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自称大魔導士と空の名前  作者: 白瀬余白


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第三十四話 命令ではなく

リタの家は、王都から馬車で半日ほど離れた町にあった。


平屋の小さな家だった。


寝室が二つ。居間と台所。裏には、魔法の練習ができる程度の庭がある。


ソラは入口に立ち、内部を観察した。


一人で暮らすには、椅子が多い。


食卓の周りに四脚ある。うち二脚は長く使われておらず、表面へ薄く埃が積もっていた。


「何しよるん。入りんさい」


リタが奥から呼んだ。


ソラは家へ入った。


ついてくるよう命じられた行動は、ここで完了した。


次の指示を待つ。


リタは戸棚から服を出していた。大きさが合いそうなものを床へ並べる。


「カイルの置いてった服。ちょい古いけど、うちの外套よりはましじゃろ」


「カイルとは誰ですか」


「幼馴染。今は知らんでええよ」


濃い灰色と、薄い茶色の上着を持ち上げた。


「どっちがええ?」


「どちらでも構いません」


「ほいじゃ、どっち?」


「選択する必要がありますか」


「ある」


「理由は?」


「うちが決めたら、あんたはそれ着るじゃろ」


「はい」


「それが嫌なんよ」


ソラは二着を見た。


機能に違いはない。温度への適性も、耐久性もほぼ同じだった。


「選択の基準がありません」


「そんなら、今決めんでええ。触って、着て、あとで好きな方選びんさい」


リタは二着とも押しつけた。


ソラは受け取った。


好き、という概念は知っている。


特定の対象へ好意を持ち、他より望ましく感じる状態。


彼の中に該当する状態はなかった。


「寝る部屋はこっち」


リタが廊下の扉を開く。


簡素な寝台と、小さな机がある。窓の外には裏庭が見えた。


「ここを使用すればよいですか」


「使いたかったら」


「使用しない場合は?」


「居間でも外でも、好きにしたらええ」


「どれが正解ですか」


リタが黙った。


答えを考えているのではない。


何かを堪えるように、口を閉じている。


「ソラ」


「はい」


「あんたは、うちの命令を聞くために連れてきたんじゃない」


「では、何のためですか」


「死なせる意味がなかったけえ。外へ出した方がええと思ったけえ。そんだけ」


リタは寝台へ腰を下ろした。


座る動作の途中で、右脚を手で支えている。


「ここにおるんも、出ていくんも、あんたが決めてええよ」


「判断基準がありません」


「今すぐ決めんでええ。外のこと知ってから考えんさい」


「私が危険な場合は?」


「うちが止める」


「殺すと?」


「そうならんようにする」


答えが変わった。


地下では、危険なことをしたら殺すと言った。


現在は、危険なことをしない方法を先に選んでいる。


「質問があります」


「なに?」


「なぜ、私に選択させるのですか」


「あんたのことじゃけえ」


「私のこと」


「誰かに決めてもらったことだけしよったら、その人がおらんようになったとき困るじゃろ」


リタは笑った。


「それに、自分の人生を人に使わせるん、もったいないよ」


ソラは返答しなかった。


人生という言葉は知っている。


自分にもそれがあると言われたのは初めてだった。


最初の選択は、椅子だった。


食卓の周りに四脚ある。


リタが普段使っているのは、台所に近い一脚だった。座面の布が最も擦れている。


残り三脚のうち、二脚には薄い埃が積もっていた。


「どれ座る?」


「リタが使用していないものです」


「三つあるね」


「はい」


「どれ?」


ソラは比較した。


窓側の一脚は日が当たる。廊下側は出入りしやすい。正面の椅子は、リタの顔が見える。


機能として最も有用なものを選ぼうとする。


用途が決まっていないため、選べない。


「立っています」


「それは四つ目の選択じゃろ」


リタは笑った。


自分で正面の椅子を引き、埃を袖で払う。


「今日はここ。明日から自分で決めんさい」


「今日はリタが決めました」


「そうよ。うちが腹減っとるけえ」


食事は、城下で買った黒いパンと、宿から持たされた煮豆だった。


リタは皿を二つ並べた。


片方へ多く盛り、もう片方へ少なく盛る。


「どっち?」


「必要な栄養量は、私の方が多いと推測します」


大きい皿を取る。


「正解」


「選択ではなく、計算です」


「最初はそれでええよ」


