私を止めないのですか」


「止めている」


「稽古を教え、食事を持ってきています」


「お前を飢えさせれば、時間魔法を諦めるのか」


「いいえ」


「なら、食わせる」


カイルは向かいへ座った。


「リタの紙を燃やしたことがある」


ソラは顔を上げた。


「いつですか」


「お前を見つける前だ。一年目の冬だった」


カイルはパンを割る。


「寝ないで式を書いていた。医者に止められても聞かない。俺は、あいつを殺す紙だと思った」


「師匠は怒りましたか」


「一週間、口を利かなかった」


「短いです」


「お前まで同じことを言うな」


ソラは干し肉を食べた。


塩が強い。


「そのあと、止めるのをやめましたか」


「やめていない。方法を変えた」


「成功していません」


「知っている」


カイルは、リタが使っていた椅子を見た。


「あいつは、できないことを三年やった。できないと知っていたから、やったんだと思う」


「矛盾しています」


「人間はする」


「私も人間ですか」


カイルはすぐには答えなかった。


「少なくとも、同じ面倒を俺へかけている」


ソラは、それを肯定として受け取った。


秋、ソラは王国剣技の一連の型を崩さず終えられるようになった。


ただし、カイルとの立ち合いには勝てない。


盾で進路を塞がれると、一歩遅れる。見せかけの隙へ踏み込むと、剣を落とされる。


「魔王の身体でも、剣は勝手に上手くならないんですね」


「上手くなっている」


「勝てません」


「一年で俺に勝たれたら、俺が困る」


「なぜですか」


「十年以上やっている」


「時間の差だけが理由ですか」


「今、少し勝ちたくなっただろう」


ソラは否定しようとした。


木剣を握る手へ、力が入っている。


「はい」


「なら、もう一度だ」


立ち合いのあと、カイルの家で夕食を食べた。


彼は一人で暮らしていた。


台所には、エレナが使っていた香草の瓶が残っている。中身はとっくに枯れ、蓋も錆びていた。


ソラは新しい香草を買うことを提案した。


「これは使わない」


「なぜ置いているのですか」


「捨てられないからだ」


「使用できません」


「知っている」


リタの家にも、使わない椅子がある。


ガレスの欠けた杯がある。


使えないものを残す理由を、ソラは今では知っていた。


「私は、過去へ行きたいです」


カイルの手が止まる。


ソラは初めて、明確に言った。


「師匠の研究を完成させたいからではありません。師匠の望みを代わりにかなえるためでもありません」


「なら、何のためだ」


「私が、あの四人に生きてほしい」


自分は、死んだエレナとガレスを知らない。


知っているのは、二人について話すリタとカイルだった。


声を失うリタ。


空の椅子を捨てないカイル。


その悲しみを無かったことにはできない。


けれど、別の世界で同じ日を迎える四人へ、違う結果を渡すことはできるかもしれない。


「リタも助けたいのか」


「はい」


「あいつは、魔王戦では死なない」


「三年後に死にます」


「お前が行けば、死なない保証があるのか」


「ありません」


「お前が死ぬかもしれない」


「はい」


「向こうのお前は、どうなる」


「その時点では、まだ発見されていません。器は存在します」


「お前が歴史へ入れば、見つからないかもしれない」


「分かっています」


「分かっていない」


カイルが強く言った。


「お前は、まだ生きて一年だ。あいつが、お前に旅をしろと言った意味を考えたことがあるか」


「あります」


「過去へ行って死ねという意味じゃない」


「知っています」


「では、ここで生きろ」


「それは、あなたの希望ですか」


カイルは黙った。


やがて、低く答えた。


「そうだ」


ソラの胸が痛んだ。


断ることで誰かが傷つくと、初めてはっきり分かった。


それでも、答えは変わらなかった。


「ごめんなさい」


リタ以外の相手へ、初めて自分から謝った。


カイルは顔を伏せた。


「謝るくらいなら、少しは迷え」


「迷っています」


「そう見えない」


「ここに残りたいとも思っています」


カイルが顔を上げる。


「剣の続きを習いたいです。別の町へ行き、食べたことのないものを食べたいです。師匠の墓へ、来年も花を置きたいです」


言葉にすると、残りたい理由は思っていたより多かった。


「それでも行きたいです」


カイルは長いあいだ何も言わなかった。


「勝手にしろ」


その夜は、それで終わった。


翌日の午後、カイルはいつもの時刻に木剣を持ってきた。


冬の初め、術式が一度完成した。


計算上は、過去へ到達できる。


ソラは三日かけて見直し、破棄した。


帰還に必要な魔力が含まれていなかった。


過去で目的を果たせば、そこへ残ってもよいと考えた瞬間があった。


けれど、それは違う。


戻りたい。


カイルとの剣の続きをしたい。


リタが生きた家へ帰りたい。


この世界の墓を、無かったことにしたくない。


帰る魔力を別に確保すると、固定層に使える量が減った。


滞在できる期間は、長くて二か月。


魔法を使えば、さらに短くなる。


身体の維持に必要な固定層と、通常の魔法は同じ魔力回路から供給される。戦闘で大きな魔法を使えば、帰還分へ手をつける可能性があった。


「剣を使います」


ソラが言うと、カイルは嫌な顔をした。


「魔法使いがか」


「魔法は、最後まで残します」


「お前の剣は完成していない」


「知っています」


「俺の真似をするだけでは、魔王には勝てない」


「魔王と剣で戦う予定はありません」


「そこまで行く途中で死ぬと言っている」


ソラは盾を構えた。


「では、死なない方法を教えてください」


「簡単に言うな」


「時間がありません」


「誰のせいだ」


カイルは怒りながら、剣を抜いた。


