第三十七話 好きなもの
三か月が過ぎた。
ソラは一人で町へ行けるようになった。
必要なものを書いた紙と金を持ち、店で品を選び、代金を払って帰る。最初はリタが横にいた。二度目は店の前で待ち、三度目から一人になった。
最初の買い物では、塩を買った。
店には三種類あった。
白く細かい塩。灰色で粒の粗い塩。薬草を混ぜた高価な塩。
「どれ?」
リタが尋ねた。
「用途は同じです」
「値段違うよ」
「最も安いものを選びます」
灰色の塩を取る。
店主が、煮物なら白い方が味が柔らかいと説明した。
ソラは灰色を棚へ戻した。
「なぜ変えたん?」
「煮物に使用するためです」
「値段は?」
「予算内です」
「ほいじゃ、ええね」
家へ帰り、白い塩でリタがスープを作った。
味が柔らかいという違いは、ソラには分からなかった。
「どう?」
「塩味です」
「それ以外」
「豆と根菜の味があります」
「うまい?」
「一般的には、美味しいと判断できます」
「あんたは?」
「不明です」
リタは自分の椀を飲み、首を傾げた。
「ちょい薄いね」
塩を足す。
ソラも同じように足した。
二口飲む。
「違いは?」
「先ほどより塩味が強いです」
「どっちがええ?」
「どちらも摂取できます」
「道のり長いねえ」
リタは笑った。
二度目の買い物では、ソラが店へ入り、リタは外で待った。
紙に書かれていたのは、蝋燭、石鹸、乾燥肉。
すべて指定された量を買った。
残った金で、灯油も一瓶買った。
「頼んどらんよ」
家へ帰る途中、リタが瓶を見る。
「戸棚の残量が少なかったためです」
「自分で考えたん?」
「はい」
「ええ買い物じゃね」
必要な物を、自分で見つけて買った。
その日のリタは、最初に灰色の服を選んだときより長く笑った。
三度目は、一人で行った。
買い物を終えて帰る途中、菓子屋の前を通った。
砂糖を固めた小さな菓子が、木箱へ並んでいる。
以前、リタが同じものを見て、値段を確かめてから買わなかったことがあった。
ソラは一つ買った。
家へ戻り、リタへ渡す。
「何これ」
「菓子です」
「見たら分かる。頼んどらんよ」
「以前、見ていました」
「見とったけど」
「必要ではありませんでしたか」
「必要じゃないよ。食べたかっただけ」
リタは包みを開けた。
菓子を二つに割り、半分をソラへ差し出す。
「あんたも食べ」
「私は必要ありません」
「必要じゃないもん買うたんじゃろ。必要じゃないけえ食べるんよ」
理論は不明だった。
ソラは受け取った。
口へ入れる。
強い甘みが舌へ広がった。
「どう?」
「甘いです」
「好き?」
「不明です」
リタは自分の半分を食べた。
「うちは好き」
表情を見れば、言葉と状態が一致していた。
ソラはもう一度、口に残る甘みを確認した。
嫌ではなかった。
だが、次も欲しいかと問われれば、答えは出なかった。
「これは、師匠が好きなものです」
「そう。あんたが選んだけどね」
「私が好きなものではありません」
「あんた、今日自分で一個増やして買うたじゃろ」
「師匠のためです」
リタは菓子の包みを畳んだ。
「それも大事。でも次は、自分のために一個選んでみんさい」
「必要なものをですか」
「必要ないもん」
「基準がありません」
「欲しい思うたやつ」
「欲しいという状態が分かりません」
「ほいじゃ、見たあともう一回見たいやつ」
初めて、判断に使える条件が示された。
言葉も知識も最初からあった。
足りなかったのは、自分で行動を始める理由だった。
「今日は紙と薬草。それから、なんか一個好きなもん買うてきんさい」
出かける前、リタが言った。
「必要なものは、紙と薬草です」
「じゃけえ、必要ないもんを一個」
「なぜですか」
「宿題」
ソラは答えを得られなかった。
町の道具屋で紙を買い、薬種店で指定された薬草を買った。
必要な行動は終わった。
残った金を持ち、市場を歩く。
食べ物は家にある。服も足りている。武器はカイルから借りており、練習に必要な道具も揃っていた。
必要のないものは多かった。
その中から一つを選ぶ基準がない。
露店には、色のついた石、木彫りの動物、髪飾り、古い硬貨が並んでいる。
ソラは一つずつ見た。
何も買わず、市場の端まで来た。
そこに、古本を並べた店があった。
実用書、物語、古い地図。
一冊の表紙に、青い海と白い塔が描かれていた。
『西海岸の町々』。
頁を開く。
海に面した街道。崖の上の修道院。塩を採る島。どれも、ソラが見たことのない景色だった。
本を閉じる。
必要かどうかを考えた。
生活にも、魔法にも、剣にも必要ない。
それでも、もう一度頁を開きたいと思った。
「これをください」
自分から店主へ話しかけた。
家へ帰ると、リタは居間で時間魔法の紙を広げていた。
ソラが入っても、すぐには気づかない。
術式の端へ、ごく細い線を書き足している。
「師匠」
呼ぶと、顔を上げた。
「おかえり。遅かったね」
「選んでいました」
ソラは買ったものを並べた。
紙。薬草。そして本。
「それにしたん?」
「はい」
「なんで?」
「見たことのない場所が載っています」
「役に立ちそう?」
「いいえ」
「それでも欲しかった?」
ソラは考えた。