リタは小さい皿を取った。


二口食べ、手が止まる。


ソラは観察した。


食欲がない。あるいは、右手の痛みでスプーンを保持しにくい。


「食べないのですか」


「食べよるよ」


「停止しています」


「人はずっと同じ速さで食べんの」


リタはもう一口食べた。


ソラは自分の皿を空にした。


味は、塩味と豆の苦み。温度は低い。


美味しいかと問われれば、一般的な基準では美味しくないと判断できる。


自分がどう感じるかは、分からなかった。


食後、リタは濃い灰色と薄い茶色の上着をもう一度差し出した。


「着てみた?」


「まだです」


「ほいじゃ着て」


灰色を着る。


肩幅は合う。袖は少し短い。


茶色へ替える。


袖は合うが、首元が狭い。


「どっち?」


「灰色です」


「なんで」


「動作を妨げません」


「よし」


「好きではありません」


「分かっとる。今日は着やすい方を選べたけえ、ええんよ」


選択の基準は、好きでなくてもよいらしい。


次は窓だった。


「開ける?」


外気温。室温。リタの身体が冷えやすいこと。換気の必要性。


「短時間だけ開けます」


「うち、寒いけど」


ソラは窓を閉めた。


「なんで閉めるん」


「リタが寒いと言ったので」


「開けたいなら、うちが一枚着るよ」


「開けたいという希望はありません」


「ほいじゃ閉めとこ」


窓を開ける必要性と、リタの寒さを比較して決めた。


それでもリタは、選択として扱った。


夜、寝室へ入る。


寝台を使うか、居間へいるか、外へ出るか。


リタは、もう聞かなかった。


「おやすみ」


それだけ言い、自分の部屋へ入った。


ソラは寝台へ腰を下ろした。


身体に睡眠が必要なことは知っている。


寝台でなくても眠れる。床の方が出入口を監視しやすい。外は視界が広い。


窓から、夜空が見えた。


城の外で初めて見た空とは色が違う。


黒い背景に、小さな光がある。


知識では星と呼ぶ。


ソラは窓際の寝台を使った。


理由は、夜空が見えるからだった。


それが好きなのかは、まだ分からなかった。


翌朝、目を覚ました。


次の指示はない。


リタの部屋から音もしない。


ソラは寝台へ座り、待った。


日が窓枠から床へ移動する。


居間で物が落ちる音がした。


部屋を出ると、リタが水差しを床へ落としていた。


割れてはいない。水だけが広がっている。


「起きとったん?」


「はい」


「なんで出てこんかったん」


「指示がなかったので」


リタは濡れた床を見た。


怒るかと予測したが、怒らなかった。


「朝、目ぇ覚めたら起きてええんよ」


「毎日ですか」


「毎日」


「リタが眠っていても?」


「起こさんよう静かにしとって」


「何をすればよいですか」


「何してもええ」


「基準がありません」


リタは杖を水へ向けた。


薄い膜を作り、床の水を一つに集める。浮かせるほどの魔力は使わず、布で吸いやすい場所へ寄せただけだった。


「まず、顔洗う。腹減っとったら食べる。家ん中汚れとったら掃く。外出たかったら出る」


「すべて行うのですか」


「したいもんだけ」


「したいものがありません」


「ほいじゃ、気づいたもん一個」


リタは布をソラへ渡した。


「今、床濡れとるじゃろ」


「はい」


「うちは手ぇ痛い。あんたは動く。どうする?」


「拭きます」


「命令じゃないよ」


「床が濡れたままでは、転倒する可能性があります」


「それでええ」


ソラは床を拭いた。


自分がしたいからではない。


必要だと判断したからだった。


それでも、リタの命令だけで行動したわけではなかった。


三日目、リタは一人で町へ出た。


「昼過ぎに帰る。留守番してもしなくてもええよ」


「家を離れた場合、誰が管理しますか」


「泥棒に入られたら困るね」


「では、留守番します」


「それ、うちが留守番せえ言うたんと同じにならん?」


「家の安全を維持するために選びました」


「ほいじゃ、ええか」


リタが出る。


ソラは居間へ立った。


家の管理に必要な行動を考える。


戸締まり。異常の監視。


それ以外はない。


食卓の椅子へ、昨日払った埃がまた薄く積もっていた。


布を取り、四脚すべてを拭いた。


台所の棚には、洗った皿が置かれている。乾いていたため、戸棚へ戻した。


床に泥がある。箒で掃いた。


どれも、家の安全へ直接関係しない。


必要性は低い。


それでも、目についたから行った。


昼を過ぎると、することがなくなった。


ソラは正面の椅子へ座った。


