第三十二話 空の器
魔力の発生源は、北塔のさらに下にあった。
崩れた階段を下り、土で塞がれた廊を抜ける。リタは指先ほどの風で空気を動かし、罠の粉を探った。
十段下りるたび、立ち止まった。
上るときのことを考えれば、ここで戻るべきだった。
地下から伝わる魔力は、弱い。
一定でもなかった。
三度脈打ったあと、しばらく消える。忘れたころに、また一度だけ動く。
生き物の鼓動に似ていた。
「魔王の心臓でも残っとるん?」
独り言が石壁へ返る。
返事の代わりに、足元の石が崩れた。
右脚が落ちる。
杖を横へ渡し、階段の両壁へ引っかけた。
身体が穴の上で止まる。
左手の指が、杖をつかみきれない。
一本ずつ滑った。
リタは残った魔力を右脚へ流し、崩れていない段へ押しつけた。
膝を外から曲げ、爪先を石の隙間へかける。
腕ではなく、脚で身体を持ち上げた。
階段へ転がる。
胸の奥が裂けるように痛んだ。
しばらく、冷たい石へ頬をつけたまま呼吸した。
「帰った方がええね、これ」
自分で言った。
戻るなら今だった。
カイルを連れてくる。城の警備へ地下の調査を頼む。それが、まともな選択だった。
地下から、また魔力が脈打つ。
今度は一度きりだった。
「一目だけ。一目見て、帰る」
誰へ言い訳しているのか分からなかった。
杖を拾い、立ち上がった。
三年前なら、まとめて吹き飛ばして進んだだろう。
今は一歩ごとに魔力を止め、同じ一滴を別の形へ使い直す。
地下の最奥に、白い扉があった。
魔王城のどこにも似ていない。装飾はなく、表面には魂と肉体を結ぶ古い術式が刻まれている。
「嫌なもん残しとるね」
扉の術式へ、残り少ない魔力を触れさせた。
魂を抜く形ではない。
外から来た魂を受け入れ、肉体へ固定する形だった。
鍵に当たる部分は空いている。
特定の魂だけを選ぶ印は、魔王が広間で灰になったときに焼けたのだろう。
今なら、誰の魂も入れられる。
王国へ知らせれば、魔王の復活より先に、この仕組みを欲しがる者が出る。
病んだ王。老いた貴族。新しい身体を望む魔法使い。
扉を開ける前から、報告してはいけないものだと分かった。
リタは杖を向けたまま、扉を開いた。
中は円形の部屋だった。
壁沿いに魔石が並び、中央には透明な液体で満たされた槽がある。
その中に、青年がいた。
裸の身体を丸めることもなく、目を閉じて浮いている。
子どもではない。
年は、リタやカイルとそう変わらないように見えた。
槽の下にある術式を読む。
肉体の成熟。
魔力回路の形成。
魂の受け入れ。
新しい器。
「魔王の身体か」
杖の先へ火が灯る。
今すぐ槽ごと焼くべきだった。
魔王は死んだ。それでも、残った魂や意志がここへ戻る可能性はある。
火を放つ直前、槽の中で青年の目が開いた。
淡い青色だった。
液体が排出され、槽の前面が開く。
青年は床へ足をつけた。
咳き込むことも、周囲を見回すこともしない。
ただ、正面にいるリタを見た。
「動かんで」
リタは火を向けた。
青年は動かなかった。
「名前は?」
「ありません」
言葉は通じる。
「自分が何か分かる?」
「成人男性型の生命体です」
「そういうこと聞いとらん。魔王を知っとる?」
「一般名称として知識があります。特定の個体については知りません」
「ここがどこかは?」
「不明です」
声に恐れも、戸惑いもなかった。
リタは火を少し近づけた。
「うちがあんたを殺す言うたら?」
「承知しました」
「抵抗は?」
「必要ですか」
「必要じゃ言うたら?」
「抵抗します」
青年の身体へ、魔力が集まった。
攻撃の形ではない。
筋肉と回路を起こし、いつでも動ける状態にしただけだった。
リタは杖を持つ手へ力を入れた。
この身体で戦えば勝てない。
