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自称大魔導士と空の名前  作者: 白瀬余白


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第三十一話 三年後の花

雨の日は、右脚が動きにくい。


左手の指は三本しか曲がらず、深く息を吸うと胸の奥が痛んだ。


魔王戦から三年。


リタの身体には、治らなかった傷が残っている。


顔から首、両腕、背中、脚。服の下には、剣士でもそうはいないほどの傷跡が走っていた。


魔力回路も、ほとんど壊れた。


以前の百分の一にも満たない魔力しか、まともに流せない。


それでもリタは、杖を持っていた。


朝、寝台から起きる。


右脚へ、ごく細い魔力を流す。筋肉を強くするのではない。動かない部分だけを外から引き、膝が曲がる順番を作る。


指先ほどの火を灯し、部屋を暖める。


以前なら、考えもせずに使った魔法だった。


今は一滴でも漏らせば、火にならない。


最初の冬は、火を一つ灯すこともできなかった。


治療院を出て、この家へ戻ったばかりの夜だった。


薪はある。


油もある。


けれど、火打ち石を握る指が曲がらない。


リタは以前と同じ感覚で、指先へ魔力を集めた。


青い光が弾け、何も燃えずに消えた。


二度目は、油皿ごと床へ落とした。


三度目、残っていた魔力を使い切った。


部屋は暗く、寒いままだった。


床へこぼれた油を拭く力もなく、毛布にくるまって朝を待った。


翌日、カイルが来た。


「なぜ呼ばなかった」


「火ぃつかんくらいで、騎士様呼べんじゃろ」


「凍えて死ぬくらいなら呼べ」


「死んどらんよ」


「結果の話をするな」


カイルは油を拭き、竈へ薪を入れた。


火をつけ、食べ物を作り、翌朝まで家にいた。


リタは毛布の中で、指先の失敗を何度も思い返した。


魔力が火へ変わらなかったのではない。


一度に出した量へ、壊れた回路が耐えられなかった。


次の日は、昨日の半分を出した。


また光だけで消えた。


その次は、さらに半分。


小さくするほど火から遠ざかるように思えた。


一週間目、油皿の上で熱だけが生まれた。


炎にはならない。


それでも指を近づければ、冷えた皮膚に温度を感じた。


二週間目、煙が出た。


三週間目、芯の先が赤くなった。


ひと月目、ごく小さな火が点いた。


喜んだ途端に制御が乱れ、前髪を少し焦がした。


「何した」


その日も食料を持ってきたカイルが尋ねた。


「新しい髪型」


「嘘をつけ」


「火ぃついたんよ」


「前髪にか」


「油よ!」


もう一度見せようとして、失敗した。


翌日も失敗した。


一度できたことが、身体へ残るとは限らない。


それでも、火になった道筋を探した。


息の長さ。指の角度。油の温度。魔力を押すのではなく、壊れていない回路へ流す順番。


二度目の火は、最初から十日後だった。


三度目は七日後。


毎日点けられるようになるまで、さらに二か月かかった。


火の次は、動かない右脚だった。


次は、左手の指。


一つ覚えるたび、別の場所で同じように失敗した。


三年を使って、ようやく今の形になった。


持っていた技を取り戻したのではない。


壊れた身体で朝を迎えるたび、その朝に必要な使い方を一つずつ作った。


机の上には、夜通し書いた紙が積まれている。


時間遡行術式。


過去の一地点へ、今の存在を送る魔法。


理論の半分も完成していない。完成しても、今のリタには決して使えない。必要な魔力は、全盛期の彼女が十人いても足りなかった。


それでも研究をやめられなかった。


ガレスが火を入れる前へ。


エレナの障壁が割れる前へ。


戻れないと分かっているからこそ、戻る方法を考え続けた。


「また朝までやったのか」


扉が叩かれ、カイルが入ってきた。


三年前より少し痩せている。左肩には傷が残ったが、剣は今も握れる。


「おはよう」


「昼だ」


「ほいじゃ、こんにちは」


「食べたか」


「たぶん」


「たぶん、とは」


カイルは台所へ行った。


戻ってきた手には、蓋の付いた鍋がある。


「何それ」


「昨夜持ってきたスープだ」


「食べたよ」


「鍋が減っていない」


「見たん?」


「今見た」


机の紙を端へ寄せ、鍋を置く。


リタは椅子へ座ったまま、蓋を開けた。表面に薄い脂が固まっている。


指を鍋へ向ける。


火を作るほどの魔力は要らない。


金属の底だけへ熱を伝え、冷えた脂が溶ける温度で止める。


以前なら、鍋ごと燃やしてカイルに怒られていた。


今は湯気が一本立つまで、何十呼吸もかかった。


「台所の火を使えばいいだろう」


「立つん面倒なんよ」


「そのために魔法を使う方が疲れる」


「鍛錬にもなるじゃろ」


「食事を鍛錬にするな」


スプーンを左手で持つ。


三本の指が、思うように曲がらない。


柄が滑った。


床へ落ちる前に、カイルが受け取る。


新しい布を柄へ巻き、太くして渡した。


「これなら持てるか」


「子どもみたいじゃね」


「食べないよりましだ」


リタは一口飲んだ。


塩が濃い。


文句を言うと、もう作らなくなるかもしれない。黙って二口目を飲む。


「不味いか」


「普通」


「嘘が下手になったな」


カイルは水を足した。


鍋をもう一度温める。


今度は台所の火を使った。


食べ終わるまで、彼は帰らなかった。


