第四十話 死なないでほしい
冬になると、リタは庭へ出なくなった。
魔法の稽古は居間で行った。
小さな火、水の球、風の糸。家を壊さない大きさへ抑え、同じものを何度も作る。
剣はカイルが週に二度教えた。
ソラは王国剣技の基本を一通り覚えた。カイルから一本取ることはできない。それでも盾を持てば、数度は攻撃を防げるようになった。
リタは椅子から、その練習を見ていた。
立っている時間が短くなった。
食事の量も減った。
咳をしたあと、布へ赤いものが付くことがあった。
ソラはすべて観察していた。
最初に変わったのは、朝食だった。
秋までは、リタが先に起きる日もあった。
冬に入ってからは、ソラが火を起こし、湯を沸かす。西海岸の煮物以外にも、粥と卵料理を覚えた。
リタは寝室から自分で出てきた。
杖をつき、右脚へ魔力を流し、食卓まで歩く。
最初の雪が降った朝、出てくるまでに鐘の四分の一かかった。
ソラは廊下へ立ち、待っていた。
「何しよるん」
寝室の扉が開く。
リタは息を切らしていた。
「食事ができています」
「呼んでくれりゃええじゃん」
「歩行を手伝うと、嫌がります」
「今日は嫌がらんかもしれんよ」
ソラは腕を出した。
リタはそれを見て、杖を反対の手へ持ち替えた。
「ほいじゃ、今日だけ」
腕へ体重がかかる。
今日だけ、という言葉は正しくない可能性が高かった。
ソラは指摘しなかった。
食卓には、卵と豆の粥がある。
リタは一口食べた。
二口目まで、長い時間が空いた。
三口目は飲み込めず、水を飲んだ。
「味が不適切ですか」
「うまいよ」
「昨日は椀の半分を食べました」
「昨日より腹減っとらんだけ」
「必要な摂取量に足りません」
「食べれんもんは食べれんよ」
「一刻後に、もう一度用意します」
「いらん」
「必要です」
「うちが決める」
強い声だった。
ソラは黙った。
選択は本人がする。
リタから最初に教わったことだった。
しかし、食べない選択は身体を悪化させる。
「私は、食べてほしいです」
命令ではなく、自分の希望を言った。
リタの顔から、苛立ちが少し消えた。
「ほいじゃ、あと二口」
「三口」
「交渉するようになったね」
「二口と三口の中間は作れません」
「二口半あるじゃろ」
「半分をどのように計測しますか」
「三口食べるわ。面倒じゃけえ」
リタは三口食べた。
ソラは、残りを昼用の鍋へ戻した。
以前なら、必要量を満たしていないと判断しただろう。
今は、三口を食べたことを望ましいと思った。
次に変わったのは、魔法の稽古だった。
リタは居間の椅子から教えた。
小さな火を十個。
ソラはオーレンの方法で、最初の形を作る。余分な魔力を外へ逃がし、大きさを揃える。
十個できたあと、今度はリタの方法で一つずつ作る。
漏らさず、戻す。
七個目で、わずかに熱が外へ出た。
「今の、戻すん遅い」
リタが言う。
「どの程度ですか」
「髪一本分」
「時間の単位ではありません」
「感覚よ」
「再現できません」
「ほいじゃ、うちがやる」
リタは指を上げた。
火が点く。
以前と同じ、蝋燭より少し大きい炎。
一呼吸で消えた。
「もう一回」
二度目は火にならなかった。
リタの指だけが震えた。
「今日は、流れが悪いね」
「休んでください」
「教えるんはできるよ」
「実演は必要ありません」
「さっき再現できん言うたじゃろ」
「言葉から推測します」
「間違うよ」
「明日、実演してください」
リタは指を見た。
明日ならできる保証はない。
それを二人とも知っていた。
「ほいじゃ、明日」
ソラは七個目からやり直した。
リタは目を閉じ、音だけを聞いていた。
剣の稽古の日も変わった。
カイルが庭へ来る。
雪を踏み固め、滑らない場所を作った。
「今日は型だけだ」
「実戦形式ではないのですか」
「地面が悪い」
「対応する訓練になります」
「お前は転ばなくても、俺が転ぶ」
「剣の師匠が?」
「誰でも転ぶ」
窓の内側で、リタが笑った。