窓の外を見る。


通りを人が歩く。隣家の犬が、庭で眠っている。空には雲がある。


リタが帰ってきたのは、日が少し西へ傾いてからだった。


扉を開け、足を止める。


「何これ」


「家の中を清掃しました」


「うち、頼んだ?」


「いいえ」


「なんで?」


「埃と泥があったためです」


リタは、掃かれた床と並んだ皿を見た。


それから、笑った。


「助かった。ありがと」


ソラは、教わった返答を使った。


「どういたしまして」


その夜、食卓の椅子を自分で選んだ。


リタの正面だった。


翌日、扉を叩く音がした。


リタは町の診療所へ行っている。


留守番をすることは、ソラが選んだ。


扉を開ける。


隣家の女が、空の器を持って立っていた。


「塩を切らしてね。少し分けてもらえないかい」


家に塩はある。


しかし、それはリタの所有物だった。


貸すよう指示されていない。


「できません」


「ないのかい?」


「あります」


「あるけど、駄目?」


「私のものではありません」


女は困った顔をした。


「そう。じゃあ、ほかへ行くよ」


扉が閉じる。


夕方、リタへ報告した。


「なんで貸さんかったん」


「所有者の許可がありません」


「塩くらいええよ」


「どの物品まで許可なく貸せますか」


「どれいうか。ちょっと貸して、返ってこんでも困らんもん」


「塩は返却されません」


「そういう意味じゃないわ」


リタは戸棚を開けた。


塩、乾燥豆、油、布、蝋燭。


「このへんは、ちょっとならええよ」


「刃物は?」


「誰に貸すかによる」


「硬貨は?」


「いくらかによる」


「魔法の資料は?」


「絶対駄目」


「一貫した基準がありません」


「相手と物で決めるんよ」


「隣人についての情報が不足しています」


「ほいじゃ、知りに行こうか」


リタは塩を小さな器へ入れた。


ソラへ渡す。


「今からですか」


「晩飯、もう作っとるかもしれんけどね」


二人で隣家へ行く。


女は驚いたあと、笑って塩を受け取った。


「律儀だねえ。さっきは怖い顔していたから、追い返されたのかと思ったよ」


「怖い顔ではありません」


「いつもそれなん?」


リタが尋ねる。


「表情を作る必要がありますか」


「必要ないけど。ちょい愛想あると、話しやすいね」


「愛想とは?」


女が笑う。


「リタ、ずいぶん難しい子を拾ったね」


「うちも困っとる」


「困っていますか」


「冗談よ」


冗談。


事実ではないことを、相手も事実ではないと理解する前提で言うもの。


ソラには、その前提が共有されていなかった。


「不正確です」


「そこから教えるんかあ」


リタは大きく息を吐いた。


帰りに、隣家の女から卵を二つもらった。


塩より価値が高い。


「交換になっています」


「向こうがくれたんよ」


「借りを返したのですか」


「返したいうより、お礼」


「違いは?」


「借りは返さんといけん気がする。お礼は、したいけえする」


「彼女は、卵を渡したかった?」


「たぶんね」


家へ戻り、リタは一つを焼いた。


もう一つは戸棚へ残す。


「なぜ両方食べないのですか」


「明日の楽しみ」


必要な食料を、必要なときまで保存することとは違う言い方だった。


明日、食べたいから残す。


それも選択らしい。


その週、リタはソラへ町を案内した。


診療所。市場。井戸。衛兵の詰所。宿屋。町の外へ続く道。


「道は、どこへ続いていますか」


「東は王都。西は山越えて、いろんなとこ」


「行ってよいですか」


「行きたかったら」


「戻らなくても?」


リタはすぐには答えなかった。


杖の先で、小石を一つ転がす。


「あんたの人生じゃけえ、うちは止められんよ」


「戻ることを望みますか」


「そりゃ、まあ」


言いにくそうに横を向く。


「拾うたばっかりで逃げられたら、うちの人望が疑われるじゃろ」


「冗談ですか」


「半分」


「残り半分は?」


「帰ってきてほしい」


ソラは西へ続く道を見た。


見たことのない場所へ行く理由は、まだない。


この町へ戻る理由も、本来はない。


それでも、リタが戻ることを望んでいる。


「今日は帰ります」


「今日、出ていく話しとったん?」


「いいえ」


「ほいじゃ、わざわざ言わんでええわ」


リタは笑った。


ソラは家まで、彼女の隣を歩いた。


翌朝、残していた卵を二人で食べた。


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