「もう一度、見たいと思いました」
リタは笑った。
大げさに褒めることも、理由を分析することもしなかった。
「ほいじゃ、ええ買い物したね」
それだけだった。
「師匠は、行ったことがありますか」
「西海岸?」
「はい」
「昔、仕事で一回だけ。海の魚はうまかったよ」
「本には、食事についても書かれています」
「ほんま? 見せて」
ソラは隣の椅子へ座り、本を開いた。
リタは指で挿絵をたどり、行った町と行っていない町を話した。
四人で旅をしたときの話も出た。
「ガレスが宿代けちってね。屋根が半分ない宿へ泊まったんよ」
「眠れましたか」
「雨降ってきて、全員で酒場へ逃げた」
「楽しそうですね」
リタの指が止まった。
「うん。楽しかったよ」
声から、楽しさとは別のものを感じた。
以前のソラなら、声量や呼吸の変化として記録した。
今は、その理由を知りたいと思った。
しかし、聞けばリタが困るようにも思えた。
ソラは次の頁を開いた。
「この町は?」
「そこは行ったことない」
「行きたいですか」
リタは挿絵を見た。
「行きたいね」
「では、いつか行きましょう」
言ってから、それが指示されていない言葉だと気づいた。
リタも気づいたようだった。
「うん」
嬉しそうに答えた。
その日から、本はソラの机へ置かれた。
必要のないものを、彼は何度も開いた。
最初は、最初の頁から順に読んだ。
二度目は、白い塔の挿絵がある頁から開いた。
三度目は、塩を作る島の頁を選んだ。
どこを読むかを決めるとき、用途や順序を考えなかった。
もう一度見たい場所を開いた。
「それ、好きなんじゃない?」
リタが時間魔法の紙から顔を上げた。
「本を、ですか」
「同じとこばっかり見よる」
「記述を記憶するためです」
「もう覚えとるじゃろ」
ソラは頁を閉じた。
白い塔の形も、周囲の文章も、すでに記憶している。
それでも開いていた。
「好きいうことにしとこ」
リタが言う。
「他者が決めるものですか」
「違うよ」
「今、師匠が決めました」
「仮よ、仮。あんたが違う思うたら変えたらええ」
「違うとは思いません」
「ほいじゃ、好き」
ソラは本へ手を置いた。
好き。
それが最初の一つになる可能性はあった。
本の後ろには、西海岸の料理がいくつか載っていた。
塩漬けの魚と豆を煮る料理なら、この町でも材料が手に入る。
「作ってみる?」
リタが提案した。
「調理経験はありません」
「うちも、この料理はない」
「失敗する可能性があります」
「失敗せん料理人は、料理しよらん奴だけ」
魔法を教えたときと同じ言葉だった。
翌日、二人で市場へ行った。
魚は三種類あった。
「どれ?」
「本では、白身で脂の少ない魚を指定しています」
「三つとも白いよ」
ソラは店主へ、脂の量を尋ねた。
店主は中央の魚を勧めた。
「これにします」
「本のと同じ?」
「種類は違います。条件が近いものです」
「応用利くようになったね」
「店主が選びました」
「聞いたんはあんたじゃろ」
家へ帰り、調理を始めた。
ソラが魚を切り、リタが豆と香草を量る。
リタの左手では、硬い豆の袋を開けられなかった。
ソラが受け取る。
「頼んどらんよ」
「開かないためです」
「よう気づきました」
「観察しました」
「それでも」
鍋を火へ掛ける。
リタは普通の竈を使った。
「魔法ではないんですか」
「今日の魔力、もう使うたけえね」
朝、寝台から起きるために使った。
窓を開けたとき、重い枠を動かすためにも使った。
残りは、夜に身体を温める分だった。
ソラは竈の火を見た。
自分なら、鍋を何日も熱し続ける魔力がある。
「私が火を維持します」
「練習になるけえ?」
「はい。それと、師匠の魔力を残せます」
リタは返事をしなかった。
少しして、竈から薪を抜いた。
「ほいじゃ任せる。弱火よ」
ソラは鍋底へだけ熱を作った。
最初は強すぎて、煮汁が吹きこぼれた。
リタが布を投げる。
二人で拭く。
二度目は弱すぎて、豆が硬いままだった。
予定より一刻遅れて、料理ができた。
見本の挿絵より色が濃く、魚は半分崩れている。
二つの椀へ分けた。
「どう?」
リタが尋ねる。
ソラは一口食べた。
塩味。魚。豆。香草。
以前なら要素を列挙して終わっていた。
もう一口食べる。
「香草が多いです」
「嫌?」
「少ない方がよいと思います」
「なんで?」
「魚の味が分かりにくいので」
リタの手が止まった。
「それ、好みじゃん」
「一般的な料理の評価ではなく?」
「うちは、香草多い方が好きよ」
同じ料理を食べ、評価が分かれた。
どちらかが間違いということではない。
ソラは三口目を食べた。
「私は、少ない方が好きです」
初めて、自分の食べ物の好みを言った。
リタは大げさに褒めなかった。
ただ、自分の椀へ香草を少し足し、ソラの椀には足さなかった。
「次は分けて入れようね」
「次も作りますか」
「あんたが作りたいなら」
ソラは椀の中を見た。
失敗した部分がある。
次は火を弱くし、香草を減らせば、違う味になる。
「作りたいです」
本以外に、好きなものが一つ増えた。
正確には、同じ料理をもう一度、今度は自分がよいと思う形で作ることだった。




