第三十三話 ソラ
青年は、リタの三歩後ろを歩いた。
ついてくるよう指示されたためだった。
前を歩く個体は、成人女性。赤い髪。身体の複数箇所に重い損傷。移動時、右脚と左手へ微量の魔力を使用している。
魔力の総量は少ない。
使用効率は、青年が持つ一般知識の基準から大きく外れていた。
彼は観察した。
必要かどうかは分からない。指示されていないため、質問はしなかった。
二人は地上へ出た。
昼の光が、青年の視界へ入る。
崩れた城壁。風に揺れる草。雲。その奥に広がる青い空。
青年は頭を上げた。
「何見とるん」
リタが振り返る。
「空です」
「空くらい知っとるじゃろ」
「知識として知っています」
「見るんは初めて?」
「はい」
リタも空を見た。
それから青年の顔へ視線を戻す。
淡い青の瞳。
日の下で見ると、空の色とよく似ていた。
「空と同じ色しとるな」
リタは言った。
青年は、何を指しているのか判断できなかった。
「目よ。あんたの目」
「はい」
「名前ないと、不便じゃね」
「はい」
リタは少し考えた。
長くは考えなかった。
「ほんなら、ソラじゃ」
「ソラ」
「あんたの名前」
青年は、その音を知識の中で探した。
空。
頭上に広がるもの。
青い色。
そして今、青年自身を指す名称。
「私は、ソラ」
「そう。呼んだら返事しんさい」
「はい」
「ソラ」
「はい」
「もう一回。ソラ」
「はい」
リタは満足したようにうなずいた。
同じ問いと同じ返答を繰り返す用途は不明だった。
しかし、二度目の音は、一度目より早く自分へ結びついた。
「ほいじゃ、行こうか」
リタが歩き出す。
ソラは三歩後ろを保った。
城内へ入ったときより、リタの移動速度が低下している。
右脚へ流す魔力が、何度か途切れた。
途切れるたびに身体が傾き、杖で支える。
ソラは観察した。
補助を命じられていない。
ついてくることだけを命じられている。
「あんた、ちょっと隣歩いて」
リタが振り返った。
「はい」
三歩の距離を詰める。
「反対。右」
位置を変える。
リタは右腕をソラの肩へ置いた。
「杖より高いね、あんた」
「身長差があります」
「見たら分かる」
「はい」
「こういうとき、なんか言うんよ」
「何をですか」
「うちが知りたいわ」
回答を求められたが、問いの条件が不足していた。
ソラは黙った。
リタは一度笑い、すぐに咳をした。
口元を覆った手に、少量の血が付いた。
ソラはその色を確認した。
「傷が開いています」
「古傷。いつものことよ」
「治療が必要ですか」
「今はええ」
「はい」
それ以上、尋ねなかった。
リタはソラの横顔を見た。
「心配は、せんのじゃったね」
心配。
好ましくない結果を予測し、不安に感じること。
リタの身体には、複数の好ましくない結果が予測できた。
しかし、ソラの内部に不安は生じなかった。
「はい」
「正直じゃねえ」
リタは怒らなかった。
肩へ置く腕の重さを少し増やした。
「うちはリタ」
「リタ」
「呼び捨ては、まだ早いわ」
「どのように呼べばよいですか」
「そこは、あとで考える」
「承知しました」
「はいでええ言うたじゃろ」
「はい」
城の入口に、警備の兵が二人いた。
リタが一人で入ったことは記録されている。二人で出れば、説明が必要だった。
兵が槍を横へ出した。
「その男は誰だ」
リタは一瞬だけ止まり、ソラを見た。
「城ん中で迷うとった旅人」
「封鎖区域に、どうやって旅人が入る」
「三年前からおったんかも」
兵の顔が険しくなる。
「ふざけないでいただきたい」
「ふざけとらんよ。この子、記憶ないんじゃって」
リタが肘でソラの脇をついた。
「ね?」
何への同意を求められたのかを判断する。
自分には個人的な記憶がない。
「はい」
「氏名は」
兵が尋ねる。
「ソラです」
「どこの出身だ」
「不明です」
「城で何をしていた」
「待機していました」
兵の手が槍へ強くかかる。
リタがソラの前へ出た。
「ほら、何も分からんじゃろ。うちが引き取って、王都で調べる」
「上官へ報告します」
「うちからするよ。ここで待っとったら日ぃ暮れるけえ、先帰るね」
「待ってください」
リタは止まらなかった。
止めようとすれば触れなければならない。傷だらけでも、魔王を倒した英雄へ手を掛けることを、兵はためらった。
城門を出る。
「今の話、覚えとかんでええよ」
リタが小声で言った。
「旅人ではないということですか」
「そう」
