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自称大魔導士と空の名前  作者: 白瀬余白


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第四十一話 師匠の死

春まで、とリタは言った。


ソラは日数を数えないと決めた。


翌朝には、春分までのおおよその日数を計算していた。


計算した数字を紙へ書き、すぐに破った。


リタが起きる。


「何しよるん」


「火の練習です」


破った紙を炉へ入れ、指先から火を点ける。


「紙、なんて書いとったん?」


「失敗の記録です」


必要な嘘だった。


リタはそれ以上聞かなかった。


その日から、ソラは家の習慣を書き始めた。


朝の薬。


食べた量。


咳の回数。


歩けた距離。


昼寝の時間。


最初は、リタに見えないよう自分の机へ置いた。


三日目に見つかった。


「何これ」


「状態の記録です」


「見たら分かる」


リタは紙を持ち上げた。


「朝、粥四口。昼、二口。咳十一回。こんなん毎日書いとるん?」


「変化を把握できます」


「やめんさい」


「嫌です」


「うちが一日何口食べたか、死んだあと見返すん?」


ソラは答えられなかった。


記録の目的は、悪化へ早く気づくことだった。


同時に、昨日と今日の違いを残しておきたいと思っていた。


リタの状態だけではない。


その日に話したこと、笑った回数、作った料理も、書き加え始めている。


「忘れたくありません」


「全部覚えようとしたら、今日見る暇なくなるよ」


リタは紙を机へ戻した。


「薬の時間だけ書く。食べた量は、あんたが気になった日だけ。咳は数えん」


「回数は重要です」


「数えられとる思うたら、咳もできん」


「我慢する方が危険です」


「じゃけえ数えんで」


条件を決めた。


ソラは咳の回数を書かなくなった。


それでも、耳は一度も聞き逃さなかった。


食事も、少し変わった。


一度に多く食べられないため、少量を何度も用意する。


朝は粥。


昼前に卵。


昼は、柔らかく煮た豆。


夕方に果物。


夜はスープ。


同じ料理を続けると、リタは食べなくなった。


「飽きた」


「栄養は同じです」


「味が違うもん食べたい」


「何がよいですか」


「肉」


「消化へ負担があります」


「ほいじゃ、魚」


「今日は市場にありません」


「あんた、うちに選ばせる気ないじゃろ」


ソラは台所へある材料を確認した。


「芋か、豆か、卵です」


「卵」


「昨日も食べました」


「選ばせた意味!」


ソラは卵を作った。


香草を入れるか尋ねる。


リタは多い方を選んだ。


ソラの好みとは違う。


二つの皿へ分け、リタの分だけ香草を増やした。


彼女は半分食べた。


「今日は記録してええよ」


「何をですか」


「うまかった、って」


ソラは紙へ書いた。


卵、香草多め。師匠は半分食べた。美味しいと言った。


その下へ、自分は香草が少ない方が好きだと付け加えた。


記録は、病状だけではなくなった。


魔法の稽古は、毎日続けた。


リタが寝台から出られない日は、扉を開けておく。


ソラは居間で火を作り、寝室から声だけで直された。


「三個目、ちょい大きい」


「見えていません」


「音で分かる」


「火は音を出していません」


「魔力の流れる音」


「比喩ですか」


「ほんまに聞こえるんよ」


リタが、魔力そのものの微かな振動を音と呼んでいることは分かった。


ソラには同じように聞こえない。


「今のは?」


四個目を作る。


「ええよ」


「三個目との違いは?」


「最後の戻し方。三個目は、途中で一回詰まった」


ソラは流れを再現した。


自分の中では、ほとんど差がない。


「師匠がいなくなった場合、この違いを判断できません」


寝室から返事が消えた。


「ほいじゃ、今覚えんさい」


しばらくして、声がした。


「うちと同じように聞こえんでもええ。あんたの分かる形、見つけるんよ」


ソラは火の周囲へ指を置いた。


熱。色。魔力の戻る速度。


音ではなく、指先へ返る圧力で違いを探す。


三個目の流れを再現すると、戻る力が一瞬だけ弱くなった。


「分かりました」


「ほんま?」


「はい」


「もう一回」


十個作った。


最後まで同じ大きさだった。


「ようできたね」


寝室へ行く。


リタは目を閉じていた。


「見ていましたか」


「聞いとった」


「最後の火は、よかったですか」


「よかったよ」


ソラは記録へ書いた。


十個の火。すべて同じ大きさ。師匠がよいと言った。


剣の稽古も続いた。


カイルは週に二度、雪を踏み固めて庭へ立った。


ソラが後ろの石を守る訓練は、もうしなかった。


今はカイル本人を相手に、盾と剣を使う。


「右足を残せ」


「はい」


「残すことと、居つくことは違う」


「以前も言われました」


「できていないから言っている」


カイルの木剣が足首を払う。


ソラは倒れず、半歩引いた。


「今は?」


「さっきよりいい」


