第二十七話 師匠の名前
二人は祝宴を抜け、王城の客室へ入った。
窓の外では、王都の明かりが夜空まで照らしている。広場にはまだ人が残り、遠くから歌が聞こえた。
リタは扉を閉めた。
「何から聞けばええ?」
「私が話します」
ソラは窓辺に立っていた。
旅立ったときと同じ服ではない。祝宴のために用意された黒い上着を着ている。それでも顔色の悪さは隠せなかった。
「私は、未来から来ました」
リタは黙った。
理解できなかったのではない。
いくつかのことが、一度に同じ場所へつながった。
ソラを覆う、旅を続けるための魔法。
古い時の匂いがすると言った魔王。
王都へ来る約束ができなかった理由。
「どのくらい先?」
「約五年です」
「未来で、うちらはどうなっとるん」
ソラの目が揺れた。
それを見た瞬間、聞きたくないと思った。
「今回のようには、なりませんでした」
「誰が死んだん」
「エレナとガレスが、魔王との戦いで」
広間で二人が立っていた場所を思い出す。
亀裂の入った障壁。
腰の拘束具へ手をかけたガレス。
「カイルは?」
「生き残ります」
「うちは?」
「魔王を倒します。ですが、魔力回路と身体に、重い傷を負います」
ソラは順に話した。
あの広間で、ガレスは自分を拘束具の一部にして魔王を止める。致命傷を負い、最後には残った爆薬を自分ごと起動する。
魔王の力を抑えられず、エレナの障壁は破られる。彼女はカイルを庇って死ぬ。
リタは一人で無理な魔法を使い、魔王を倒す。
「ちょっと待って」
リタは椅子を引き、立ち上がった。
何をするつもりか、自分でも分からないまま扉を開ける。
祝宴の音が一気に近くなった。
廊下の先に、大広間が見える。
エレナはカイルの隣にいた。二人で同じ杯を覗き込み、何か話している。
ガレスは、酒瓶を鞄へ入れるところを給仕に見つかっていた。真顔で褒賞だと言い張っている。
二人とも生きていた。
当たり前のように動き、笑い、明日のある人間としてそこにいる。
リタは扉を閉めた。
背中を預け、しばらく動けなかった。
「あれが、なかったんじゃね」
広間の方を指す。
「エレナがカイルと踊るんも、ガレスが酒盗るんも」
「はい」
「盗っとらん言い張るじゃろうけど」
「はい」
声が震えた。
笑おうとしたのか、泣こうとしたのか分からなかった。
ソラは近づかなかった。
リタが自分で椅子へ戻るまで、同じ場所で待っていた。
「待って」
リタは手を上げた。
「あんたが来て、変わったんじゃね」
「違います」
「違う?」
「起こったことは変えられません。私がここへ来ても、私のいた世界でエレナとガレスは死んだままです。あなたも――」
ソラは言葉を切った。
「過去へ着いた時点で、別の世界が生まれます。私は、皆が生きている別の世界を作っただけです」
「そっちの世界は、今もあるん?」
「あります」
「あんたが帰ったら、変わる?」
「何も変わりません。私は、起こったことを消すことはできない」
「ほいじゃ、エレナもガレスも死んだまま。未来のうちも……」
「はい」
「それ、分かっとって来たん?」
「分かっていました」
リタは両手で顔を覆った。
喜んでよいのか分からなくなる。
この世界の二人が生きたからといって、ソラが知っている二人の死が軽くなるわけではない。
それでも、扉の向こうの笑い声を、間違いだとは思えなかった。
「なんで来たん」
手を下ろす。
「何も変えられんのに」
「この世界のあなたたちは、生きられます」
ソラは答えた。
「失った人たちが戻らないことと、これから失われる人たちを見捨てることは、同じではないと思いました」
「あんた一人で、そっちを置いて?」
「はい」
「二度と帰れんかもしれんのに?」
「それでも、私が選びました」
魔王国の村で、脱走兵へ言っていた言葉を思い出した。
あのときは、何を選んだのかまで聞こえなかった。
今なら分かる。
死んでほしくない人たち。
