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自称大魔導士と空の名前  作者: 白瀬余白


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第三十八話 帰りを待つ

五か月目の朝、リタは王都へ出かけた。


一緒に暮らし始めてから、リタが一人で家を空けることは何度かあった。


最初は、近くの薬種店までだった。


「すぐ帰るけえ」


そう言って出ていき、鐘が一つ鳴る前に戻った。


「ただいま」


ソラは食卓で本を読んでいた。


「帰宅を確認しました」


リタは扉へ手を掛けたまま、顔をしかめた。


「なんね、その返事」


「帰宅したことを確認しました」


「言葉は合うとるけど。こういうときは、おかえり言うんよ」


「おかえり」


「今じゃない」


「なぜですか」


「教えたけえ言うんじゃなくて、うちが帰ったときに」


「今、帰りました」


「そうじゃけど!」


リタは説明を諦め、薬草を台所へ置いた。


二度目は、町の診療所だった。


昼に出て、夕方前に戻った。


「ただいま」


そのときソラは庭で火の練習をしていた。


声は聞こえた。


帰宅したことも分かった。


しかし、返事をする必要性は見つからなかった。


家へ入ると、リタが台所で水を飲んでいた。


「聞こえんかった?」


「聞こえました」


「ほいじゃ返事」


「帰宅を確認しています」


「おかえりは?」


「今、言う場面ですか」


「もう遅いわ」


リタは怒ってはいなかった。


ただ、少し残念そうな顔をした。


三度目は、ソラが出かけた。


カイルの稽古に使う革紐を買うためだった。


「行ってきます」


前日に、リタから言うよう教わった。


「行ってらっしゃい」


返事が来る。


「どこへ行くかは、すでに伝えました」


「行き先聞いたんじゃないよ。無事に帰っておいで、いう意味」


「危険は少ないです」


「分かっとる。そういう意味が入っとるんよ」


「言葉の定義として不正確です」


「早う行きんさい」


店から戻る。


扉を開けると、リタは椅子で眠っていた。


「ただいま」


返事はない。


近づき、呼吸を確認する。


浅いが、一定だった。


ソラは革紐を机へ置き、毛布を掛けた。


夕方、リタが目を覚ます。


「帰っとったん?」


「はい」


「言うた?」


「ただいまと言いました」


「寝とったね。ごめん」


「無事に帰りました」


「おかえり」


時間が経っていたが、リタは返した。


ソラは、行ってらっしゃいとおかえりが、事実確認のためだけに使われるのではないことを記憶した。


四度目にリタが出かけたときは、朝から雨だった。


「行ってきます」


「濡れます」


「診療所の予約、今日なんよ」


「延期はできませんか」


「心配?」


「雨天では右脚の動作が悪化します」


「事実確認ね」


リタは少し笑った。


「ほいじゃ、行ってきます」


ソラは教わった言葉を探した。


無事に帰ってほしい、という意味。


「行ってらっしゃい」


リタがうなずく。


鐘が四つ鳴るころ、帰ってきた。


「ただいま」


ソラは扉まで行った。


「おかえり」


言うべき場面と時間は合っていた。


リタは満足そうだった。


それでもソラの中では、教わった正しい返答を使っただけだった。


五か月目の朝は、雨が降っていなかった。


「夕方には帰るけえ」


「何時ですか」


「鐘が五つ鳴るころ」


「遅れる場合は?」


「遅れんよ」


「馬車の運行には不確定な要素があります」


「細かいねえ。六つまでには帰る」


「分かりました」


目的は、王城の魔術資料庫だった。


リタは月に一度、時間遡行術式の資料を借りに行く。身体の診察も同じ日に受けていたが、ソラには資料庫へ行くとしか言わなかった。


ソラは午前に魔法の練習をした。


小さな火を十個、同じ大きさで作る。


四個目までは揃った。五個目で大きくなり、六個目は消えた。


リタなら、使った魔力を戻して最初からやり直せと言う。


ソラはやり直した。


午後は剣の型を繰り返した。


カイルに教わった、盾を持つ前提の足運び。身体の力へ頼れば形が崩れる。ゆっくり正確に百回動く。


鐘が五つ鳴った。


リタは帰らなかった。


ソラは水を飲み、もう百回続けた。


予定は六つまでだった。


鐘が六つ鳴る。


道へ馬車の音はない。


ソラは家の前に立った。


王都から来る道が見える。


予定からの遅延。原因は複数考えられた。


馬車の故障。


悪路。


資料庫での手続き。


リタの身体状態。


最後の項目を考えると、胸の中へ不快な圧迫が生じた。


呼吸が浅くなる。


合理的な根拠はない。他の三つの方が、起こる可能性は高い。


それでもソラは、家へ戻れなかった。


鐘が半分を告げる。


王都へ向かうことにした。


リタから待つよう指示はされていない。


出かけるなとも言われていない。


自分で選んだ。


町の外へ出たところで、馬車が見えた。


乗合馬車ではない。小さな荷車だった。