以前なら庭へ椅子を運んでいた。
今は窓辺から動かない。
ソラは型を始めた。
一。二。三。
十回目で窓を見る。
リタは目を閉じている。
二十回目。
姿勢が、さきほどと変わっていない。
「前を見ろ」
カイルの木剣が肩へ当たった。
「すみません」
「何を見ている」
「師匠が動きません」
カイルも窓を見る。
木剣を下ろし、家へ入った。
リタは眠っていた。
呼吸はある。
毛布から出た手が冷たい。
カイルが暖炉へ薪を足した。
「稽古は終わりだ」
「予定では、あと八十回です」
「今日は終わりだ」
「師匠のためですか」
「俺が続ける気をなくした」
命令ではなく、カイルの選択だった。
ソラは木剣を片づけた。
二人でリタが目を覚ますのを待った。
昼過ぎ、リタが起きた。
「稽古終わったん?」
「途中でやめました」
「なんで」
「剣の師匠が、続ける気をなくしました」
リタはカイルを見る。
「ソラ。茶を頼む」
カイルが先に言った。
台所へ行け、という意味も含まれていると分かった。
ソラは湯を沸かした。
居間の声は聞こえる。
「医者は」
「行かん」
「先月より悪い」
「行っても同じ」
「ソラが見ている」
「見せんように死ね言うん?」
「そういう意味ではない」
「分かっとる」
会話が止まる。
湯が沸いた。
ソラは三つの茶を持って戻った。
カイルは、その日、夕方までいた。
剣を再開せず、壊れた戸棚の蝶番を直した。
ソラも手伝った。
リタは二人へ、騎士を便利屋にするなと言った。
誰も返事をしなかった。
三つ目に変わったのは、食卓の椅子だった。
リタは台所に近い椅子まで歩けなくなった。
ソラが窓側の椅子を、寝室の扉の近くへ移した。
「それ、エレナの椅子よ」
「知っています」
「うちのを動かしたらええじゃろ」
「師匠の椅子は、座面が低いです。立ち上がるとき、右脚への負担が大きい」
「ほいじゃ、エレナの椅子へうちが座るん?」
「嫌ですか」
リタは椅子を見た。
長く使われず、ソラが毎朝埃を拭いていたものだった。
「嫌じゃない」
「では、使用してください」
その日から、リタはエレナの椅子へ座った。
元の椅子は、窓側へ移した。
四脚の位置が変わる。
リタは最初の数日、座るたびに肘掛けを撫でた。
何を考えているか、ソラは尋ねなかった。
食事の量。魔法を使える回数。眠る時間。咳の間隔。
家の中では、以前と同じ行動が少しずつ別の形になった。
ソラは毎日、その変化に気づいた。
気づくたび、元へ戻したいと思った。
戻す方法はなかった。
最初から、リタの身体が損傷していることは知っていた。
右脚。左手。肺。心臓。魔力回路。
各部位の状態は、少しずつ悪化している。
以前は、それを事実として記録した。
今は、悪化を見つけるたび、胸の中に重いものが増えた。
「師匠」
ある朝、リタは寝室から出てこなかった。
呼んでも返事がない。
ソラは扉を開けた。
リタは寝台に横たわっていた。
目は開いている。起き上がろうとしたまま、身体に力が入らないようだった。
「勝手に入らんで」
「返事がありませんでした」
「寝とったんよ」
「目が開いています」
「細かいねえ」
ソラは寝台の横へ行き、身体を起こした。
軽い。
半年前より、明らかに軽くなっている。
「医者を呼びます」
「ええよ」
「よくありません」
「呼んでも治らん」
初めて、リタがはっきりと言った。
ソラは動きを止めた。
「治らない?」
「魔王んときの古傷じゃけえ。医者はもう、よう見てくれた」
「今後、回復する可能性は」
「難しいね」
「あと、どの程度生きられますか」
リタは答えなかった。
目を逸らし、窓の外を見る。
「師匠」
「分からんよ」
「知っていますね」
「知らん」
ソラはリタの表情を見た。
分からないときと、言わないときで違う。
彼にも、今はそれが分かった。
「言いたくない場合の顔です」
リタがこちらを見た。
「あんた、変なとこばっかり覚えるね」
「師匠を観察しています」