ソラは、足の置き方を何度も身体へ覚えさせた。


稽古のあと、カイルは必ず家へ入った。


リタが眠っていても、起きるまで待つ。


起きれば、二人で昔の話をした。


ガレスが道を間違えた日。


エレナが野営地の虫を全部浄化しようとした日。


リタが川へ落ち、三人で笑った日。


「カイルも落ちたじゃろ」


「お前を引き上げようとしたからだ」


「ほいじゃ二人で落ちた日」


「ガレスは最後まで笑っていた」


ソラは話を聞いた。


以前のリタがどのように笑い、走り、魔法を使ったかを、二人の言葉から作る。


今のリタとは違う。


それでも、同じ人だった。


ある夜、ソラは物音で目を覚ました。


居間に明かりがある。


リタが食卓へ紙を広げていた。


右手で炭筆を持ち、左手で定規を押さえている。


三本の指に力が入らず、定規がずれる。


「何をしていますか」


リタの肩が跳ねた。


「起きたん?」


「物音がしました」


紙を見る。


時間遡行術式。


「休んでください」


「昼寝したけえ、眠くない」


「身体は休息を必要としています」


「頭は動くんよ」


「なぜ、まだ研究しますか」


「まだ考えれるけえ」


「完成しても使えません」


「知っとる」


「私へ使わせるつもりもないと言いました」


「ないよ」


「では、目的がありません」


リタは炭筆を置いた。


「死ぬまで、死ぬことだけ考えとけ言うん?」


ソラは答えられなかった。


「うち、これ考えるん好きなんよ。腹立つくらい難しい。できんから、次の日も考える。今日より一本、線が減ったら嬉しい」


「研究が、好きですか」


「好き。後悔から始めたけど、それだけで三年も続かんよ」


リタはずれた定規を直した。


「使えんもんでも、考えたいんじゃけえ考える。あんたの本と同じ」


「本は危険ではありません」


「この紙も、今は危険じゃない」


「将来、私が使用する可能性があります」


「使うん?」


問われた。


術式を読めば、自分の魔力なら条件を満たせることは分かっていた。


何のために使うかは、まだなかった。


「分かりません」


「使わんで」


「なぜですか」


「うちの後悔じゃけえ。エレナとガレスがおらん寂しさを、あんたへ背負わせたくない」


リタは炭筆をもう一度持った。


「師匠を救うためでは、駄目ですか」


「今のうちは救われん」


「別の世界の師匠は生きます」


「そこに、今のあんたを待っとるうちはおらん」


「同じリタです」


「同じじゃない」


強く言った。


「うちが死んだあと、あんたを縛ることはできん。じゃけど、許したことにはせんで。うちは、あんたに使うてほしくない」


「それでも私が選んだ場合は?」


リタは苦しそうに息を吐いた。


「怒るよ。止める。それでも止まらんかったら――そのときは、もうあんたの人生じゃ」


同じ名前と記憶を持っていても違う人間だ、という意味は、まだ理解できなかった。


「定規、持って」


リタが言う。


ソラは向かいへ座った。


紙へ触れないよう、定規の端を押さえる。


「ここから、こっちまで」


リタが線を引く。


二度、手が止まった。


それでも一本を最後まで引いた。


「できた」


「はい」


「今日は終わり」


紙を重ね、机へ戻す。


ソラは寝室までリタを運んだ。


「自分で歩ける」


「今日は、私が運びたいです」


「ほいじゃ、頼む」


拒まなかった。


寝台へ下ろし、毛布を掛ける。


「おやすみ、ソラ」


「おやすみなさい、師匠」


部屋を出る前に、リタが呼んだ。


「ソラ」


「はい」


「明日、魚買うてきて。香草少なめで作ろうや」


「はい」


「これは命令じゃないよ」


「私も作りたいです」


翌日、二人で魚の煮物を作った。


火は失敗しなかった。


香草は、二つの椀へ別々に入れた。


リタは四口食べた。


記録には、美味しかったと書いた。


冬の終わり、リタの呼吸が一度止まった。


昼寝をしていると思っていた。


ソラは魔法の本を読み、頁を一枚めくった。


寝室から、呼吸の音がしないことに気づいた。


走る。


リタは目を閉じていた。


胸が動いていない。


「師匠」


返事がない。


肩を抱き、名前を呼ぶ。


「師匠!」


身体の中へ魔力を流そうとした。


リタから、人の回路へ勝手に魔力を入れるなと教わっている。


それでも止められなかった。


指先が胸へ触れる直前、リタが息を吸った。


激しく咳き込む。


「師匠」


「……おるよ」


「呼吸が止まりました」


「ちょっと忘れた」


「忘れるものではありません」


ソラは身体を抱いたまま離さなかった。


リタの背中へ腕を回し、呼吸が続くのを確かめる。


「痛いよ」


力を緩める。


離さない。


「医者を」


「呼んで」


初めて、リタが自分から頼んだ。


ソラは走った。


医者が来るまで、カイルも呼んだ。


その夜は三人でリタを見た。


呼吸は戻ったが、医者は次も戻るとは言わなかった。


「夜明けまで持てば、今日は大丈夫です」


今日。


明日ではない。


ソラは窓の外が明るくなるまで、呼吸を数えた。


東の空が白くなる。