御者台の隣に、赤い髪の女が座っている。


ソラは走った。


「師匠」


リタが顔を上げる。


「なんでここにおるん?」


「遅かったので」


「馬車が途中で壊れたんよ。ちょうど通った人に乗せてもろうた」


リタは笑っている。


だが、顔色が白い。


荷車から下りるとき、右脚へ力が入らず身体が傾いた。


ソラは腕を伸ばし、支えた。


「大丈夫、大丈夫」


「大丈夫ではありません」


「ちょっと疲れただけ」


「帰宅が一刻以上遅れました。顔色と歩行にも異常があります」


「あんた、医者みたいになってきたね」


冗談を受け取れなかった。


先ほどまで胸にあった圧迫が、リタへ触れたことで少し弱くなっている。


しかし消えない。


「師匠」


「なに?」


「私は、心配していたようです」


リタの顔から笑いが消えた。


「そう」


「はい」


「どんな感じじゃった?」


「胸が圧迫され、他の作業を続けられませんでした。悪い可能性を、根拠なく繰り返し考えました」


「それは心配じゃね」


リタはソラの腕をつかんだ。


「ごめん。待たせたね」


「謝る必要がありますか」


「心配させたけえ」


二人で家へ向かう。


リタは途中から、ほとんどソラへ体重を預けていた。


家の扉を開ける。


「ただいま」


リタが言った。


ソラは、その言葉を知っていた。


帰った者が、帰る場所にいる者へ告げる言葉。


これまでもリタは何度か使っていた。ソラは帰宅を確認するだけのこともあれば、教わったとおり正しい場面で返したこともある。


「おかえりなさい」


今度は、正しい返答だからではなかった。


リタが笑った。


心配による圧迫は、そのときようやく消えた。


家へ入ると、ソラはリタを椅子へ座らせた。


「食事を作ります」


「もう作れるん?」


「西海岸の煮物を三度作りました」


「全部、同じやつじゃん」


「火と塩の量は調整できます」


「ほいじゃ、任せる」


台所へ立つ。


豆を水へ入れ、火を作る。


リタは食卓へ頬杖をつき、動きを見ていた。


「師匠」


「なに?」


「馬車の故障以外に、遅れた理由はありますか」


リタの指が止まった。


「なんで?」


「資料庫と診療所へ行くことを知っています」


「いつ知ったん」


「診療所からの書類が机にありました」


「見た?」


「内容は見ていません。封筒の記載です」


「ほいじゃ、なんもないよ。診察が長引いただけ」


「診察の結果は?」


「いつもと同じ」


リタは目を逸らした。


言いたくないときの反応を、ソラはまだ正確に分類できなかった。


ただ、問いを続ければ、先ほど消えた圧迫が戻るように思えた。


「分かりました」


火へ意識を戻す。


豆を煮すぎた。


椀へよそうと、半分が崩れている。


「失敗しました」


「食べれるけえ、ええよ」


「師匠は、失敗した魔法にも同じことを言いますか」


「使えるならね」


リタは一口食べた。


「うん。豆の味する」


「それ以外は?」


「塩と香草」


以前のソラと同じ答えだった。


「美味しいですか」


「あんたが作ったけえ、美味しい」


「味の評価ではありません」


「食べる人が決めることじゃろ」


ソラも食べた。


豆は柔らかすぎ、塩は少ない。


自分が望んだ味ではなかった。


それでも、リタが帰ったあとに二人で食べていることは、望ましいと思った。


その十日後、今度はソラが遅れた。


カイルとの稽古へ行く朝、リタは扉の前で尋ねた。


「何時に帰る?」


「稽古は鐘四つまでです」


「帰るんは?」


「移動に鐘の四分の一かかります」


「ほいじゃ、それくらいね」


「はい」


「行ってらっしゃい」


「行ってきます」


稽古は予定どおり終わった。


ソラは木剣と盾を片づけ、町へ戻る道を歩いた。


川沿いの道へ出たところで、荷車が横倒しになっていた。


車輪が溝へ落ち、積んでいた薪が道へ散らばっている。御者の男は足を挟まれ、動けない。幼い娘が一人で車体を押していた。


「手伝ってください!」


娘が叫んだ。


ソラは荷車へ近づいた。


「足の状態を確認します」


「先に上げてくれ!」


男が額に汗を浮かべている。


ソラは車体へ両手を掛けた。


持ち上げる。


魔王の器の力なら、一人でも足りた。


娘が父親を引き出す。


脚は折れていた。


「町の診療所へ運びます」


「馬が逃げた」


「私が運べます」


ソラは男を背負った。


娘へ、道の薪はあとで回収するよう告げる。


「盗られちゃう」


「人命を優先します」


「冬に売るぶんなんです」


薪がなくなれば、男の治療費にも生活にも影響する。


ソラは考えた。


リタへ帰宅すると告げた時刻まで、あとわずかだった。


男を診療所へ運び、戻って薪を積み直せば、確実に遅れる。


「近くの衛兵詰所へ、伝言を頼んでください」


娘へ、リタの家と自分の名を告げる。


「何て言うの?」


「帰宅が遅れます」


「どれくらい?」


「不明です」


娘はうなずいた。


診療所へ男を運ぶ。


治療師へ引き渡し、川沿いへ戻る。


娘は一人で薪を集めていた。