「せんでええよ」
「嫌です」
言葉が自然に出た。
リタが瞬きをする。
「今、嫌って言うた?」
「はい」
「命令じゃなく?」
「私が、嫌です」
ソラは自分の中を確かめた。
リタの身体が悪化する。
リタがいなくなる。
考えると、帰りが遅れた日より強い圧迫が生まれる。息がしにくく、思考を別へ移せない。
この状態を、彼はもう知っている。
心配。
恐怖。
失いたくないという願い。
「死なないでほしい」
ソラは言った。
「師匠に、死なないでほしいです」
自分の願いを言葉にしたのは、初めてだった。
リタの顔が歪んだ。
笑ったのか、泣きそうになったのか、ソラには判断できなかった。
「困ったね」
「なぜですか」
「それだけは、選んでやれん」
「選択ではありません。願いです」
「叶えてやれん願いは、困るんよ」
ソラはリタの手を取った。
左手の三本の指が、弱く握り返す。
「魔法で、時間を戻せませんか」
机の上にある研究を思い出していた。
「あれは、過去へ誰かを送る術よ。身体を治すもんじゃない」
「完成すれば、魔王戦の前へ戻れます」
「戻れん」
「なぜ」
「魔力が足りん。足りたとしても、起きたことは消えん。別の世界ができるだけじゃ」
リタは静かに答えた。
「あれは、うちが勝手に考えとるだけ。あんたに使わせるためじゃない」
「私は使えますか」
「使わせん」
「理由は?」
「うちの後悔を、あんたの人生にせんで」
声が強くなった。
ソラは口を閉じた。
リタは息を整えてから、彼の手を引いた。
「今日は、ここおって」
「はい」
「それは命令じゃないよ」
ソラは寝台の横へ椅子を持ってきた。
「私がいたいので、います」
リタは目を閉じた。
握った手は離さなかった。
その日は、魔法の稽古をしなかった。
剣の型も、本も開かなかった。
ソラは寝台の横に座り、リタの呼吸を数えた。
眠りが浅くなるたび、水を渡す。
昼に粥を作った。
三口ではなく、一口しか食べなかった。
「もうええ」
リタが首を横へ振る。
「私は、食べてほしいです」
「願いは、全部叶わんよ」
「一口でも多く」
「それ、うちのため?」
「はい」
「あんたのためじゃなく?」
ソラは考えた。
リタが食べれば、身体の悪化を少し遅らせられる。
同時に、自分の圧迫も弱くなる。
「私のためでもあります」
「ほいじゃ、あと一口」
リタはもう一口食べた。
夕方、カイルが来た。
ソラが呼んだわけではない。週に二度、剣を持たずに食料を置いていく日だった。
寝室の扉を開け、状況を見る。
「医者を呼ぶ」
「いらん」
リタが言う。
「ソラも同じこと言うた。二人してうるさいね」
「呼びます」
ソラは立ち上がった。
「さっき、呼ばんでええ言うたじゃろ」
「私は、呼ぶ方を選びます」
「うちの身体よ」
「はい」
「なら、うちが決める」
「治療を拒否することは師匠の選択です。医者へ状態を確認してもらうことは、私の希望です」
「理屈っぽうなったね、あんた」
「誰に似た」
カイルが言う。
リタは二人を順に睨み、諦めた。
「呼ぶだけよ。無理な治療はせん」
「分かりました」
カイルが町の医者を連れてきた。
医者は三年前からリタを診ている女だった。
胸の音を聞き、脈を取り、魔力回路へ触れない範囲で身体を調べる。
「急に悪くなったわけではありません」
「ほら」
リタが言う。
「少しずつ悪くなっています」
医者は続けた。
「今日動けなかったのも、その一部です」
ソラは尋ねた。
「回復させる方法はありますか」
「ありません」
医者は曖昧にしなかった。
「痛みを減らすこと、呼吸を楽にすること、身体へ負担をかけないことはできます」
「あと、どの程度ですか」
「ソラ」
リタが止める。
「知る必要があります」
「誰に?」
「私に」
医者はリタを見た。
本人の許可がなければ答えないつもりだった。
リタは目を閉じた。
「春まで」
小さく言う。
「前は、そう言われた。長けりゃもうちょい。短けりゃ、知らん」