リタが目を開けた。


「朝?」


「はい」


「ソラ」


「はい」


「おはよう」


「おはようございます」


その日、リタは死ななかった。


次の日も生きていた。


雪が溶け始めるまで、朝は何度も来た。


春が来た。


庭の隅に、小さな白い花が咲いた。


リタは窓際の椅子へ座り、それを見ていた。


「ガレスはね、花の名前一個も知らんかったんよ」


膝には毛布が掛かっている。


身体はさらに細くなり、一人では椅子まで歩けなくなった。


「エレナが教えても、全部『白い花』で済ませるん。色違うても白」


「赤い花も?」


「白」


「分類として不正確です」


「あいつに言うてやって」


「どこにいますか」


リタは庭を見たまま、少しだけ笑った。


「遠いとこ」


以前なら、それ以上質問しなかった。


今は、墓の場所を知っている。


魔王戦で何が起きたかも、カイルから聞いた。


リタが二人を失い、自分の身体を壊して魔王を倒したこと。


時間魔法を研究する理由。


それでもソラは、彼女が話したい形で話すのを待った。


「今日は、魔法を見せて」


リタが言った。


「何を作りますか」


「火。最初にやったやつ」


ソラは人差し指を立てた。


小さな青い火を灯す。


大きさを保ち、熱を一定にする。余った魔力を身体へ戻す。


最初は庭の標的を吹き飛ばした。


今は、火の先を細く分け、五枚の花びらに変えることができる。


「上手うなったね」


「師匠が教えたからです」


「誰が師匠じゃった?」


「大魔道士リタです」


「一般的な定義には一致せんのじゃろ」


「一致しません」


「そこは最後まで正直じゃね」


ソラは火を消した。


「ですが、師匠は大魔道士です」


リタがこちらを見る。


「なんで?」


七か月目に問われたとき、ソラは答えられなかった。


今は答えを持っている。


「魔力の量や威力ではありません。私に魔法を教え、選ぶことを教えました。できないことがあっても、別の方法を探す人です」


リタは黙っている。


「私にとって、師匠より優れた魔法使いはいません」


「そっか」


「はい」


「ほいじゃ、うちは大魔道士じゃね」


「はい」


自称ではなくなった。


国も、魔術師団も認めていない。


ただ一人、ソラがそう決めた。


「ソラ」


「はい」


「本、取って」


机に置かれた『西海岸の町々』を渡す。


リタは自分で持つ力がなく、ソラが開いた本を一緒に見た。


「ここ、行きたかったね」


「今からでも行けます」


「遠いよ」


「私が運びます」


「馬車より速い?」


「長い距離を走る訓練はしています」


リタが笑う。


「あんた、ほんまに運ぶ気じゃろ」


「はい」


「ほいじゃ、もうちょい元気になったらね」


「分かりました」


嘘だと分かっていた。


リタも、ソラが分かっていることを知っていた。


それでも二人は、頁をめくった。


昼過ぎ、リタは眠った。


窓から入る日が、毛布の上へ落ちている。


ソラは隣で魔法書を読んでいた。


呼吸の音が、少しずつ浅くなる。


彼は本を閉じた。


「師匠」


リタが目を開ける。


「おるよ」


「医者を呼びます」


「間に合わん」


「呼びます」


立ち上がろうとしたソラの手を、リタがつかんだ。


力はほとんどない。


それでも、動けなかった。


「ここおって」


冬の日と同じ言葉だった。


「嫌です」


「どっちが?」


「ここにいても、師匠が死にます」


「医者呼んでも同じよ」


「嫌です」


ソラは繰り返した。


「死なないでください」


「ごめんね」


「謝らないでください」


「困らせて、ごめん」


「困っていません」


「嘘つけるようになったね」


リタは弱く笑った。


ソラは椅子へ座り直し、両手で彼女の手を包んだ。


左手の指は三本しか曲がらない。


その指が、ソラの手を握る。


「あんたを拾うて、よかった」


「私も、師匠に見つけてもらってよかったです」


「なんもないあんたに、勝手に名前つけて、勝手に弟子にして」


「私が選びました」


リタが瞬きをする。


「名前を使うことも、弟子でいることも、ここにいることも。今は、私が選んでいます」


「そっか」


「はい」


「なら、よかった」


リタは目を閉じた。


「師匠」


「おるよ」


返事は、まだあった。


「師匠」


もう一度呼ぶ。


「おる」


声が小さくなる。


「師匠」


三度目の返事はなかった。


手の温度は、すぐには消えない。


窓の外で、風が白い花を揺らしている。


何も起こらなかった。


敵も来ない。魔法も使わない。空は晴れたままだった。


ただ、リタの呼吸だけが止まった。


ソラは手を握っていた。


日が傾き、部屋が暗くなっても離さなかった。


夜になって、カイルが訪れた。


戸が開いているのを見て、寝室まで来る。


ソラと、寝台のリタを見た。


「そうか」


それだけ言った。


カイルは寝台の反対側へ椅子を置いた。


二人で朝まで座っていた。


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