「私は三年前から待機していません」
「そう」
「虚偽でした」
「世の中には、必要な嘘もあるんよ」
「どのような場合ですか」
「今みたいなとき」
条件としては不明確だった。
ソラは、必要な嘘という分類だけを記憶した。
城下へ着くと、リタは衣服を買った。
店主はソラを見て、既製品で合うものを何着も奥から出した。
「どれがいい?」
リタが尋ねる。
「用途は同じです」
「色」
黒、茶、灰色。
耐久性と汚れの目立ちにくさを比較する。
「灰色です」
「好きなん?」
「最も汚れが目立ちにくいです」
「ほいじゃ、好きなんじゃなくて便利なやつね」
リタは三着すべて買った。
「なぜ全部ですか」
「着替え要るじゃろ」
「一着で移動は可能です」
「洗うとき裸になるん?」
「必要であれば」
「必要ないけえ三着」
店主が笑った。
ソラは笑われた理由を尋ねなかった。
灰色の服へ着替え、リタの外套を返した。
外套の内側には、乾いた血が付いていた。
自分の血ではない。
「洗うけえ、ええよ」
リタが受け取る。
その声は、先ほどより弱かった。
宿へ着くと、彼女は寝台へ座る前に崩れた。
ソラは身体を受け止めた。
命じられてはいない。
隣を歩くため肩を貸していたため、倒れる方向が腕の中だった。
「大丈夫ですか」
知識にある確認文を使用した。
リタは目を閉じたまま笑った。
「ようできました」
何ができたのかは、分からなかった。
宿の店主が駆け寄ってきた。
「奥さん、大丈夫か」
「古傷があります。休息が必要です」
知識の中から、必要な返答を選ぶ。
「部屋へ運べるか」
「はい」
ソラはリタを抱え上げた。
先ほど穴を越えたときより、身体が軽く感じられた。
重量は変わっていない。自分の認識が変化した理由は不明だった。
寝台へ寝かせ、店主が持ってきた毛布を掛ける。
「あんたは、ご主人かい」
「違います」
「息子には見えないね。護衛か?」
「不明です」
「自分のことだろう」
店主は困った顔をした。
「名前は」
「私は、ソラです」
名前を付けられてから、初めてリタ以外の者へ使った。
店主は一度で覚えた。
「ソラ。湯と布を持ってくる。あんたは、その人を見てな」
「はい」
店主が部屋を出る。
ソラは寝台の横へ立ち、リタを見た。
呼吸。体温。魔力の流れ。
観察する対象は、城を出る前と同じだった。
ただ、何かを尋ねられたとき、自分を指す言葉が今はある。
ソラ。
翌朝、リタは一人で起き上がれなかった。
寝台の端へ手を置き、身体を持ち上げようとする。右腕が震え、すぐに肘から崩れた。
ソラは横に立って見ていた。
助けるよう指示されていない。
昨夜は倒れる位置にいたから受け止めた。今は触れなければ、彼女は寝台へ戻るだけだった。
「見物料取るよ」
リタが息を切らしながら言った。
「何を見ていますか」
「うちが起きられんとこ」
「はい」
「こういうときは、手ぇ貸そうか言うん」
「手を貸しますか」
「疑問形にしただけじゃね」
ソラは右手を差し出した。
リタはそれを掴む。
「引っ張りすぎんでよ」
「適切な強さが不明です」
「ゆっくり。うちが立てるぶんだけ」
ソラは、彼女の腕へかかる力を確かめながら持ち上げた。
リタは床へ両足をつき、杖を取る。
「そう。ようできました」
昨夜と同じ言葉だった。
今度は、何ができたか分かった。
宿を出る前、店主が朝食を二人分出した。
卵と薄い粥。塩漬けの野菜。
ソラはすべて食べた。
リタは卵を半分と、粥を数口だけ食べた。
「残すのですか」
「入らん」
「食事を摂らなければ、回復が遅れます」
「あんた、医者じゃったっけ」
「一般知識です」
「身体が言うこと聞かんときもあるんよ」
彼女は残った卵をソラの皿へ移した。
「食べんさい」
「命令ですか」
「頼みごと」
違いは分からなかった。
食べることに不利益もないため、ソラは卵を口へ入れた。
「味、分かる?」
「塩味があります」
「美味しい?」
一般的な評価を答えることはできた。
「多くの人間が好む味だと推測します」
「あんたは?」
「不明です」
リタは笑わなかった。
「ほいじゃ、これから見つけようか」
何を見つけるのか、ソラは尋ねなかった。
城跡からリタの家までは、馬車を使っても四日かかった。
一日目の午後、乗合馬車へ乗る。
リタが二人分の運賃を払った。
ソラは硬貨の枚数を数えた。
「私の分も必要ですか」
「そりゃね」
「私は硬貨を持っていません」
「うちが払う」