カイルは机の上を見る。


紙を取ることも、やめろと言うこともしなかった。


何度も言い争い、どちらにも変えられないと分かっていた。


最初の一年は、毎週のように紙を捨てられた。


リタが研究を始めたのは、王都の治療院から戻った夜だった。


右手がまだ動かず、左手の指へ炭筆を縛りつけて、時間魔法の最初の円を書いた。


見舞いに来たカイルは、それを火へ入れた。


リタは怒鳴り、寝台から落ちた。


傷が開き、三日熱を出した。


二度目は、紙を隠した。


三度目は、カイルが捨てても書き直せるよう、式を暗記した。


何度目かで、彼は紙へ触れなくなった。


賛成したのではない。


止めればリタがもっと危険な場所へ隠すと知ったからだった。


「ここ」


カイルが式の一つを指す。


「前は三重円だった。減らしたのか」


「よう覚えとるね」


「三年見せられている」


「外側の二つは、送ったもんが時間の流れで崩れんよう固定する式。身体側へ直接かけられるなら、一個で足りる」


「完成に近づいたのか」


「理屈だけなら」


「使える者はいない」


「うん」


リタはあっさり認めた。


必要な魔力量は、計算するたび増えた。


若いころの自分でも足りない。王国中の魔法使いを集めても、一人の身体へ同じ術式を固定することはできない。


誰かに使わせるつもりはなかった。


これは戻るための道ではない。


戻れない自分が、戻れないと何度でも確かめるための課題だった。


「今日くらい、研究を置いていけ」


カイルが言う。


「持ってかんよ」


「頭の中からもだ」


「それは無理」


「即答するな」


「ガレスに怒られるね。せっかく死んだ日にまで、別のこと考えとったら」


言ってから、自分の言葉に胸を刺された。


カイルは怒らなかった。


「あいつなら、研究の穴を見つけて、三年かかったことを笑う」


「エレナは?」


「食事をしろと言う」


二人とも、少し笑った。


亡くなった仲間の話を笑ってできるようになるまで、三年かかった。


笑ったあとに痛まなくなるには、まだ足りなかった。


「今日、行くんだろう」


「うん」


リタは部屋の隅に置いた花を見た。


白い花束を二つ。


魔王戦から、ちょうど三年だった。


「俺も行く」


「今年は一人でええよ」


「その身体で?」


「この身体じゃけえ、一人で行きたいんよ」


カイルはしばらく黙った。


「無理だと思ったら戻れ」


「分かっとる」


「お前の分かったは信用できない」


「あんた、三年前から同じこと言いよるね」


「お前が三年前から変わらないからだ」


リタは笑った。


「変わったよ。こんな美人になったじゃん」


頬の傷を指す。


カイルは笑わなかった。


「帰ってこい」


「うん」


今度は、真面目に答えた。


馬車を乗り継ぎ、かつての魔王城へ向かった。


王都から国境までは、四日かかった。


揺れるたび、胸の古傷が痛んだ。


一日目の夜には右脚が腫れ、宿の階段を上れなくなった。主人に頼み、食堂の隅へ寝台を作ってもらった。


「連れはいないのか」


宿の女将が湿布を持ってきた。


「一人旅よ」


「その身体で?」


三年前から、何度も聞かれた言葉だった。


「この身体じゃけえ、一人で行くんよ」


カイルへ答えたのと同じように言う。


女将は納得しなかったが、止めもしなかった。


翌朝、杖の先へ小さな車輪を付けてくれた。


「引きずるよりはましだろう」


「大魔道士の杖が荷車になったね」


「大魔道士なら、楽をする魔法くらい使いな」


「ほんまそれ」


礼を言い、また馬車へ乗った。


国境を越えるころには、雨が降り始めた。


右脚がさらに動かなくなる。


細い魔力で膝を引き、足首を固定し、杖を前へ出す。一歩ごとに三つの操作をやり直す。


以前のリタなら、三つとも魔法と呼ばなかっただろう。


今は、それだけで歩ける。


城下から魔王城までの坂を、半日かけて上った。


途中で何度も止まった。


息を整えるたび、帰りのことを考えた。


帰れなくなれば、カイルが探しに来る。


きっと怒る。


それでも、白い花束だけは地面へ置かなかった。


戦争は終わった。


魔王国には新しい政権ができ、王国との道も細々と開いている。城下は復旧が始まっていたが、魔王城だけは崩れたまま封鎖されていた。


リタは許可証を見せ、一人で中へ入った。


最上階の広間には、まだ戦いの跡が残っている。


ガレスが立っていた柱。


エレナの障壁が割れた場所。


黒く焼けた床。


リタは二つの花束を置いた。


「遅うなってごめんね」


返事はない。


「今年はカイル置いてきた。あいつ、まだ過保護なんよ」


風が、壊れた窓から入った。


白い花が揺れる。


「うちも、長うないんじゃろうね」


自分の身体だから分かる。


年を取っているわけではない。それでも内側は、三年前から少しずつ崩れ続けている。


カイルには言っていない。


言えば、残った時間すべてを心配させる。


「そっち行ったら、また四人で旅しようや」


花へ触れ、立ち上がった。


そのとき、ごく小さな魔力を感じた。


広間ではない。


もっと下。


城の地下深くから、弱い鼓動のように伝わってくる。


リタは杖を握った。


魔王の残したものなら、確かめなければならない。


壊れた身体を引きずり、地下へ向かった。


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