その中に、自分たちがいた。
祝宴の音が遠く聞こえる。
この世界では、エレナもガレスも生きている。
けれどソラが来た世界には、二人の墓がある。
「あんたは、そっちから一人で来たん?」
「はい」
「カイルを残して?」
「カイルには見送ってもらいました」
その声から、その別れが簡単なものではなかったことだけは分かった。
「それで、うちとあんたは、未来で会うんじゃね」
ソラがうなずく。
「魔王戦から三年後、あなたは戦場へ戻ります。エレナとガレスへ花を供えるために」
そこで、魔王が残していたものを見つける。
次の身体として作られていた、空の器。
青年の形をしていて、知識はあっても、自分の望みも感情も持たない存在。
「それが、私です」
「魔王の……身体?」
リタはソラを見た。
老魔王とは似ても似つかない。
「新しい器として作られていました。魔王が死んだため、魂が入らないまま残りました」
「空っぽいうても、何も分からんかったわけじゃないんじゃろ」
「言葉も、一般的な知識もありました。問いかけられれば、知っている範囲で答えられた」
「ほいじゃ、何がなかったん」
「自分です」
短い答えだった。
「何かを見ても、好きとも嫌いとも思わない。命じられなければ動かず、命じられれば理由を求めず従う。死ぬことと生きることに、違いを感じませんでした」
リタは目の前のソラを見た。
冗談に失敗して子どもへ謝った男。
自分が鼠を怖がるのを笑った男。
王都の煮込みを食べたいと言い、明日の予定を一つずつ覚えていた男。
同じ身体でも、空ではない。
「うちが、あんたを見つける」
「殺そうとします」
「……まあ、そうじゃろうね」
「首へ杖を向けました」
「そこまで覚えとるん?」
「はい」
「怖かった?」
「そのときは、怖いという感情がありませんでした」
「今、同じことしたら?」
「逃げます」
「戦わんの?」
「あなたを傷つけたくありません」
返事があまりに今のソラらしくて、胸が痛んだ。
「未来のうちも、よう殺さんかったね」
「魔王の器を王国へ渡せば、処分されるか、利用されると考えたそうです。殺す意味がなく、渡す方が危険なら、自分で見張るのが一番だと」
「うちらしいわ」
「はい」
「最初から優しかったわけじゃないんじゃね」
「殺すかどうかを、しばらく考えていました」
「そこは、ちょっとぼかして言うてもええんよ」
「嘘は言えません」
「今夜、もう一回聞いたねそれ」
魔王の身体だと分かれば、今の自分でも杖を向ける。
「ですが、あなたは私が空だと知って、連れて帰ります。名前をくれて、言葉の使い方と、選ぶことと、魔法を教えます」
名前。
リタは、淡い青の目を見た。
初めて会った町で、自分が綺麗だと言ったとき、ソラは一瞬止まった。
「ソラって名前、うちが付けたん?」
「はい」
「瞳を見て?」
「はい」
あのとき彼がどんな気持ちだったのか、今になって分かった。
名前をくれた相手が、まだ何も知らずに同じ目を見ていた。
「剣は、カイルから教わりました」
「じゃけえ、あんな似とったんじゃ」
「はい」
「師匠は?」
聞いた瞬間、答えが分かった。
ソラはリタを見ている。
「未来で私を育てたのは、あなたです」
声を出せなかった。
最初に浮かんだのは、森の道だった。
ソラが、自分の師匠も大魔道士だと言った日。
魔法を教えるのが上手く、困難な状況でも使える手段を見つけ、自分を大魔道士と呼ぶ人。
会って勝負をすると宣言した。
ソラは、できないと思うと答えた。
「あんた、あんときどんな気持ちじゃったん」
「森で師匠の話をしたときですか」
「うちが勝負する言うたとき」
「困りました」
「なんで」
「同じ人を会わせることはできません」
「言えばえかったじゃん。うちの不戦勝で」
「リタは怒ると思いました」
「怒るよ」
「ですから、言いませんでした」
「今、怒っとるけど」
「すみません」
いつもの返事だった。