窓の外には雪がある。
春までが何日か、ソラは計算できた。
最短の可能性は、計算できない。
「それを、いつ知りましたか」
「秋」
帰りが遅れた日。
診療所の書類を机で見た。
あのとき、いつもと同じだと言った。
「虚偽でした」
「うん」
「必要な嘘ですか」
リタは答えなかった。
ソラは手を離したくなった。
離れれば、何が変わるかは分からない。
それでも握っていることが、リタの嘘を受け入れる行動に思えた。
手を引こうとする。
三本の指が、ソラの手をつかんだ。
力は弱い。
「怒っとる?」
「分かりません」
「それ、怒っとるやつよ」
「なぜ言わなかったのですか」
「言うたら、あんた毎日そればっかり考えるじゃろ」
「言わなくても、悪化しています」
「その間、あんた本買うて、剣習うて、好きなもんできたじゃん」
「知っていても、同じことをしました」
「ほんまに?」
問われ、すぐに答えられなかった。
リタの帰宅が遅れた日から、心配で他の作業ができなくなった。
春までと知っていれば、本を開くたび、残りの日を数えただろう。
剣を一度振るたび、リタの呼吸を確かめただろう。
今より長い時間を一緒に過ごせたかもしれない。
しかし、それは一緒に生きた時間ではなく、死を待つ時間になったかもしれない。
「分かりません」
ソラは答えた。
「じゃろ」
「それでも、怒っています」
初めて、自分の感情を推測ではなく言った。
リタは少し笑った。
「ごめん」
「謝っても、怒りは消えません」
「ほいじゃ、怒っとってええよ」
「いつまでですか」
「あんたが、もうええ思うまで」
本人が決めることだった。
ソラは手を握り直した。
怒っていても、離れたいわけではなかった。
医者は呼吸を楽にする薬を置いて帰った。
カイルは日が暮れても帰らなかった。
居間で暖炉を守り、夜の薬を用意した。
ソラが寝室から出ると、食卓へ三人分の食事がある。
「食べろ」
「師匠が一人になります」
「扉を開けておけば声は聞こえる」
「食事は必要ありません」
「お前が倒れたら、誰があいつを見る」
同じ理由を、以前ソラがリタへ使った。
ソラは椅子へ座った。
食事は冷えていた。
味を感じにくかった。
二人とも無言で食べた。
「剣の師匠」
「何だ」
「師匠が死んだあと、私は何をすればよいですか」
カイルの手が止まった。
「それを俺に聞くな」
「師匠にも、自分で決めろと言われます」
「なら、二人分聞け」
以前と同じ言葉だった。
「すぐに決める必要はない」
カイルは続けた。
「あいつの家にいてもいい。俺のところへ来てもいい。一人で町を出てもいい」
「どれが正解ですか」
「正解はない」
「師匠と同じです」
「幼馴染だからな」
カイルが初めて、そのことを少し誇るように言った。
食後、ソラは寝室へ戻った。
リタは起きていた。
「何話したん」
「師匠が死んだあとのことです」
「本人おらんとこで?」
「師匠へ聞くと、困った顔をします」
「今もしとるよ」
ソラは椅子へ座った。
「本があります」
リタが言う。
「剣も習いよる。好きな料理もできた。行きたい場所もある。全部、あんたの人生よ」
「師匠から与えられました」
「名前はうちが付けた。けど、使うたんはあんた。本は自分で選んだ。料理は自分で作りたい言うた。剣も続ける言うた」
「師匠がいなければ、選びませんでした」
「うちがおったことも、あんたの人生の一部にしたらええ」
「一部ではありません」
声が強くなる。
「全部です」
リタは困った顔をした。
「今は、それでもええよ」
否定しなかった。
「でも、いつか全部じゃなくなりんさい」
「嫌です」
「それも、自分で選びんさい」
ソラは返事をしなかった。
その夜は、寝室の床へ外套を敷いた。
寝台の横から離れずに眠るためだった。
リタは自分の部屋で寝ろと言った。
ソラは断った。
怒りは消えていなかった。
それでも、彼女の呼吸を聞きながら目を閉じた。