それからの稽古は、勝つためではなく、生き残るためのものになった。


狭い道で二人を相手にする。


負傷した者を背に置く。


馬上から引きずり下ろされる。


剣を失っても盾だけで退く。


王国剣技は一対一の美しさだけを求める流派ではない。隊列を守り、隣の者を生かし、崩れた陣形を立て直すための剣だった。


ソラの身体は強い。


教わった型は正確に再現できる。


それでもカイルが攻撃の順番を変えれば遅れた。泥へ足を取られれば転んだ。盾で視界が塞がれれば、見えない側への反応は人と変わらない。


完成には遠かった。


だからこそ、ソラは毎日剣を振った。


春の白い花が咲くころ、リタの死から一年が経った。


固定層は二か月を越えて保てる計算になった。


到達地点と時刻も定まった。


魔王城へ入る直前では遅い。


早すぎれば、固定に魔力を使い切る。


リタたちが王都を発ち、魔王国の国境へ近づく途中。魔王戦まで二か月に満たない時点を選んだ。


術式の中心には、三つの魔力槽を置いた。


過去へ渡る分。


過去で身体を固定する分。


この世界へ戻る分。


三つは互いに隔てた。


固定する魔力が尽きかけても、帰還分は残る。


少なくとも、そのつもりだった。


最後の夜、ソラは机の上を片づけた。


リタの紙と、自分が書いた紙を分ける。


彼女の理論を土台にしても、完成させたのは自分だった。


彼女が使わせる気のなかった魔法を、自分で使う。


それを、師の遺志とは呼ばなかった。


「これを使っても、あいつらは戻らない」


カイルが言った。


机には、四人で魔王城へ入るより前の時刻と場所が記されている。


「分かっています」


「リタもだ」


「はい」


「この世界は、何も変わらない」


「はい」


過去に新しい枝が生まれても、この家から空の椅子は消えない。


墓地には三つの墓が残る。


カイルは、明日も一人で目を覚ます。


「それでも行くのか」


「はい」


「リタは、お前に使わせる気はなかった」


「知っています」


「なら」


「これは、私が選びました」


カイルは黙った。


ソラが初めて自分で選んだものを、リタは否定しなかった。


今の選択を、彼女が喜ぶかは分からない。


怒る可能性のほうが高い。


それでも、リタたちが全員生きる世界を一つ作りたかった。


元の世界から、死は消えない。


自分が戻ったとき、墓は同じ場所にある。


帰ったあと、自分はその墓へ来る。


だからこそ、別の空の下で生きていてほしかった。


出発の日、ソラは墓地へ向かった。


町の花屋を三軒回った。


どの花も、リタが望むものとは思えなかった。彼女なら、花へ余計な金を使うより肉を買えと言う。


結局、丘へ来る途中で青い野花を摘んだ。


墓の前へ置く。


石には、リタの名が刻まれていた。


大魔道士という肩書きはない。


ソラにとっては、必要なかった。


少し離れたところに、カイルが立っていた。


鎧は着ていない。腰に剣だけを帯びている。


「もう行くのか」


「はい」


「明日の朝でも変わらないと思うが」


「今日行くと決めました」


「そうか」


カイルはそれ以上、引き止めなかった。


ソラの荷物は少ない。


肩に掛けた鞄がひとつと、剣が一本。


剣はカイルから渡されたものだった。


「足りないものはないか」


「ありません」


「お前の『ありません』は、あまり信用できないんだがな」


ソラは、その言葉が冗談だと分かった。


「困ったときには、人を頼ります」


「それならいい」


カイルは上着の内側から、小さな紙包みを出した。


「これは持っていけ」


ソラが受け取る。


中には、砂糖をまぶした乾燥果実が入っていた。


「誰からですか」


「町の子どもたちだ。お前が出ると聞いて、朝からうちへ持ってきた」


「なぜ、あなたの家へ」


「俺なら見送りに来ると思ったらしい」


ソラは一つ取り、口へ入れた。


カイルが眉を上げる。


「今食べるのか」


「味を確かめました」


「旅の途中で食べろという意味だ」


「残っています」


「そういう問題ではない」


ソラの口元が、少しだけ上がった。


紙包みを鞄のいちばん上へしまう。


「甘い物は好きだったな」


「はい」


「それくらいは、素直に答えるようになったか」


何年も前から同じ答えを待っていたような言い方だった。


ソラは鞄の口を閉じ、結び目を二度確かめた。


風が丘を上り、二人の外套を揺らした。


カイルは空を見て、午後には雲が出ると告げた。


「雨具も入っています」


どこへ行くとも、いつ戻るとも話さないまま、会話だけはごく普通の旅立ちの形をしていた。


カイルは墓へ目を向けた。


「あいつも、そうしろと言うだろう」


「はい」


ソラは立ち上がった。


丘の下には町があり、その先に街道が伸びている。


過去へ渡る術式は、人気のない森に用意していた。


墓前でもう一度だけ足を止める。


「行ってきます」


今度も返事はなかった。


ソラは丘を下りた。


森の中で術式を起動する。


渡るための魔力が、一つ目の槽から消える。


帰還分には触れていない。


固定層がソラの全身を包んだ。


薄く、絶えず魔力を失う膜だった。


過去へいるかぎり、自分の内側から魔力を流し続けなければならない。


ソラは供給を始めた。


時間魔法が身体を包み、周囲の景色がほどけた。


五年前。


魔王戦まで、二か月に満たない時点。


光が消える。


ソラは、まだリタが生きている空の下へ立った。


身体の輪郭は保たれている。


固定層から、計算どおりの量が流れ落ちていく。


二か月。


大きな魔法を使わなければ、帰還分を残して戻れる。


元の世界で初めてしたように、空を見上げた。


それから剣を持ち、西へ歩き始めた。


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