青年の魔力量は、全盛期の自分よりはるかに多い。
火を放つなら、動き出す前しかなかった。
「やっぱり、抵抗せんで」
「はい」
集まった魔力が止まる。
なぜ命令が変わったのかを聞かない。
生き残るために、前の命令を優先しようともしない。
「右手上げて」
上げる。
「下ろして。後ろ向いて」
従う。
「うちを殴って」
青年が振り向き、拳を上げた。
「待って! 今のなし!」
拳が止まる。
「ほんまに殴ろうとしたん?」
「はい」
「うち、あんた殺そうとしとるんよ」
「はい」
「腹立たん?」
「腹が立つ、とは怒りを感じることですか」
「そう」
「感じません」
「怖くもない」
「はい」
「生きたいとも思わん」
「はい」
「死にたい?」
「いいえ」
初めて否定が返った。
「なんで」
「死にたいという希望がありません」
生きたいわけでも、死にたいわけでもない。
望みそのものがなかった。
火が消えた。
リタは杖を下ろしきれず、しばらく青年の胸へ向けていた。
魔王の器を残す理由はない。
感情がないから殺してはいけない、という理屈もなかった。
家畜にも感情はある。魔物にも逃げる本能がある。目の前の青年には、それすらない。
だからこそ、殺しても誰も苦しまない。
その考えが浮かび、リタは吐き気を覚えた。
苦しまない相手なら殺してよい、という答えを、自分は持ちたくなかった。
「あんた、何も命令されんかったら、ここで何するん?」
「待機します」
「いつまで」
「状態が変化するまで」
「死ぬまで?」
「はい」
槽の液体は抜けた。
水も食料もない。
扉を閉めれば、本当にその場で死ぬまで待つのだろう。
「面倒なもん見つけたねえ」
リタは杖を完全に下ろした。
青年は何も言わない。
助かったとも、次に何をするのかとも聞かなかった。
「服、要るね」
リタは自分の外套を外した。
「着られる?」
「はい」
渡すと、正しく袖を通した。
丈は足りないが、裸よりはいい。
このまま国へ報告すれば、青年は処分されるだろう。
魔王の器だと知れば、研究や兵器に使おうとする者もいる。
どちらが安全かと問われれば、ここで壊す方だった。
それでも、リタは杖を下ろした。
「ついてきんさい」
「承知しました」
「返事は、はいでええよ」
「はい」
「危ないことしたら、そんときはうちが殺すけえ」
「はい」
「怖がるとこなんじゃけどね」
青年は答えなかった。
部屋を出る。
青年は言われたとおり、後ろを歩いた。
階段まで戻ると、先ほど崩れた穴が道を塞いでいる。
下りるときに使った段は、もう残っていなかった。
「これ、上がれる?」
青年は穴の幅と深さを見た。
「はい」
助走もつけず、向こう側へ跳んだ。
着地し、リタを見下ろす。
「自分だけ行くん?」
「上がれるかと問われました」
「うちもじゃろ!」
「リタは、現在の身体能力では困難です」
「正しいけど腹立つね!」
青年は戻ってきた。
「何をすればよいですか」
リタを抱えて跳ぶことはできるだろう。
だが、その指示を自分から求めない。困っている相手を見ても、助けるという判断へつながらない。
「うちを抱えて、向こうへ跳んで」
「はい」
青年はリタの背と膝へ腕を回した。
身体が軽々と浮く。
「ちょい待ち。これ、恥ずかしいね」
「下ろしますか」
「下ろしたら渡れんじゃろ。そのまま」
青年が跳ぶ。
リタ一人分の重さなど、ないのと同じだった。
向こう側へ着き、命じられたとおり下ろす。
「ありがと」
「はい」
「今のは、どういたしまして言うんよ」
「どういたしまして」
何もこもっていない返事だった。
それでも、白い部屋へ置いていくよりはましだと思った。
リタは白い部屋を振り返る。
槽の中は、もう空だった。
その空っぽを、外へ連れていくことにした。