それだけで、旅の途中のソラが戻ってきたように思えた。
「雨の夜、大魔道士は怖いときに役立つ言うたんも」
「師匠から聞きました」
「器用貧乏って言葉は?」
「師匠は、自分でそう言っていました」
「未来でも言うとるんじゃ」
「よく」
「そのくせ大魔道士なん?」
「はい」
「めんどくさいね、その人」
「はい」
「そこは否定しんさい」
ソラが少し笑った。
「似たような会話を、師匠ともしました」
胸の奥へ、不思議な嫉妬が湧いた。
自分自身へ妬いている。そう考えると馬鹿らしい。
それでも、ソラと一年を過ごし、今の彼を作った女を、自分は知らない。
「未来のうち、あんたのこと何て呼んどったん」
「最初は、お前。名前を付けてからは、ソラと」
「優しかった?」
「厳しかったです」
「どんなふうに」
「自分で選べと、何度も言われました。答えを聞いても、教えてくれないことがありました」
「うち、そういう意地悪しそう」
「はい」
「じゃけえ否定しんさいって」
今度はリタも笑った。
笑いながら、涙が落ちた。
知らない未来の自分が、急に近くなった。
身体を壊し、二人の仲間を失い、それでも戦場跡から空の青年を連れて帰った女。
その女がソラへ教えた言葉を、自分は旅の途中で何度も口にしていた。
同じ人間だからではない。
未来の彼女が失う前に持っていたものを、今の自分も持っているからだ。
「うち、大魔道士になれたんじゃね」
「はい」
「ほんまに?」
「私にとっては」
「その言い方、引っかかるけど」
笑おうとして、失敗した。
「未来のうちは、元気?」
ソラは答えなかった。
「元気なわけないか。身体、ぼろぼろなんじゃもんね」
「あなたは三年、生きます。その間に、ほとんど失った魔力で魔法を使う方法を身につけます」
「三年で?」
「身体を動かすために必要だったからです。魔法を使わなければ、生活もできなかった」
壊れた身体で、生きるために身につけた技術だった。
「私の魔法は、そのあなたから教わりました」
広間で、ソラはリタの術を知っていると言った。
リタが形を作るより先に、必要な場所を分かっていた。
「うちより、ずっと上手かった」
「未来のあなたは、魔力を一滴も無駄にできませんでした」
その技術が、今日の全員を救った。
胸の中に、誇らしさと、どうしようもない悲しさが同時に生まれた。
「うちら、一年くらい一緒に暮らします」
「そのあと、うちは?」
「亡くなります」
予想していても、言葉になると重かった。
「傷のせい?」
「はい」
「あんた、看取ったん」
「はい」
ソラの指が、わずかに曲がる。
「それから一年、あなたが残した時間魔法を完成させました。私の魔力なら使えた。カイルに別れを告げて、ここへ来ました」
すべてがつながった。
同時に、リタの中へ新しい疑問が生まれた。
「ねえ」
声が震えないようにする。
「あんたが好きなんは、どっちのうち?」
ソラは目を逸らさなかった。
「師匠を深く敬愛しています。私へ心と生き方をくれた、家族です」
「家族」
「あなたを愛しています」
「同じうちじゃろ」
「私には違います」
ソラは一歩近づいた。
「師匠は多くを失っていました。穏やかで、強い人でした。ですが、あなたのように笑わなかった」
リタは黙って聞いた。
「あなたは、自分を大魔道士だと大声で言う。できないことを悔しがり、次の手を探す。怒って、笑って、まだない未来を当然のように話します」
「うるさい女みたいじゃね」
「そのあなたを好きになりました」
ソラの手が、リタの手へ触れる。
「若いあなたを師匠と呼ばなかったのは、正体を隠すためだけではありません。あなたは、私の師匠ではない。私が一人の男として愛したリタです」
その言葉だけは、疑わずに受け取れた。
リタは指を絡めた。
「全部話した?」
「あと一つあります」
ソラの手が、少しずつ透けていた。
「私は、もうすぐ消えます」