「返済方法は?」
「あとで働いたらええよ」
「何をすれば対価になりますか」
リタは馬車の狭い席へ腰を下ろした。
「今は、うちが倒れんよう隣おって」
「それが労働ですか」
「護衛いうたら、それっぽいじゃろ」
ソラは彼女の右隣へ座った。
馬車が動き出す。
揺れるたび、リタの身体が傾いた。ソラの肩へ当たり、離れ、また当たる。
三度目に、彼女は離れなかった。
「寝ますか」
「ちょっとね」
「到着したら起こします」
「頼む」
リタは目を閉じた。
ソラは前方を見た。
同乗している老夫婦が、向かいの席から二人を見ている。
「姉弟かい」
老婆が尋ねた。
「違います」
「夫婦には見えんしねえ」
「違います」
「では、何だい」
ソラは答えを持っていなかった。
城の兵へは旅人と説明した。
宿では、護衛かと尋ねられた。
リタは運賃の対価として隣にいることを護衛と呼んだ。
しかし、それは今だけの役割だった。
「不明です」
老婆は困った顔をした。
隣の老人が、余計なことを聞くなと小声で止めた。
リタは眠ったままだった。
最初の宿場へ着く。
ソラは約束どおり、リタを起こした。
「到着しました」
肩を揺らす。
反応がない。
もう一度呼ぶ。
呼吸はしている。
体温もある。
それでも、胸の内側にわずかな変化が生じた。
好ましくない結果を予測したための反応。
知識では、不安と呼ぶ。
「リタ」
声が大きくなった。
リタが薄く目を開ける。
「呼び捨てしたね」
「起きなかったためです」
「聞こえとったよ」
「では、なぜ返答しなかったのですか」
「起きるん、しんどかった」
ソラは彼女の顔を見た。
「今のは、心配ですか」
リタが目を開いた。
「自分で分かったん?」
「定義に一致します」
胸の変化は、リタが目を開けると小さくなった。
「たぶん、そうじゃね」
リタは笑った。
「初めての心配が、うちが寝汚いせいなん、なんか嫌じゃねえ」
「寝汚いとは?」
「今は知らんでええよ」
二日目、道の脇で車輪が外れた。
御者と乗客が馬車を持ち上げようとする。
ソラは頼まれる前に降りた。
車体の端へ手を入れ、一人で持ち上げる。
御者が口を開けた。
「あんた、何者だ」
「ソラです」
「名前じゃなくてだな」
他に答えはなかった。
リタが窓から顔を出す。
「うちの弟子よ」
「何の?」
「これから考える」
初めて聞く分類だった。
車輪を戻したあと、御者はソラの運賃を半分返した。
リタはその硬貨をソラへ渡した。
「あんたが働いて返ってきた金じゃけえ」
「リタが支払ったものです」
「でも、戻したんはあんたじゃろ」
ソラは受け取った。
初めて持つ、自分の硬貨だった。
宿場で何か買えと言われた。
必要なものはない。
店を三軒見た。
食料。布。刃物。木の器。
どれもリタがすでに持っている。
最後に、焼いた林檎を売る露店の前で止まった。
甘い匂いがした。
必要性はない。
身体へ有益な栄養も多くない。
「買うん?」
リタが後ろから尋ねた。
「判断中です」
「食べたい?」
「不明です」
「ほいじゃ、一個買って半分こしようや」
硬貨を一枚払った。
林檎を二つに割る。
大きい方をリタへ渡した。
「あんたの金じゃろ」
「必要な栄養量は、私の方が多いです」
「なら、大きい方食べんさい」
「リタは、朝食を残しています」
「そっち気にしとったん」
小さい方を渡した。
食べる。
熱い。柔らかい。蜂蜜と果実の甘さがある。
「どう?」
「甘いです」
「知っとる。好き?」
ソラはもう一口食べた。
判断できない。
ただ、食べる速度は朝の粥より速かった。
「不明です」
「まあ、ええよ。残りも食べんさい」
リタが自分の半分から、さらに一欠片を渡した。
ソラは受け取った。
四日目、王都から東へ延びる道を外れ、小さな町へ入った。
リタの歩幅が少しだけ広くなった。
「ここが、家のある町?」
「そう。今日から、あんたが住むかもしれんとこ」
住む。
一時的に待機する場所ではない。
「期間は?」
「決めとらん」
「私の役割は?」
「それも、これから」
「あなたとの関係は?」
馬車で老婆に尋ねられた問いだった。
リタは杖を止めた。
しばらく考える。
「今は、うちがあんたを拾うた人」
「拾った」
「嫌なら、保護した人でもええよ」
「私は、拾われたソラですか」
「それ、名前みたいに人へ言うたら駄目よ」
リタは笑いながら歩き出した。
ソラは隣を歩いた。
三歩後ろではなかった。