「伝言は?」


「詰所、閉まってた」


「別の者へ頼みましたか」


「先に戻らないと、薪がなくなると思って」


伝言は届いていない。


今から自分で向かえば、荷車と娘を残す。


ソラは散らばった薪を拾った。


車輪を溝から上げる。


軸が曲がっていた。


剣の鞘と革紐で固定し、ゆっくりなら動くようにした。


「家はどこですか」


「川向こうの村」


日が傾いている。


娘一人に壊れた荷車を任せることはできなかった。


ソラは町の門まで押した。


そこで、診療所から来た男の親族へ引き渡す。


鐘は七つ鳴っていた。


家まで走った。


固定された目的も命令もない。


ただ、リタが帰る時刻を待っていたときの胸の圧迫を思い出した。


自分の足なら、馬車より速い。


門を抜け、町の道を曲がる。


家の前に、人が立っていた。


リタだった。


外套を着ているが、前を留めていない。杖を握る右手が震えている。


「師匠」


リタが顔を上げた。


安堵が浮かび、すぐに怒りへ変わった。


「どこ行っとったん!」


ソラは足を止めた。


「稽古の帰路で、荷車の事故を発見しました」


「それで三刻?」


「負傷者を診療所へ運び、荷を回収し、車輪を応急修理しました」


「なんで知らせんの」


「知らせようとしました。子どもへ詰所から伝言を頼みましたが、閉まっていました」


「なら、ほかの人に頼むとか」


「娘は荷へ戻りました」


「あんたが頼むんよ!」


リタが一歩近づく。


右脚が折れた。


ソラは身体を受け止めた。


「なぜ外に出たのですか」


「帰ってこんけえじゃろ」


「カイルへ連絡すべきです」


「したよ。あんた、稽古は普通に出たいうし、道にもおらんし」


「ここで待つ方が安全です」


「待てんかったんよ!」


リタの声が割れた。


肩で息をしている。


怒っているだけではない。


怖がっていた。


ソラが彼女を待ったときと、同じだった。


「私は、負傷していません」


「今見たら分かる!」


「危険もありませんでした」


「分からんかったんよ。何も分からんまま待っとったん!」


同じ言葉でも、知る前と知ったあとの重さは違う。


ソラはリタの身体を支えたまま、何を言うべきか考えた。


事故の対応は間違っていない。


負傷者を置いて帰るべきではなかった。


薪を失えば、親子が冬に困る。


それでも、知らせる方法をもっと探すことはできた。


道を通る別の者へ頼めた。


診療所から使いを出してもらえた。


「ごめんなさい」


リタが黙った。


「次は、伝言が届いたことを確認します」


「次も遅れるん?」


「遅れないとは約束できません」


リタはソラの胸へ額を当てた。


笑ったのか、息を吐いただけなのか分からない。


「そこ、正直に言わんでええとこじゃろ」


「虚偽になります」


「ほいじゃ、絶対知らせるいうて」


「絶対に知らせます」


「約束よ」


「はい」


ソラは家の扉を開けた。


「ただいま」


リタはまだ怒った顔をしている。


それでも答えた。


「おかえり」


家へ入ると、食卓に冷えた夕食が二人分あった。


リタは食べずに待っていた。


ソラは温め直した。


事故のことを最初から説明する。


途中でカイルが来た。


ソラを見るなり、盾の縁で頭を叩いた。


「痛みはありません」


「俺の気が済む」


「何の効果がありますか」


「反省させる」


「すでに反省しています」


「なら、もう一度はいらんな」


三人で、冷えかけた煮物を食べた。


食後、食卓へ紙を一枚置いた。


外出先、帰る時刻、遅れた場合の連絡先。


リタが王都へ行くときだけではなく、ソラとカイルにも書くことになった。


「家族の予定表みたいじゃね」


リタが言う。


「家族とは、私たちですか」


「たとえばの話」


リタは紙へ顔を近づけ、ソラから見えないようにした。


「師匠、顔が赤いです」


「火ぃ近いけえ」


「火は消えています」


「早う皿洗いんさい!」


翌朝、紙には三人分の予定が書かれていた。


翌月、リタが王都へ行く朝、食卓に紙を置いた。


資料庫、診療所、乗る馬車、帰宅の予定時刻。


遅れた場合に立ち寄る宿の名まで書いてある。


「これでええ?」


「はい」


「鐘六つ過ぎたら、カイルへ連絡して」


「私が迎えに行きます」


「先にカイル。途中ですれ違うかもしれんじゃろ」


「分かりました」


リタは外套を着た。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい」


扉が閉まる。


ソラは紙を、時間魔法の資料とは別の場所へ置いた。


その日は鐘が五つ鳴る前に、馬車が戻った。


「ただいま」


「おかえりなさい」


胸の圧迫は生まれなかった。


代わりに、扉が開いたとき身体の内側が軽くなる感覚があった。


帰ってくることを望み、帰ってきたことを嬉しいと思う。


心配とは違う感情だった。


ソラは、まだその名をリタへ尋ねなかった。


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